ヘッダー
  レスリング・ショー オカヤマ
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イラスト 甲斐

 
――わかってねえのかよ!
 喉元まで出かかったのを呑み込み、急いでリングへ戻る。筋肉を誇示している杉原の背中めがけてドロップキックだ。観客の目には、余裕を見せつける杉原に怒ったボンバーが不意打ちを喰らわせたように見えるだろう。転落した杉原を追ってボンバーもリングを下りる。
 ようやく立ち上がった杉原に掴みかかる。すると杉原は人目もはばからず、
「何するんですかボンバーさん!」
 リングサイドの観客からどっと笑いが湧き起こる。ボンバーは冷や汗が吹き出るのを覚えた。
(バカ、声がでかいよ)
 かすれそうな声で囁く。
(おまえ、段取り忘れたんだろ?)
 囁きながら組み付く。顔と顔を突き合わせるような格好で続けた。
(とりあえずケツだけはちゃんとやれ。あとは俺が何とかしてやるから適当に合わせてみろ)
 ケツ、つまりフィニッシュ時の技である。
(ケツ、どんなでした?)
(それも忘れたのかよ?)
 ボンバーは杉原の髪を掴み客席へなだれ込む。パイプ椅子を蹴り飛ばして進路を確保。悲鳴を揚げて逃げまどう観客。そのままずいずい進んで入場時に通った花道に出る。
(おまえがジャーマン、俺がアームバーで切り返す)
 杉原の額を花道の床に打ち付ける。
(更におまえが切り返してもう一回ジャーマンでピンだよ)
(あ、思い出しました)
(じゃあおまえ先にリングに戻れ)
 はい、と言うや杉原はすたこらとリングに戻ろうとする。慌ててボンバーは杉原を捕まえる。
(そうじゃねえだろ。おかしいだろ、それ? 俺が先に帰るよ、もう)
 そう言ってボンバーは杉原の体をボディスラムで投げ飛ばし、二、三発蹴りを入れるふりをしたあと独りでリングへ戻る。さっきケツ以外は何とかしてやると言ったが、とてつもない不安がボンバーを襲う。

《十分経過、ten minutes past テン・ミニッツ・パスト》

 ごちゃごちゃしているうちにもう十分が経ってしまった。当初の予定なら十分経過のアナウンスがフィニッシュの合図だった。そのとおりにするならもう試合を終えねばならないが、いくら何でもここでいきなり決まってしまっては唐突すぎる。あと五分ばかり攻防を繰り広げねばフィニッシュに説得力がない。
 反対側から杉原がリングに上がってきた。
 しょうがない、ボンバーは姿勢を低くする。アマレスの構えだ。アマレス出身の杉原の得意分野はもちろんレスリングだ。しばらくバックを獲ったり腕を固めたりの攻防をして杉原の実力を披露しておこう。
 実際、道場での練習で杉原の実力は群を抜いていた。新人のレベルを遙かに超えている。レスリングは当然ながら、アマレス出身者の苦手とする空中殺法も見事にこなし、更には空手式の蹴りもすぐに自分のものにした。フィジカル面に関しては天才と言っていい。だが観客の前でやるプロレスはそれだけでは務まらないのだ。
 まずはレスリングで杉原に良いところを見せてもらう。それから徐々に派手な飛び技を織り交ぜて、最後は例の段取りどおり杉原の勝利で終わらせる。無難だが堅実な組み立てだ。
「こいよ、オラァ!」
 ボンバーが叫ぶ。普段寡黙なボンバーの珍しいアピールに、観客席がどっと湧く。
 ボンバーの伸ばした手に杉原が指を絡ませる。お互い腕は一本ずつ空いている。ここから自分の有利な体勢に組み、相手の姿勢を崩し、背後を獲り、制圧する。こういうレスリングはプロレス通の好むところであり、これができるレスラーは一目も二目もおかれるのである。
 すとん、と杉原の膝が落ちたように見えた。そう見えたときにはもう懐に潜り込まれていた。即座に下半身を引いて杉原のタックルを潰そうとするが、更に杉原は一歩踏み込む余裕を有していた。
――嘘だろ?
 思ったときには左脇腹に張り付かれていた。こんなに簡単に組み付かれては杉原の見せ場以前の問題だ。
 ボンバーの胴に回そうとしていた腕を捉え、自身も体を入れ替えて杉原の肩を極めにかかる。この瞬間、プロレスラーは本気だ。きれいに技を決めることに関しては妥協しない。その技で試合を決めるかどうかとは別次元の話なのだ。
 だが杉原は一瞬にしてくるりと身体を回転させ、関節技から脱出する。脱出しおえたポジションはそのままボンバーの背後にあった。
 やられてやるつもりは毛頭なかった。まだしばらく引き延ばす予定だったのだから。だがボンバーは反応できなかった。まるで魔法にかかったような気がした。
 身体が浮いてようやく、自分の胴を杉原が抱え上げていることを知った。いきなりフィニッシュの反り投げ、ジャーマンスープレックスを放とうとしているのだ。
――早すぎるだろ、おい!
 段取りならばボンバーが反り投げを喰らい、しかし受け身を取っていたボンバーが、彼の胴を抱える杉原の腕を取り、身体を返して逆関節を極めにかかる。だが腕が極まってしまう前に杉原も身体を起こし、再びボンバーを抱え二発目の投げ。それでカウントスリー、決着の筋書きだ。
――くそったれ、しょうがねえな。
 こうなった以上、台本のとおりここで決着しようと思ったのである。だができなかった。杉原の投げはボンバーの予想以上に速く、強く、急角度であった。一発目の投げでボンバーはしたたかに後頭部を打ち、そのまま失神してしまったのである。
 だからボンバーはこの後のことを憶えていない。見事に投げを決めたはずの杉原が、途方に暮れた様子で辺りを見回し、レフェリーに促されてようやくボンバーをフォールしたことを。高らかにゴングが打ち鳴らされるものの、当惑した観客は歓声を揚げることもなく、東京ドームに妙な具合のどよめきが充満したということを。
 有り難いことに八百長だという野次は飛ばなかった。だが全般を通してぎくしゃくとした展開、突然訪れた結末などが、これが普通の試合でないということを観客に気取られてしまったのである。
 ひとことで言えば変な試合だった。杉原コウのデビュー戦は皆の予想を裏切る結果に終わった。

