小指の思い出
かたろにあ

 

 


 昨日、台所の柱に左足の小指をぶつけた。
 涙が出るほど痛かった。
 しゃがみこんで小指をさすったが、なかなか痛みは治まらない。
 もうほんとに、こういうのは辛い。

 編集長の方から「終戦記念日の現代的意義について書いてください」と言われた時には面食らった。僕が書くの〜!! と思った。
 僕は世間が右と言えば右を向き、左といえば左を向き、終戦記念日の昼にはぼーっと「笑っていいとも」を見ているような典型的な無感覚人間だからだ。小泉首相が登場したときには、おー、かっこいいのが出てきたなと喝采を送り、失敗したら役に立たねえ口だけの奴だなと思い、いっこうに回復しない景気を政府の無策のせいにして自分はなまけている。そういうタイプだ。
 だって、あんまり重苦しいの、苦手だろう?
 
 高校生の頃は、ホントのことを言うと、「反戦、反戦」と叫んでいるおじさん、おばさん連中が好きではなかった。なにか、あんまり深くものを考えて「反戦」と言っているような気がしなかったからである。「戦争=絶対悪」という決めつけが、まず頭の中にごちんと座ってて、他の考えを受け入れもしない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってなイメージが、反戦デモからは感じられたたのである。
 もちろん、戦争が悪いのは当たり前なのだが、「きみたちは何も行動を起こさくていいのかー!」「何も感じないのかー!」と言われると、そりゃ行動はしないけど、そこまで何も考えてないわけでもないよ、と反発したくなってくるのだ。
 むしろ、一斉に「反戦」って言ってひとかたまりになっていることが漠然と不気味ですらあった。
 この「漠然とした不気味な感じ」がなにか、考えてみたことがある。とっさに思ったのは、不気味なのは「ひとつの考え方でみんなを縛って同じ方向に動いている」からだったのだ。
 
 それって、戦争そのものじゃん。

 もちろん、サルトルが言うように行動を起こすことは大切で、誰かがものを言わないと再び世の中が、あの人を人とも思わない妙ちきりんな時代に逆行する危険てのはあるのだ。
 僕も学校の時に反戦についての作文を書かされた。「戦争は悪だ」とかいろいろいっしょうけんめい考えたけど、それって実感を持ってやってるわけではなく、先生から言われて書いてたんだよな。
 たぶん、先生が「鬼畜米英」「皇国うんたら」の作文を書きなさい、と言ったら同じようにいっしょうけんめい考えて、そういうことを書いたと思うのだ。
 先生はもちろん「自分なりに考えて、正しいことを書きなさい」って言うさ。
 ところが実は、「正しいこと」ってのは最初から決まっていて、正しくないことを書くとひどく怒られるのだ。
 一時期の(あくまでも一時期の)反戦運動を見てて感じたのは、「これってひとつ方向を変える出来事が起きたら、たとえばどこかの国が攻めてきたら、意外に簡単に“挙国一致”のスローガンに置き換わっちゃうんじゃないだろうか」ってことだった。
 なんか、盲目にひとつのことを信じすぎるのが怖かった。
 たとえそれが正しいことであってもだ。(もちろん、その一方でどこかで盲目的になるくらいにしないと何もできない、ってことも真実だろう。そこらへんのさじ加減が難しい)

 首相の靖国神社参拝だって、おおむね反対であるものの、一方で、「誰かが祈ってやらないと、命令されて死んでいった下っ端の兵隊の命の意味が全然なくなっちゃうな」なんて思ったりもするのだ。未来への責任のためにどこかで、過去の死者に謝る必要がある気はしている。靖国参拝は、あまりにも複雑な問題がありすぎるので、コメントはできないけども。
 
 幸いと言えるのかしらないけども、うちの実家は田舎だったせいで、空襲がほとんどなかった。
 これを書くことになったので、いい機会だから終戦の日に何をやってたのか、両親に尋ねてみた。

 母親は隣の家でままごとをしていたという。
 母の母、祖母はその頃体調を崩していて寝ていたそうだが、親らは山奥の寺へ逃げ込もうかと相談していたそうだ。母の父、おじいちゃんは戦前に肺炎で亡くなっていたし、男はみな兵隊にとられていなくなっていた。アメリカ兵がやってきたら残虐行為を受けて皆殺しにされると言われていたので、みなおびえていたそうだ。
 終戦後しばらくしてジープでやってきた米兵は、そこらへんのイメージの塗り替えを教え込まれていたのだろう。しきりにチューインガムとチョコレートを配っていたんだと。それで米兵に対する不信感がなくなったそうだ。
 
 比較的都会にいた父親は、腸チフスで入院していた兄を見舞っていた。食べ物がなくて、一緒に入院していた学校の先生は亡くなったそうだが、兄は生き残ったそうだ。
 
 空襲も何も知らない僕は、そういうことを聞いても無感動だ。そうか、そういうことがあったんだな、と思うだけだった。
 
 むしろ怖ろしかったのは、テレビで観た日本海会戦の映像だ。弾幕というのか、戦艦から間断なく発射される光の筋。煙で真っ黒になった空。片翼を失ってきりもみ回転をしながら落下していく戦闘機。
 
 あんなところにいたら、絶対死ぬな、と思った。死ぬ死ぬ、絶対死んじまう。
 もう隙間のないくらい銃弾が飛び交っているのだ。
 あんな場所に行って、生き残っている人がいたこと自体不思議でしょうがない。
 もう見ていて怖くてしかたがなかった。
 戦争って、ああいう場所へ行かされることなのだ。

 第一次大戦は戦争がテクノロジー化された戦いだったらしい。戦車やマシンガンや飛行機が登場した。しかしヨーロッパの西部戦線では、指揮官は昔ながらの歩兵の突撃戦法しか知らなかったそうだ。兵隊は考えのない指揮官によって、延々マシンガンの前に突撃を命じられ、全滅していった。平原には腐った死体が折り重なっていて、それを踏みながら突進していったそうだ。

 スターリングラードの攻防戦では、死守せよとの命令で武器もろくにもたない60万人の市民が都市に閉じこめられた(閉じこめられたのだ)。結果的にドイツ軍の侵攻を食い止めたものの、ほとんどの人間が死んだそうだ。
 
 日本語になっている「人海戦術」という言葉は、やはりろくな武器をもたない毛沢東の人民軍が数で圧倒して敵を倒したことからきている。要するに、戦車にさえ500万人で立ち向かえば450万人は死んでも50万人生き残る、という粗暴な発想なのだ。
 戦争って、そういうものなのだ。
 
 今年も終戦記念日がやってきて、その前日に僕は左足の小指を柱にぶつけた。
 僕は終戦記念日の意義はろくに知らないが、痛いのは嫌いである。
 戦争って、小指をぶつけるよりずっと痛いことをされる場所に、勝手に行かされて閉じこめられて、むちゃくちゃな命令によって突進させられることなのだ。
 小指をぶつけてさえ涙ぐんでる僕が、なんでそんな場所に行けるだろうか。ましてや他人をそんな場所に行かせられるだろうか。
 僕は痛いのは大嫌いである。
 終戦記念日の12時に鳴り始めたサイレンの音を聞いて、そんなことを考えた。