前述したような意味での“意思決定”と“意志決定”が異なる概念であり,従って,似ているが異なる用語を当てはめたのは適切であった(と私は主張する)。

 では次に,“意志決定”についてさらに深く考えてみよう。

 ここまでの説明で,“意志決定”とは,複数の選択肢の中から1つを選ぶ際に,何らかの根拠のもとに自分で決断する行為であり,そこから生ずる結果ではなく,選択/決断というその行為自体に価値があるもの,だということは分かった。しかし,まだ疑問は残る。「その行為自体に価値がある」というのは,どういうことなのか。

 ここで言う「価値」とは,明らかに「金銭に換算できる」「取引の材料になる」という経済的な意味ではない。「稀少である」「情報量が多い」といった意味でもない。それは,ひどく主観的な,「心惹かれる」「魅力を感じる」といった意味の「価値」なのだ。すなわち,人間は”意志決定”という行為それ自体に魅力を感じるということだ。

 では,どういう条件が成立すれば,選択/決断が“意志決定”になるのだろうか。
 言い換えれば,どういうときに人間は選択/決断という行為に「魅力」を感じるのであろうか。

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 さきほどのゲーマーの例を思い出してみよう。助言者の言う通りに選択/決断するのは意志決定ではなかった。つまり,人間は他人の指示に従って選択/決断することには魅力を感じないわけだ。

 他者の介在がいけないのだろうか。

 では,他者の代わりにソフトウェアの助言ならどうだろうか。例えば,よく出来た「オセロゲーム」のソフトは,まず大抵の人ならとてもかなわないほどの強さを誇っている。そこで,誰かとオセロゲームをプレイする際に,同じ局面をソフトに入力して,ソフトが「最適手」と判断した手をそのまま打つことにする。きっと,あなたは勝つことが出来るだろう。しかし,これも「他者」が「ソフト」に代わっただけで,助言者の言う通りに選択/決断しているという意味で,意志決定ではないことは明らかだろう。

 では,意志決定か否かの決め手は,他者の助言によらず,自分で選択/決断することにあるのだろうか。

 またオセロゲームのソフトについて考えてみよう。ここに超絶的な天才がいて,オセロゲームのソフトのアルゴリズムを完全に理解し記憶しており,局面を見ただけで頭の中でアルゴリズムに従った演算を行って「最適手」を確実に判断できるとしよう。このような手順でオセロゲームをプレイするなら,他者は全く介在しないし,自分で選択/決断していることになる。では,これは”意志決定”だろうか。やはり違う。この天才が頭の中でやっている作業は,ソフトが行う演算,すなわち「与えられた入力に対して決まったアルゴリズムを適用して出力を算出する作業」をやっているだけだ。これは”意志決定”ではないし,魅力的な行為でもない。

 要するに,助言者(占い師,藤原佐為,ソフトウェア,アルゴリズム)の介在が問題なのではない。たとえ自分で選択/決断したとしても,選択基準がはっきり決まっていて,悩む余地がない,葛藤がない,ということが問題なのだ。人間は,ある定まった手順やアルゴリズムによる選択/決断には,葛藤がないゆえに,魅力を感じないというわけだ。

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 これで,選択/決断という行為が“意志決定”になる条件が見えてきた。今までの話をまとめてみよう。どうやらキーポイントは「何らかの根拠に基づいた選択」「自分で決断する」「葛藤を覚える」というところにあるらしい。

ここから先は,私がぐじぐじ論じるよりも,次のドキュメントを読んで頂いた方がいいだろう。ラウールさんが意志決定について非常に分かりやすく,見事にまとめてくれた資料だ。これは是非とも読んでほしい。印刷して何度も目を通すことを強くお勧めする。間違いなくそれだけの価値はある。

  「意志決定について」
  http://www.trpg-labo.com/rpg/decision.html

 ちゃんと読んだね?

