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  脳血管ファンタジスタ
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脳血管ファンタジスタ イラスト画像
イラスト 甲斐

 
 意識が膜を張ったようにぼんやりとしている。目の前にいる男が誰なのかわからない。悪い男かもしれないし私を助けようとしているのかもしれない。男の腰の部分に武器が見える。誰に対して使用する武器なのか。男は私に話し掛けている。異国の人間かもしれない。私にはその言葉が理解できない。理解できることは私は誰かに追われてこの地までやって来たということだけだ。
 「私は、どうして。その武器は、キミは私を。ここは一体……」
 駄目だ。気分が昂揚している。動揺しているといってもいいかもしれない。会話がまとまらない。呂律が回らないのか? そういえば今日の朝、あの女に白い玉を幾つか飲まされた。あの女は「見えるものが見えなくなる薬」だと言っていた。一体あれは何のことなんだ。あの白い玉はもう効いてきているのだろうか。そして私は「見えるものが見えなくなっている」状態なんだろうか。それでは私の前に立っている男は一体何物なんだ。
 黒い鳥が空を横切り、不吉な鳴き声を発した。
 夢を見ているようだ。全てが歪んで見える。目前に立つ男の腰の武器だけが何かの象徴のようにはっきりと見える。私はどうしてしまったのだろう。どうしてこんな所に倒れているのだろう。まるで怪物に食い潰されてしまったように、記憶が乱暴に欠如している。その記憶の断片を繋ぎ合わせようとすると、再び頭の中で混沌が発生する。
男の声を拒み、耳を塞ぎ目を力強く閉じる。私を非難する声、誹謗する叫びが聞こえる。枯れ果てた木の枝に停まった先ほどの黒い鳥があの不吉な鳴き声を私を嘲け笑うように発した。
 そうだ。私は道具を盗まれたんだ。あの大事な道具を誰かに盗まれてしまったんだ。そして私はその道具を取り戻す為に外へ出た。あの女の目を盗み、身支度もほどほどに飛び出してしまったんだ。
 私は数年前から何かを失い続けていることは自分でも理解していた。自分自身を見失っていく不安、周囲についていけなくなる自信の欠如。そして一人取り残されていく孤独感。「見えるものが見えなくなる」白い玉。男の腰の小さな武器。
 猜疑心や、腹立だしさ。
 「ウオォォォォ!」
 私は全ての束縛から解き放たれるように重い空へ向かって叫んだ! この男は私に不幸をもたらそうとしている! 私は男に掴みかかり男の顔面目掛けて拳を振りかざした!
 「おじいちゃん!」
 あの女が身体を震わせて立っていた。その振震は恐怖ではなく怒りからくるものであると女の表情を見て理解した。私はその女にいとも簡単に手首を握られた。
 「本当にいつもすいませんお巡りさんっ! ちょっと目を離した隙にまたいなくなっちゃって探してたんです! おじいちゃん! どこに行こうとしてたのよ!」
 意識が膜を張ったようにぼんやりとしている。目の前にいる男と女は誰なのかわからない。悪い奴かもしれないし私を助けようとしているのかもしれない。男の腰の部分に武器が見える。女の腰の部分にはエプロンが見える。誰に対して使用する武器なのか。そして誰に料理を拵えているのか。男はズボンの土をはたいている。女は泣き出しそうな顔をして男に頭を下げている。異国の人間かもしれない。私にはその言葉が理解できない。理解できることは私は誰かに追われてこの地までやって来たということだけだ。
 「やっぱり老人ホームの入所を考えるしかなさそうですね」
 最近この「老人ホーム」という言葉を耳にする。他の言葉はわからなくてもその言葉だけは、なぜか、私の心を強く打つものがある。どうしてなのかわからない。
 もしかして、そこに私の失ったものが眠っているのかもしれない。


解説
 長い間、看護師という職業をしていて、痴呆の方とコミュニケーションをとる中でその妄想や幻覚に触れる度、これってファンタジーだなぁと考えていました。で、タイミングよく今回のテーマが「ファンタジー」ということで、キタ!と(笑
  痴呆のメカニズムを知っている人なら楽しめる作品になっていると思います。シャルル・ボネ症候群、せん妄、遅発パラフレニー、もの取られ妄想など代表的な痴呆の症状を文章に散りばめています。
  主人公の無自覚さとその周囲の狼狽をファンタジック(笑)に書いたつもりです。

 

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