 杉原のスープレックスで頸椎を捻挫したボンバーは、二つのシリーズ興行を立て続けに全休した。一方杉原は“殺人ジャーマン”の使い手として更なる売り込みを受けたのだが、毎度毎度段取りを忘れ、その都度その都度不格好な試合を披露した。
 そのうちファンの間で、ボンバーとおこなったデビュー戦はシュート、つまり喧嘩腰の真剣勝負だったのではないかと噂されるようになり、いつもおかしな試合をする杉原は、いわゆる“プロレス”をやることに抵抗を覚えているのではないかと勘繰られるようになった。
 デビューから半年後、いつまで経っても段取りが憶えられないことを苦にした杉原コウがプロレスのリングを去り、総合格闘技の世界へ身を投じたと聞いて、ボンバー松尾はそれが奴のためだと頷いた。詳しいことは知らないが、総合格闘技ではプロレスのような暗黙の了解が少ないと聞いている。そういうところでなければ杉原は通用しないだろう。杉原は確かに強い。だがプロレスは強いだけでやっていけるような世界ではないのだから。
 更に半年後、ボンバー松尾は著名なスポーツ誌に単独インタヴューを受けることになった。初めての経験だった。彼の話は申し訳程度で、ほとんどが杉原コウのデビュー戦に終始した。
“あの試合で何があったんですか?”
 記者は興味津々に訊くが、本当のことなどみっともなくて言えるわけがない。
“その話はしたくないですね”
“ご想像にお任せします”
“いろいろあるんですよ、言えないことが”
 そんないい加減な答えばかりをしていいのだろうかと、ボンバーは内心申し訳ない気分でいっぱいだったが、それはプロレスラーとして最善の答えだったのである。読者はありもしないシュートマッチを想像し、あのみっともない凡戦を伝説化するようになった。

 一年後、総合格闘技の世界で連勝街道を驀進する杉原コウは、日本人アスリートの中で最も著名な一人となった。それに応じてしがない中堅レスラーボンバー松尾も、何だかよく判らないうちにトップレスラーの待遇を受けるようになっていた。
 杉原とシュートで闘った男、その異名で呼ばれるたびに彼は、プロレスとは本当に妙な世界だと思わざるを得ないのである。嘘なんだか本当なんだか、やってる本人もよく判らなくなってきたのである。
 そして今夜もボンバーはリングに上がる。その地方最大の施設でセミ・ファイナルのシングルマッチ。この試合の勝者がヘビー級王座の挑戦権を獲得することになっており、台本では二十分の熱戦の末、彼が勝利を収めるという筋書きだった。
《赤コーナー。185センチ、240ポンド。ボンバーまつーおー》

 実質179センチのボンバー松尾は高々と腕を上げた。一階席から歓声が押し寄せ、二階席から声援が降り注ぐ。
 ボディチェックの仕種をしながら試合の段取りを確認するレフェリー。相槌を打つボンバーと今夜の噛ませ犬。光あるところに影があり、プッシュを受けるレスラーがいれば引き立て役も必ずいる。ここはそういう世界であり、そういうお約束がなければファンタジーは成立しない。
 両者ともにコーナーへ戻り、試合開始のゴングを待つ。緊張を孕んだざわめきがリングの上を這いずり回る。ちらりと客席を見回すボンバー。彼に寄せられる期待は大きい。大丈夫、任せておけ。期待どおりの好勝負を演じ、期待どおりの結末で楽しませてやるさ。
 それは時間にすればほんの十数秒。
 不意に背筋が凍る。
――ひょっとしてこいつら全員気付いてるんじゃないか?

 騙しおおせていると思ってるのはレスラーだけで、実はみんな解ってるんじゃないか? 解っていて、それで騙されたふりをして楽しんでいるんじゃないか? 客をのせているつもりで、実はのせられ、かつがれ、あおられているのは俺たちじゃないのか?
 頸動脈が傷付いた蛇のようにのたうち回る。肋骨の内側で心臓が暴れ回る。冷たい汗が 背筋を濡らす。
 眩暈がする。息ができない。
 場内ではいつしか「ボンバー」コールが湧き起こっている。それも彼の耳にはひどく遠い。
 ゴングが鳴った。だが彼は立ち竦んだまま、コーナーから動くことができずにいた。


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