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  上海家鴨 シャンハイ・ダック かたろにあ

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イラスト 甲斐

 
 煌蒼は、県城を出て北へ進み、上海外灘(バンド)の通りを北へ向かった。
 この頃、上海ほどの大都会は世界でもまれだ。そこにヨーロッパの先進国であるイギリスやフランス、アメリカが租界を建設し、西洋の文物をもたらした。新聞、電信、自動車、近代建築、瓦斯。莫大な金が動き、西洋の文明と清の商人たちのパワーが組み合って類い希な繁栄がもたらされた。外灘(バンド)と呼ばれる運河沿いの通りの北にある英国領事館を中心に銀行や新聞社、商社が建設された。南京大路(ナンキンロード)を中心とした繁華街には、巨大な茶館や妓楼が軒を並べた。
 日は暮れ、街路では瓦斯灯に係が長い棒で火を灯しているところだった。道路の敷石がほんのり灯りを反射する。
 煌蒼は外灘から南京大路に入り、しばらく歩いたところで南へ折れて工部局のある通りに出た。工部局の通り向かいで少し西寄りに向かった。
 しばらく行くと、通りの一角に、建物の残骸が現れた。
 最近火事があったらしい。かつては石積みの大きな茶館だったらしい。しかし火事のせいで、硝子窓が全部割れ、壁は煤け、黒く炭化した窓枠だけが残っていた。
「沙望茶館」と書かれた大きな看板が外されて、残骸の入り口に横たわっていた。
 煌蒼は、建物を見上げると、中に入った。
 灰の混じった噎せるような空気が鼻をついた。
 火事があったのは、おとといのことだったらしい。近くを通る通行人が話しているのを聞いたのだ。
 茶館の内部は、焼け折れた卓子(テーブル)や椅子の残骸がまだそのまま放置してある。ひょっとしたら死体もそのまま残っているかもしれなかった。
 奥にある階段は、幸いなことに石造だった。煌蒼は階段を上り、死霊の語りを思い出しながら奥へと進んだ。
 奥に洋風の部屋があった。西洋黒檀で造られていたと思われる扉は、焼け落ちて枠だけになっていた。部屋は床一面に、椅子や衝立、毛氈や緞帳などの調度がぼろぼろになって散っている。
 煌蒼はゆっくりと部屋の中を歩き回った。床のあちこちに黒い染みが残っている。血飛沫の跡だろう。ここで茶館の主人、程鳳讃は殺されたのだ。
 死体だけはすでに片づけられた後のようだ。まだ調度類の始末はされていない。家族は途方にくれて喪に服しているのだろうか。 
 気が付くと、蛾が一匹、部屋を飛び回っている。煌蒼は蛾の動きを目で追った。蛾は、部屋の北の隅に飛んでいった。
 そこに、それはあった。煌蒼の捜しているものだ。
 程鳳讃の焼けこげた、左腕だった。
 
 煌蒼は、左腕を拾い上げた。こぶしがしっかりと握りしめられている。刃物を使ってこじあけると、中から髪の毛が現れた。
 煌蒼は、その場に座り、懐から壺を取り出して、土を床にぶちまけた。慎重に土をこねあげて3体の人型をつくる。ひとつは、普通の人型。残りの2つは左手に刀を持った形のものだ。形が整ったところで、普通の人型には髪の毛を埋め、刀を持ったほうには左腕の皮膚の一部を埋める。
 煌蒼は人形を持って外の通りへ出た。とっぷりと陽がくれて、夜の闇が訪れていた。
 煌蒼は、普通の人形を通りに置いた。そして、すこし離れた建物の影に、刀を持った人形の一体を置いた。
 普通の人形は、通りに立つと、しばらくして、まるで生きているかのように歩き出した。煌蒼は、ちょっと心配そうに背後の暗がりを凝視した。そして軽く頷くと、人形の後をついていった。
 