 よろしい。

 では,選択/決断が“意志決定”になるためには,,次の3つの条件が必要だということが分かったはずだ。もう一度,確認してみよう。

  1.葛藤

     複数の選択肢がどれももっともらしく感じられ,どれが最適解かを判断
     することも,決まったアルゴリズムを適用して決めることも出来ない。
     このため心中に悩みや迷いが生ずる状態であること。

  2.結果に対する責任

     選択/決断の結果が有為な差を生み,それが自分に跳ね返ってくる,逃
     れようなく責任を持たなければならない,という自覚があること。

  3.アカウンタビリティ

     複数の選択肢について,ある程度の情報が与えられており,選択/決断
     した理由や根拠を自分なりにきちんと持っていること。

 この3つの条件が成立する状況下で,複数の選択肢から選択/決断するとき,人は“意志決定”を行ったことになる。そして,そのような“意志決定”は,結果のいかんに関わらずそれ自体に価値があり,人はそのような行為に魅力を感じる,というわけだ。

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 人間が,上のような条件下における選択/決断に特別な魅力を感じるのはなぜか,それは私には分からない。進化心理学者や脳神経学者なら,何か説得力ある仮説を持っているのかも知れない。だが,理由はともあれ,人は“意志決定”に魅力を感じることは確かだ。それこそが,「ゲーム」というものが生まれ,文化や宗教を越えて,人類全体に広く普及している理由に違いない。

 そう。「ゲーム」とは,つまるところ参加者に対して強制的に”意志決定”を行わせるための仕掛けに他ならない。

 ゲームの参加者には,「管理資源」が与えられ,守るべき「制限」が明示される。そして,「障害」を克服して「目標」を目指せ,と言われるのだ。目標にたどり着くための最適解は明白ではない(葛藤)が,一手一手の判断で形勢が変わることは明らかで(結果に対する責任),不完全ながら「どのような手を打てばどんな結果になりそうか」を判断できるだけの情報がある(アカウンタビリティ)。参加者はこのような条件下で自分の手を選択/決断しなければならない。つまり“意志決定”が強いられる。

 これが「ゲーム」だ。

 もうお分かりのことと思う。「ゲームの魅力」とは何か。それは“意志決定”の魅力なのだ。

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 「ゲームの魅力」について,さらに考えてみよう。

 例えば,ギャンブルもゲームの一種だが,これは“意志決定”の3条件のうち,「結果に対する責任」に焦点を当てている。すなわち,選択/決断の結果が有為な(ときに致命的な)差を生み,それが避けようもなく自分に跳ね返ってくる,というのがギャンブルの魅力の大部分を生み出しているのだ。(試しに,金を賭けずにギャンブルをやってみれば,何がギャンブルの魅力を生み出しているのかよく分かることと思う)

 交渉系マルチプレーヤーゲームにおいては,自分の決断が他の参加者に直接的な利害をもたらすことが多いので,「アカウンタビリティ」が重視される。つまり,この種のゲームにおいて他人と交渉するときには,「自分は何を目指しているのか,なぜ他人にこのような提案を持ちかけるのか」ということを常に自覚していなければならない。

 場合によっては,文字通り「説明責任」が生ずることさえある。「自分はこういう理由から大局的判断に基づき,こういう手を打ったのだ。無意味に他人の邪魔をしているわけではない」などと自分の行動を正当化したり,「さあ協力して悪の帝国を滅ぼそうではないか。そのために私は私利私欲を捨て君を援助しよう。今こそ奴を叩くのだっ」と煽動したり。この種のゲームの楽しさは,何らかの方針や計画(あるいは策略)を持って交渉に臨むことにあり,ただ何となくプレイしてもさほど面白くないものだ。

 お分かりの通り,交渉系マルチプレーヤーゲームの魅力の多くは,“意志決定”の3条件のうち,特にアカウンタビリティという点から生じている。

 他のゲームも同様だ。面白いゲームを取り上げて,その魅力がつまるところどこから生じているのかを分析してみれば,きっと「葛藤」「結果に対する責任」「アカウンタビリティ」という意志決定の3条件にたどり着くことだろう。

