■ アイリッシュ・オクトーバー
茶石文緒

 

「ロング・ブラック・ヴェイル」
ザ・チーフタンズ

BMGファンハウス













 

「WAR」
U2


アイランド













 

ジ・エッジ・オブ・サイレンス
ソーラス

Shanachie Records



「ああもう!失踪したい!しばらくアイルランドに逃げたいわ!」
 仕事で追いつめられると、この台詞が必ず口を衝いて出る。
 行き先を予告した時点で、すでに失踪ではないという気もするが、私が思い描く逃亡先とはアイルランド以外にありえないのだ。
 地の果てとも呼ばれる彼の地で、崖っぷちを彷徨う自分をイメージする。持ち物はモノクロームのフィルムを詰めた旧型のカメラだけ。褪せた色の草の波、曇り空を滑り落ちる鳥の翼の刃型のカーヴ。胸をしめつける寄る辺なさは、感傷なんて生やさしいものではない。崖に打ち寄せる波は砕かれて白い泡になる。どれほど遠くからやってきたかもしれないのに、最後の最後に自ら壊れ、読み解かれることを拒もうとするメッセージ。
 こんな場所まではきっと、誰も追いかけてはこないだろう。

 と、いうわけで、10月に皆様のもとに届く第2号は、「アイリッシュ・オクトーバー」。独断によるアイルランド音楽特集をお届けします。

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「ロング・ブラック・ヴェイル」 ザ・チーフタンズ

 アイリッシュ・ミュージックといえば、彼等を抜きにしては語れない。1962年に結成以来、今も活動を続けている(らしい)大御所、ザ・チーフタンズ。
 アイリッシュ・ミュージックには欠かせない鉄弦ヴァイオリン・フィドルはもちろん、イーリアンパイプだのティンホイッスルだの、名前を聞いてもよくわからない伝統楽器を携え、世界を演奏して回っている。パブでしか聴かれなかったアイリッシュ・ミュージックを表舞台に導き出し、やがては世界的なブームにまで押し上げた功労者。
 彼等の音色が醸し出す幻想は、現実離れしていながら、限りなく人の手に近いナマな手触りを伴っている。シンセサイザーやらエフェクトやらを駆使して、商品として作り込んだそれとは全く違うテクスチュア。最初のコードが鳴るだけで、霧の深いケルトの森に一歩踏み込んだような、心細さと不思議な高揚が頬をかすめる。
 しかし、白状するが、私がこのアルバムを手にとったのは、けっしてアイリッシュの伝統を学ぼうという殊勝な心がけからではない。この「ロング・ブラック・ヴェイル」には、ロック界の名だたるミュージシャンたちがゲストとして大量参加しているのだ。1曲目からいきなりスティング(これがえらく恰好いい)、続いてミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ本体も別に登場する)、ライ・クーダー、シネイド・オコーナー、トム・ジョーンズ、エトセトラ、エトセトラ。なんとも豪華な顔ぶれである。よく知っているはずの彼等の音や声が、ケルトの伝統音楽に触れるとき、どんな変化を見せてくれるのか。それを聴けるというだけで、ファンにとっては十分な「買い」の動機になる。
 中でも面白かったのが、タイトル・チューンになっている「ロング・ブラック・ヴェイル」。ミック・ジャガーがヴォーカルを取っているのだが、あの決して巧いとは言いがたい節回し(失礼)や、粘着質のムニャムニャした声質が、ケルト音楽の詠唱系の節回しに絶妙に馴染んでいる。はっきりいって、普段ロックを歌っているときよりも巧く聴こえる。しかも、歌詞を読んでみれば、まあいつものように恋愛がらみのトラブルを歌っているときたもんで。ジャンルが違っても根本は変わらないのだねえ、とニヤリとさせられる洒落心も、アイリッシュ魂のうち、なのかもしれない。