 人形は、通りの目立たない場所をひょこひょこと踊るように歩いていった。何人もの酔客や仕事帰りの役人、馬車とすれ違ったが、誰も人形には気づかないようだった。
 人形は通りをいくつも折れ、石畳の道を進んだ。
 やがて人形は南の通りの、大きな茶館の前で足をとめた。
 中から酔客や娼妓の笑い声が聞こえる。笛や一弦琴などの盛大な音曲が演奏されている。
 煌蒼はこの店を知っていた。場所は目抜き通りにはないが、不思議と客足が途絶えない茶館だった。県城に住んでいる者で、この店を知らないものはないだろう。
 店の主人の名は劉兆凡と言う。アヘン売買とインドへの人身売買で財をなしたと言われる上海青幇(ちんぱん)の大物だった。青幇とは、もともと船の漕ぎ手の組合から生まれた秘密結社で、長江(揚子江)の下流、特に上海の黒社会(裏の世界のこと)を拠点とする一種の暴力団だ。
 上海の歓楽街で店を開くもので、劉に逆らえるものはいないという。
 殺された程鳳讃は、特に黒社会との関わりはなかったはずだが、と煌蒼は思った。しかし、裏の世界のことは本当のところ、誰にも分からない。嫉妬ややっかみからの殺しかもしれない。子供じみた理由だが、子供じみた理由で簡単に殺しにまで発展するのが上海だった。

 入り口の赤い扉を少しだけ開くと、洋風の白いカラーシャツを着たボーイが早足でやってきた。
「いらっしゃいませ。今混んでおりますので、少々お待ちを」
「いや、いい。ちょっと覗いただけだ」
 煌蒼はつぶやくと、ボーイのひたいを手のひらの底で、すばやく叩いた。
「えっ」
 ボーイの目が一瞬白くなる。しかしすぐ元に戻った。額の鼻の付け根の部分に、軽い衝撃を与えると、記憶が混濁するのだ。ボーイは、誰かの応対をしたことは覚えていても、それがどんな顔だったか思い出せないだろう。男か女かさえあやふやなはずだ。
 煌蒼は、目の端で、人形が2体とも店内に入り、卓子(テーブル)の下を歩いてゆくのを確認して扉を閉めた。
 
 煌蒼は店の表から通りを廻って、裏口がある狭い路地に入った。幸いなことに、浮浪者や酔っぱらいはいなかった。裏口の前には瓦斯の明かりが点いており、そのほの暗い火影の下に、見張りらしい大柄な男が立っていた。
 煌蒼は、ふところから人形の最後の1体を出し、暗がりにそっと立たせた。
 そして、その男から死角になるように、路地の少し入った場所に座り、息をひそめた。
 茶館の窓から漏れてくるにぎわいが、遠く子供の頃を思い出させた。
 
 煌蒼は、河西省は南昌のはずれの、湖の多い美しい農村で生まれた。裕福ではなかったが死ぬほどではなく、貧しいながらも人並みという生活を送った。
 そんな煌蒼一家の生活が一変したのは、彼らがやってきたからだった。
 ある日、「天父天兄天王太平天国」と墨書された大きな幟を立てた一団が、村に現れた。
「上帝ヤハウェの賜りにより、この地を神の国として解放する! 神の手となり建設する!」
 彼らは、そう叫んで村民全部を広場に集めた。清国を打倒し、上帝の統べるすべて平等な理想国家を地上に現出させるのだ、と彼らは言った。そして銃と青龍刀で彼らを村から追い立て、天京と改名された南京へ連行した。
 南京の生活は、彼らによるとみんなが笑い合う幸せなものだということだった。皆、銃剣の脅迫を心から追い出すためにそれを信じた。
 しかし現実は、ひどいものだった。煌蒼は、あのまずい汁のことを思い出して笑った。肉が入っていると思ったらネズミの尻尾だったことを。
 毎日祈祷と称して読み上げさせられた「天命詔旨書」のことも。天京の防壁の建設のために毎日ほとんど寝ずに土運びをさせられて母が倒れ、地獄に堕ちると脅されて鞭で叩かれたのを、村民皆で賛歌を歌いながら見せられたのだった。
 それを救ってくれたのが、同じく半ば捕らわれの身として天京に入っていた、程鳳讃だった。程は商売人らしい機敏さで、門の増築の資材調達の仕事を担当していた。程は、早くに太平天国が行き詰まることを見抜いていた。そこで見張りの目がゆるむ厳冬の2月、煌蒼らの家族の他、数家族を密かに誘って脱走を企てたのだ。
 脱走には、舟が用意された。逃亡は苦しいものだった。煌蒼の父親の他、幾人もの犠牲が出た。煌蒼もチフスにかかり、何ヶ月も死線を彷徨った。
 しかし、覚えているのは、程の笑い顔だ。あれだけ苦しかったというのに、大人たちは子供に優しかった。
 舟の中で、程が歌ってくれた唄を今でも覚えている。