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 では,RPGはどうか。

 RPGは,きわめて魅力的なゲームになり得る。つまり,他のゲームとは比べ物にならないほど魅力的な“意志決定”を提供し得るゲームだ。

 何しろ,他のゲームで与えられる葛藤が「コマを動かすか,新たなコマを追加するか,それともカードを1枚引くか」といったものであるのに対して,RPGでは

 ・戒律を破り,神の加護を失ってまで,約束を守るべきだろうか

 ・ゲリラ兵と民間人の区別がつかない状況下で,眼前の村を殲滅して前進するか,
  迂回して背後を突かれる危険を犯すか,それとも撤退して友軍を見捨てるか

 ・味方の戦士が深手を負った。精霊召還儀式を中断して治療にあたるか,それと
  もあと数ターン戦士が耐えることを期待して,召還儀式を続けるか

といった,非常に興味深い葛藤を作り出すことが出来るのだ。

 さらに,RPGにおける意志決定には,「結果に対する責任」という面でも興味深いものがある。プレーヤーの選択/決断によっては「キャラクターが死亡しゲームから脱落」「今後ずっとキャンペーンが苦しい展開になる」「他のプレーヤーやキャラクターに恨まれる」「後ろめたい気持ちや後悔や後味の悪さが残る」といった,プレーヤーの心,感情にダイレクトに訴えてくる結果が引き起こされることが多い。精神的ダメージを受けることさえある。

 他のゲームでは,悪い結果といっても,せいぜい「状況が自分にとって不利になる」「勝ち目が薄くなる」といったものだ。ゲームから脱落したり,後日のゲームにまで影響が残ったり,参加者が精神的ダメージを負ったりすることは稀だろう。というわけで,RPGにおける選択/決断は,他のゲームと比べて,結果が「重たい」ものになり得るため,いきおい真剣に取り組まざるを得なくなるのだ。

 そして,RPGにおける意志決定は,「アカウンタビリティ」という面でも工夫されている。ゲームにおいて,参加者が,自分の選択/決断にアカウンタビリティを持つためには,「どのような選択/決断をすれば,どのような結果になりそうか」という情報が(不完全でもいいから)与えられていることが不可欠だ。RPGでは,これらの情報が「背景世界」「設定情報」という形で実に豊富に与えられる。さらに詳しい情報を得るために様々な手段(調査,聞き取り,尋問,コンピュータへの不正アクセス・・・)を試みることも出来る。ちなみに,どの手段を用いて情報を得るべきか,それ自体が興味深い意志決定の対象となる。

 最後に,RPGが真に独創的なのは,意志決定の機会を作り出して,プレーヤー達にそれを強制する仕事を,ゲームマスターに一任するという仕掛けだろう。これにより,毎回毎回,プレイする度に新しい意志決定を作り出すことが出来るわけだ。

 このように,RPGとは“意志決定”に関して,他のゲームには見られない,きわめて斬新なアプローチを試みているゲームなのである。この可能性を活かせば,独創的で,素晴らしい,魅力あふれるゲームになることが出来るだろう。

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 しかしながら,RPGが持っている上のような可能性は,実際には十分に活かされているとは言いがたい。というのも,前述したように,RPGにおいては意志決定の条件を成立させ,プレーヤー達に意志決定を強制する仕事はゲームマスターに一任されているわけだが,大抵のゲームマスターにはその自覚がないのである。

 多くのゲームマスターは,プレーヤー達に真の葛藤を引き起こすようなジレンマを突きつけることを嫌う。またプレーヤー達の選択/決断によりその後の展開を大きく変えたり,悪い結果に対して責任をとらせることを避けようとする。そして,選択/決断を求めるときでも,こまめに情報を与えて考えさせるのではなく,ノリやストーリーの美しさや「目立ったもの勝ち」といった側面を強調して「深く考えず」決断するよう誘導する。要は,前述した3条件を全て回避しようとするのだ。

 お分かりの通り,これでは”意志決定”が成立するはずもないし,その魅力を感じることも不可能だ。それゆえ,RPGはゲームとしてはひどくつまらないものになってしまう。

 それでもRPGを楽しもうと思えば,ゲーム以外の要素,例えばキャラクタープレイとか,ストーリー創成とか,ノリとか,そういったものに頼ることになるのは当然だろう。こうして,RPGは,ゲームではない,何か別種の(世間一般の人の目から見ると,ひどく怪しげでうさん臭い)遊戯に変容してしまうのだ。