 
「WAR」 U2

 さて、アイルランド出身ミュージシャンの長者番付を作ったら、確実に1位になるであろうスーパー・ビッグ・バンドがU2である。
 彼等の作品でアイリッシュのテイストが強いものといえば、初期のアルバム、「WAR」あたりだろう。「ヨシュア・トゥリー」まで行くと、そのタイトル自体が「アメリカ南西部に生えるユッカの木の一種」というだけあって、アメリカの匂いがぐっと濃くなってくる。
 「WAR」は、全体が一つの鉄塊のようなアルバムだ。ソリッドで、滑らかで、重くて力強い。無駄な装飾や口当たりを柔らかくするための混ぜ物なんかは一切なし。オープニングの「Sunday Bloody Sunday」から、いきなり違う場所へ連れて行かれる。ドラムが刻むビートの荒涼に、ああ、アイルランドだ、と意味もなく呟きたくなる。
 アイリッシュの音楽というと、楽器の特性なのか、どこか金属質な雰囲気があるのだけれど、このアルバムには、その感触がよく現れている。ドラムとギターのコンビネーションは、聴いていて息苦しくなるほどシャープで隙がない。一曲一曲が、丁寧に使い込まれ、刃先を完璧に磨き上げられたナイフのようだ。
 そして、ストイックなほど厳しい音色の中で、ヴォーカルだけが生きた熱を帯びている。ボノの声には独特の甘さと、完璧にはなりきれない優しさと打たれ弱さがあって(私はそこがたまらなく好きなのだ)、それはたとえば怒りにまかせて痛いほど吼えまくるときにも消えることはない。
 その声は、無彩色の地平で、サーモグラフィがただ一つ捉える赤い光のよう。その熱に慰められ、惹きつけられながらふと思う。もしかしたら、私たち一人ひとりが、紅の芯を抱えて彷徨う熱の塊なのかもしれないと。
 寒い季節に向かう秋、冷たい空気の中で、身体が自分を守るために温もりを抱え込むような感覚。コートの厚い生地で外気と隔てられた身体は、強くて、もろい。いつか心から信頼できる誰かに出逢えれば、堅く合わせた襟をようやく開くこともできるかもしれない。私たちはみんな、絶望と背中合わせになりながら、愛するひとに届けるための柔らかな優しさを、胸の内で守り続けるために、闘っている。


「ジ・エッジ・オブ・サイレンス」 ソーラス

 昔、「ウェルカム・トゥ・サラエボ」という映画を観たときに、戦場のさなかにもピアノがあることに小さな驚きを覚えた。集会所みたいな場所に据えられたアップライトピアノに、妙に心をひきつけられた。
 ピアノというのは馬鹿みたいに重いから、当然ギターやヴァイオリンのように持ち歩くことはできない。ピアノ弾きは、弾く以前に、ピアノを据えてある場所を見つけなければならない。教会やレストラン、ホテルやバー。私はプロの演奏家でも何でもないが、それでも思いがけない場所でピアノを見かけると、弾く用があるわけでもないのに妙な安心感を覚えてしまう。
 閑話休題。
 さて、アイリッシュ・ミュージックの時空にも、ピアノ弾きが一時避難所のようにひっそりと身を寄せたくなる、愛すべきピアノは存在した。「SOLAS」のアルバム「the Edge of Silence」を聴けば、その音色に出会うことができる。
 「SOLAS」は、アイルランドの伝統語であるゲール語で「光」を意味する。結成は1994年、NYが活動の本拠地なので、アメリカン・アイリッシュ・バンドなんて呼ばれている。
 彼等の中の伝統には嘘がない。したたかに血の中で生き続ける歴史と、皮膚のすぐ外側にリアルに触れている現在、どちらも真実。クロスオーバーものにありがちな大仰さやわざとらしさがないのは、自分たちの音楽の在り処をしっかりと消化しきっている証拠だ。
 フィドルとギターがごく当たり前に絡むあたりはタダモノじゃない上手さだし、独特のたゆたうような旋律に乗せるドラムは、絶妙のスピード感とメリハリを刻んでいく。誰よりも楽しんでいるのは弾いている彼等自身なのだろう。チームワークの良さは特筆もので、聴いているこちらにまで、笑みが伝染してしまう。
 そして、このアルバムの最後にひっそりと置かれた小曲「Prelude」がとてもいい。最後の曲なのに前奏曲(プレリュード)とタイトルを付けるあたりに、旅の環の果てのなさを垣間見せられたような気分になる。
 主役はピアノ。何年も調律をしていないような、輪郭の崩れた音色が密やかにこぼれ出す。知らない土地で、誰のものでもないピアノにこっそりと触れたことがある人なら、きっとわかるだろう。何年も人との関係を断ち切られていた楽器を、そっと揺り起こすときの感触。用心深く旋律を探り当てるとき、黒い駆体に封じられていたメッセージを受け取ったような気持ちになる。自分の記憶にある音楽を弾いているはずなのに、音楽のほうが弾き手を選び、他の誰にも通じないことばで語りかけてくるのを聴いたような心地がする。
 ようやく目覚めたというのに、楽器の音は既にひび割れて、意味をなす前に減衰して消えてしまう。どれほど遠くからやってきたかもしれないのに、最後の最後に自ら壊れ、読み解かれることを拒もうとするメッセージ。

 語り残したことばが流れ着く先は地の果て、風の止まない10月のアイルランド。いつかそこへ辿り着き、物語の続きを聴いてみたいものだと、埒もない灰色の夢を、私はぼんやりと描いている。