――私はあひる 上海家鴨(シャンハイ・ダック) お屋根に登って ふうわふわ
   そのときかみなり 降ってきて お屋根は大火事 さあ大変
   すってんころりん 窓の下 落っこちたのよ くうらくら

 煌蒼たちは広州に逃れ、上海で別れた。程は持ち前の機転と器量で商売で成功したが、煌蒼はすぐに母親に死別してひとりになった。30年の後、再び程と再開したときには、どの秘密結社にも属しない、雇われの殺し屋になっていた、というわけだった。
 
 煌蒼は、柄にもなく、昔のことを思い出していた。それはあの優しい程が死んだことと無関係ではないだろう。
 
 その時、茶館の2階で激しい足音がした。悲鳴が続けざまに上がった。
「ああああああああああああああ」
「程! 程! まさか! まさか!」
「燃える! 燃える! 何何何あああああああ」
 卓子や椅子が倒れる音がした。叫び声が上がった部屋の硝子窓が割れ、巨大な焔が吹き出した。そのあと、窓から、何か焼けこげた塊がふたつ、降ってきた。
 ぼとん、と音を立ててそれは路地に落ちた。
 ひとつは左腕だった。金の袷をつけていた。
 もうひとつはもっと丸いものだった。
 劉兆凡の首だった。首は燃えながら転がって、煌蒼の方を向いた。左目が潰されていた。
 続いて、煌蒼のいる場所の真上にある窓が開いた。
 巨大な土色の腕が現れ、何かを放り投げた。
 煌蒼は急いで腰を上げ、落ちてきたものを両腕で受け止めた。強い衝撃が腕をきしませた。
 それは白い服を着た、少女だった。
 煌蒼は、少女のみぞおちに拳をくれた。
 ごふっ、と咳をして、少女は息を吹き返した。
「ここは、おとうさん。おとうさんは」
 煌蒼は指を立てて口に当てた。静かに、という合図だ。
 煌蒼は少女に外套をかぶせ、肩を抱いて路地を走った。
 茶館は1階にも焔が廻ったと見え、悲鳴と足音、卓子(テーブル)の倒れる音が交錯している。音曲を奏でていた二弦琴が転がってビィーン、ビィーンと鳴っている。
 その窓の外を2人は走った。
 路地を出、通りに出る間際、
「誰だ。誰か逃げたぞ」
 という叫びが聞こえた。
 煌蒼は後ろも見ずに走った。
「追え! おい、火付けだ。追え!」
 誰かがそう言ったとたん。
「ああああああああああ」
 と路地から悲鳴が上がった。
「巨きい! 巨きい!」
 その後、ぐしゃりっ、と何かが潰れる音がした。
 鉈で豚の肉を潰し切るような音だった。
 音は続けざまに何度も起こった。
 その後、路地から激しい焔が上がった。天を焦がすような大きな焔で、茶館の屋根をなめるような焔だった。それは通りからもはっきり見えた。
 
 煌蒼は運河沿いまで来ると、係留されていた小舟に少女を乗せた。
 少女はまだ正気を取り戻していないらしい。ぼうっとうわごとのように呟いている。
「おとうさんが来て、おとうさんが来て。私を投げ落としたの。火が上がって」
 煌蒼は、手のひらの底で、少女の額を突いた。
 哀しみをあえて増やすことはないのだ。
 煌蒼は、気を失った少女とともに舟で運河を下りながら、いろいろなことを考えた。
 しばらくは家に少女を戻せない。どこかで匿おう。ほとぼりが醒めることはないかもしれないが。それは、舟が広州へ着いてから考えよう。
 煌蒼は、櫂を操りながら歌を口ずさみはじめた。

――私はあひる 上海家鴨(シャンハイ・ダック) お屋根に登って ふうわふわ
   そのときかみなり 降ってきて お屋根は大火事 さあ大変
   すってんころりん 窓の下 落っこちたのよ くうらくら


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