 このような歪んだ状態があまりにも長く続いたため,もはや多くの(特に最近になってRPGを始めた)人々は「RPGをゲームとしてプレイする」ということが何を意味するのか,それすら理解できなくなっている。「自分はRPGのゲーム性を尊重している」という人ですら,具体的なことを尋ねてみると,「ゲーム」ということを「ルールを守る」とか「戦闘時に確率計算する」とか「シナリオの先を読んで対処を考える」といったように,実に皮相的にとらえていたりする。

 あるいは「意志決定に楽しさを感じたことがない」という人と話をしてみると,3条件が十分に成立してない,単なる選択/決断のことを「意志決定」だと思っていたりする。

 そうではない。そういうことではないのだ。

 RPGがゲームになるためには,「葛藤」「結果に対する責任」「アカウンタビリティ」という3つの条件を成立させた上で,選択/決断を強制することが大切なのだ。これこそが「ゲーム」であり,それに比べれば,ルールを守るとか勝ち目を計算するとか,そんなことはどうでもいい枝葉末節だ。

 実際,3条件を成立させるためにルールが邪魔になるなら,そんなものは無視すればいい。数値データが3条件成立の妨げになるというのなら,そんなものは教えなくてよいのだ。「ゲーム」とは,ルールやデータの集合ではない。ルールやデータは,“意志決定”の3条件をよりはっきりと定量的に形作るための道具,ツールに過ぎない。それが本質ではないのだ。

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 このように,従来「テーブルトークRPGの魅力」だと考えられていたものは,実は「テーブルトークRPGから意志決定の要素が抜けてしまい,ゲームとしてつまらないものになってしまった」ことから,それを補うために発達したものだ。

 だから,それらの”補足な”魅力が,コンピュータRPGやネットワークRPGによりもっと見事に実現されたからといって,テーブルトークRPGの未来を悲観する必要はない。今こそ,軽視されてきたテーブルトークRPG本来の魅力,すなわち意志決定の魅力を追求すべきだと思ってほしい。

 ゲームマスターは,プレーヤーに次々と「葛藤」を与えるべきだ。見せかけの選択肢ではなく,真に迷いが生ずる選択肢をぶつけ,各選択肢について生じ得る結果をきちんと説明して,結果に対する責任を自覚させ,選択に必要な情報を十分に与える。そして,プレーヤーが努力すればもっと情報が得られることも明に伝える。そして,プレーヤーが何かを選択/決断すれば,その結果により展開を大きく変えてやることで,決断に重みを持たせる。常に,次々に,息をつかせる間もなく,意志決定を与え続けるのだ。それが,RPGをとてもエキサイティングなゲームにするコツだ。

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 では,このような魅力的な意志決定を,コンピュータRPGやネットワークRPGが提供することは可能だろうか。私は,不可能だとは言わないが,非常に困難だろうと思う。

 その理由の1つは,コンピュータRPGでは,同じ選択/決断を何度でも繰り返せるということにある。結果が気に入らなければ,セーブしたところに戻ってやり直せばよいのだ。これが「結果に対する責任」を骨抜きにしてしまうことは明らかだろう。ネットワークRPGだって本質的には同じことだ。システムで用意されているイベントや課題には,何度でも挑戦することが出来るし,その度に選択をやり直すことも出来る。

 つまり,コンピュータRPGやネットワークRPGにおいては,真に「取り返しのつかない選択/決断」というものはないのだ。最悪でも,最初の状態に戻って新たにゲームを開始することが出来る。

 これに対して,テーブルトークRPGにおける選択/決断は,ほとんどの場合,取り返しがつかない。特にキャンペーンの場合がそうだ。時間を戻してやり直し,最初からもう一度,ということは(理屈の上ではともかく)現実にはとても出来ない。いきおい,全ての選択/決断は,二度目はない,まさに一期一会のチャンスということになる。これがテーブルトークRPGにおける”意志決定”を真剣で魅力あるものにしてくれるのだ。

