今回「What is ファンタジー」という題材を特集とした。何故か。それはハリーポッターや指輪物語に始まり、最近の十二国記など、巷に溢れるファンタジーについて、何となく感じた違和感がはじまりだった。果たして剣と魔法の物語が、すなわち「ファンタジー」の全てなのか。また、子どもの頃に寝食を忘れて読みふけったあの物語群と、果たして何が違い、なにが等しいのか? というのは長い疑問でもある。もちろん、こんな小特集で全ての疑問が解決したとは思えない。だが、僕はこれからもその違和感を感じつつファンタジックな小説や映画や物語を楽しむだろう。この世はファンタジーが満ち溢れているのだから……。

以下、それぞれのコンテンツについての感想。

「くだらな鼎談」
「ファンタジーは死んだか?」などと大仰な提示をしてみたが、昔懐かしがって戴ければ嬉しい。メッセによる鼎談と言う形は、やってみるまでその難しさが分からなかった。纏める際に整理したログはもっとハチャメチャでした。

「過去完了形〜」
80年代生まれの人のファンタジー小説云々というのを聞いてみたくてお願いした。上の鼎談に対するカウンターとなっているかと思う。日本におけるファンタジー(小説映画漫画その他など)文化の普及前を知っている世代が鼎談であるとするなら、普及以降の世代を代表しているのではないか? と僕は思いました。

「ファンタジー映画の見方」
はじめて観たファンタジー映画って何だったっけ? とか考えたら、テレビでやってた「ET」か「コナン」じゃないかなーとか思ったりするけど、でもよ、「ナインハーフ」大好きでした。ずっと観たいのは手塚治虫の「クレオパトラ」! ビデオ出てないんだよなあ(たぶん)。

「外へ向かう言葉」
西洋ファンタジー小説やゲームが輸入された際にTRPGというのがあったのを知っている人は、懐かしく思うのではないか? 実際にサイコロを振ったこともある人、端でそうした人々を見ていた人々もいるだろう。だが、現在ゲームや映画で使われる、いわゆる「剣と魔法の物語」の「ファンタジー」というのは、そうした担い手が牽引した歴史を持つ。今回転載を御承諾頂いた、この文章における筆者のファンタジーを開いてゆく、その夢はまだ、失われていない。


小説に関しては、お題として、「剣と魔法の物語は禁止。既存のファンタジーではないものを考えてください」と注文を入れました。御了承ください。

「湖畔の部屋」
愛は傲慢である。これは四つの心をめぐる物語で、あの有名な主題を換骨奪胎して、美しい四重奏となっている。僕はひとつの心が四つに分かれたものとして読んだ。関係ないけど、愛が欲しい。

「恋する言葉」
その想いは永遠であるのかと三千年の昔に記された恋歌を読み解こうとする男がいる。想いは消えても書物は残るのか、書物と共に想いは残るのか。悠久の時間と人の心が絡み合う物語は幻想的だ。このようにして読まれる書物は、幸福だと思う。

「上海家鴨」
それは怒りであるのか、悲しみであるのか。殺し屋煌蒼は懐かしいあの歌と共に上海をゆく。活劇映画を思わせる作品。読んだ後、何故だかカンフー映画が観たくなりました。ユンピョとか。

「例えば〜」
何故人は同じような人を好きになってしまうのだろうか? ってことを考えました。魔法は自ら自らにかけてしまったのではないのか。それともやはり彼女は魔女だったのか。ああ。その魔法は愛にまつわる永遠の謎ではないかっていう風に、これは、恐い。凄く恐い話なのだと、思った。

「脳血管ファンタジスタ」
それはいずれやってくるかも知れない危機。下手をすると今そこにある危機なのかも知れない。ある側からみれば、世界は夢幻の如くであり、逆にみれば、奇妙きわまりないということだ。ならば、今、ここに現実としてみている世界は、まるで。。。

「レスリングショー」
虚構がどちら側なのか。踊る阿呆に見る阿呆。本当のところ踊っているのはどちらなのだろう。対話というのが幻想を媒介に成り立っているが如く、その瞬間、両者は倒置する。そのひっくり返った瞬間、僕はいったいどうするだろう?

「同じ色の夜」
飛ぶというのは、今、この場所にいる状態から離れることである。少年は少女に出会う。少女は飛ぶことができる。飛ぶというのは出会いでもある。心温まる物語。この話、僕、好きです。

「石を積む」
ファンタジーとは何かと考えると、世界を構築することではないかと思う。それは何故という疑問であり、また何故必要であるのか、ということを念頭に置いた。

あと、今回、美しい絵を頂いたわかば様、甲斐様に感謝いたします。ありがとうございました。

以上、編集後記並びに感想:文責 サイキ