 もう1つ。少なくとも今のところ,コンピュータRPGやネットワークRPGはプレーヤーに「結果に対する責任」を十分に感じさせることが出来ない。つまり,「自分の選択で未来が変わる。ゆえに自分の責任は重大だ」という感覚を与えることが出来ない。

 なぜなら,あなたが何らかの選択/決断を下すとき,心の底では「どの選択肢についても結果はすでにプログラムに書かれており,自分の選択によって変わるのは未来ではなく,どのサブルーチンが走るか(あるいはどのフラグが立つか)ということに過ぎない」と事実を知っているからだ。また,あなた以外にも何千何万という人々が同じゲームをプレイしてしており,全ての選択肢が何度も試されているであろう(そしてその結果は攻略本に書かれているかも知れない)という事実もまた結果に対するあなたの責任をひどく曖昧なものにしてしまう。

 テーブルトークRPGにおいては,プレーヤーが何らかの選択/決断を下すまでは,結果は決まっていない。ゲームマスターはある程度の想定をしているかも知れないが,それは(プログラムに書かれている内容と違って)確定してない。だからプレーヤーは「自分の選択によって未来が変わる」という感覚を持つことができる。そして,生じた結果は「自分の決断が招いたもの」だと感じることが出来る。それに,テーブルトークPRGでは全く同じセッションは2つとないので,あなたの意志決定は,あなただけのものだ。あなたがどう決断するにせよ,他の選択肢を誰か他人が試すなどということは決してない。これらの事実は,結果に対するあなたの責任を,切実なものにしてくれる。

 最後に,これは私だけの感覚ではないと信じるものだが,ソフトウェアが人間に対して真の「葛藤」を与えることは極めて困難だと感じる。ソフトは,少なくとも今のソフトウェアは,心も,精神も,意志も持ってない。そこには,神秘的なものは一切存在しない。どこかのプログラマーが書いたアルゴリズムがあるだけだ。そういうものを前にして,真剣に悩んだり葛藤に苦しんだりするのは無理だろう。少なくとも私には出来ない。だって,そんなの滑稽ではないか?

 だが,相手がゲームマスターなら話は別だ。ゲームマスターが私に何かを選択/決断するように告げるとき,私は真剣になる。相手の目を意識するからだ。彼または彼女はアルゴリズムではなく,何らかの神秘的なプロセス(精神とか意志とか呼ばれるもの)により考え,感じ,決断し,そして私のゲーマーとしての腕前を評価する,いわゆる「尊厳を持った存在」だ。私は,自分の意志決定が相手にどう評価されるかを意識せざるを得ない。そして,真剣に悩むことになる。

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 いつの日か,ソフトウェアが,プレーヤーに真の葛藤を与え,選択/決断の結果に対する責任を切実に感じさせることを可能にすることだろう。少なくとも原理的にそれが不可能であるという理由はない。

 もし,本コラムを読んでいるあなたが,コンピュータRPGやネットワークRPGのデザイナーや開発者であるなら,どうすればプレーヤーに魅力的な“意志決定”の機会を提供できるか,それを考えてみてほしい。もちろん,あなたがRPGという名の下に目指しているものがインターラクティブな「映画」「小説」であるのなら,意志決定について考える必要はない。素晴らしい物語,洗練されたストーリーを表現し,鑑賞者に感動を与えることに専念すればよい。だが,あなたが目指すものが「ゲーム」であるなら,意志決定ということについて真剣に考える必要がある。

 そして,あなたがテーブルトークRPGのゲームマスター/プレーヤーであるのなら,どうか“意志決定”というものを大切にしてほしい。

 演技やストーリーやノリを捨てろと言うつもりはない。実際,それらの楽しみと”意志決定”を大切にすることは矛盾しない。だが,もう少し“意志決定”に目を向けてもいいだろう。なぜなら,そこに,テーブルトークPRG特有の魅力があるからだ。いつの日か,ソフトウェアが,プレーヤーに真の葛藤を与え,選択/決断の結果に対する責任を切実に感じさせることを可能にする,そのときまでは。

本論は、馬場秀和ライブラリの『外へ向かう言葉』を許可を得て転載させて頂きました。