雑誌を巡る雑談
 

創作の合間に参加者の方々と掲示板にて「童話」を巡る雑談を行ないました。
(二重連続して書き込んでいるものは整理しております。あしからず)

童話について思うこと

 1   サイキ    2003/11/01(土) 01:09

いったい、童話ってなに? 
童話が掲載されているサイトを片っ端から見て見たのだけど、 はっきりと見えてこないのです。
そこで、参加者の方々にお願いがあるのですが、 思い出の童話や感動した童話、楽しかったものなど、 「童話」に対する思いを語って欲しいです。
(分量と内容があれば、記事にしたいと思っています)

まずは僕から。「いやいやえん」が非常に記憶に残ってて、 子どもの頃何度も読んでた記憶があります。なんか変な絵だなあとか思ってました。 童話って、絵で印象変わりますよね。よく見ると白目で恐い絵だったりするのもあって、 今、見直したら「恐わー」と思ったりして。


 3   ぱそ子    2003/11/01(土) 23:19

童話って、昔話(おとぎ話)と児童文学に分かれると思うのです。
私が今から言うのは昔話の方で、「いやいやえん」は児童文学のほうだと勝手に分類してしまうのですが。
童話、主にグリム童話とかそういう昔話って、誰が何をしたっていう筋書きのみの三人称で書かれていて、 ディティールや主人公の心理描写とかなくって、 それでも面白いのだから、小説書いているものにとっては脅威だな、と常々思ってました。
結局、話の筋さえ面白かったら描写なんていらなくて、それでいいんじゃないのだろうか? みたいな。 だから今回の特集は、童話の脅威に打ち勝て小説よ、みたいな位置付けです。私の中では。


 4 サイキ    2003/11/02(日) 03:15

あ、そうですね。児童文学と童話とはっきり分けてしまった方が分かりやすいですね。
ごめんなさい。うっかり「いやいやえん」とか持ち出してしまいました。
でも、宮沢賢治ってどっちに入るんだろうという疑問があって、それより絵本の扱いっていうのは、 そもそもなんだ?とか思ってしまったり。要するに「童話・児童文学・絵本」っていうジャンルは 境界線がなくて非常に近しくて、また相互に影響し合っているような印象があります。
ジャンルが全てではないのだけど、その範疇が非常に広くて、だからこそ突き詰めると深いテーマだったり、 逆にどこから手をつけてゆけばいいのかわからなくなってるって、感じがしました。
今回の特集のために、検索で出てきたサイトを片っ端からみたのですが、 どこにもそれらの明確な基準というのも見あたらなく、目的意識もなく、 例えば前回やった「ファンタジー」というジャンルとかだと、それを語る場所というのがあるのですが、 こと「童話」に於いては見つからなかったのです。
100巡ればひとつぐらいは、ちゃんとしたサイトがあっても良さそうなのに、 そんなの、全然なくて(中にはあるのかも知れないけど、見あたらなかった)、 「童話」に対する目的意識や書き方の文法自体非常に浅い印象がありました。
逆に童話を研究している人々の文章は、目を見張るものが数多くあったのですが。
でも、そんな状況って凄く不毛だな、と思ったりして、 ことWeb上のものに関しては「童話」より「小説」の方が進んでるかな、と僕個人として思いました。


 5   ぱそ子    2003/11/02(日) 12:20

 「子供のために作られた話。古くから伝えられたおとぎ話や寓話(ぐうわ)などのほか、創作された物語があり、日本では巌谷小波(いわやさざなみ)の「こがね丸」(1891年)が近代童話の初めとされる。」 というのがgoo辞書でひいた「童話」の定義でした。子供のために作られた話、という定義では広いのは当然ですね。
だとしたら、ハリーポッターなんかも「童話」でしょうね。童話というジャンルに児童文学やおとぎ話や絵本が内包される感じで。
 ここで最初のgoo辞書の定義に戻りますと、童話には「古くから伝えられた」話と「創作された物語」があるとずばり二つに分けていますから、
宮沢賢治も絵本もこの分類でいくと、作品によって、古くから伝えられた話をアレンジまたは脚色したもの、と、オリジナルで作ったものという二つに分けられるのかなと思います。
 あと、ネット上に童話に対する問題意識があまり存在しないのは、童話が「子供のために作られた話」であって、 インターネットを閲覧する人(非ネット世界で言う、読者、視聴者、消費者にあたる人たち)のほとんどが「子供」ではないということと関係しているんじゃないかな。

 もう一つ(まとまりなくてすみません)
 少し前、大人のためのって銘打った童話(おとぎ話)はやりましたよね?
 あれ見て、私は、ああ、もう、えぐいなあーって地団駄踏んでました。
 そこはかとなく醸し出され、個人として楽しむことを暗黙の了解にした童話(おとぎ話)世界の闇部分を 抽出して脚色して大量生産された。
 前回のファンタジー特集でのjamanoさんのエッセイに出てきた神坂さんのセリフじゃないけど、 まさに「実際に小説にするのは反則だな」ってやつですよ。なんか書き逃げですが、とりあえずこのへんで。


 6   サイキ    2003/11/03(月) 13:21

「童話には「古くから伝えられた」話と「創作された物語」がある」と分けられてると考えても良いのですが、グリム童話っていうのはかなり脚色が入っていて何版も重ねるごとに訂正やら書き足しを行なったらしいです。
そもそも「ものしり婆さん」に聞いた話とうたってますが、実際は若い娘で、後にグリム兄弟のどちらだったか忘れたけど、片方と結婚したとかなんとかという話があって、グリムも旅にでて民話を採集してない。
一方でドイツ語辞典を編纂しているような人で、ナポレオンに収奪されないドイツだけの言葉を纏めるために「グリム童話」を作った(編纂)した、ということらしいです。
ペローの童話はまだ昔の面影が強いらしいですが、実際のところ、そうなると「大人のためのって銘打った童話(おとぎ話)」は翻案の翻案の翻案っていうことになってしまう。
ちらっと一番売れた本を覗いてみたんですけど、ポルノちっくで笑ってしまいました。

話を戻しますが、そうなると、童話が「子供のために作られた話」ってことは、疑問視しちゃうんですが、この手の創作か・実話かという議論は「遠野物語」でも同じですよね。
童話/児童文学/おとぎ話/絵本っていうジャンル分けがあるけど、それがフラットな形で、出版形態上、便宜上に分類されてて、とても大人の理論で作られた気がして来るのですが。
MOEっていう雑誌はその辺りよく考えてて「メルヘン」という言葉を使っています。
そのあたり上手いなあ、と思うんですが、じゃあ「メルヘン」っていうのが童話や児童文学の本質なのか、と言われると首を傾げなくてはならなくて、図らずも(いや、図ったのか)「大人のための童話」の一連の出版物はメルヘンの逆の部分を提示してしまった。
じゃあ、それを踏まえた上で童話とはどういうものかと考えるのが、今、童話を考えるってことだと思うんだけど、ネットで書かれている「童話」は旧態依然の安物コピーでしかない。
(書店で並んでるのなら、絵本ですが「あらしの夜に」っていうのは凄く好きです)
この問題は、やはり「子どものためのものだ」という思いこみが強いのではないか、とも思ったりするのですが……。

〈ごめんなさい、ぜんぜん「思い出の童話や感動した童話、楽しかったものなど」って話題ではないですね。えっと後で編集するので、話噛み合わなくても他の方もお願いします。〉


 8   岡沢 秋    2003/11/03(月) 13:56

私はサイトで童話リングにも入ってます。
加入者が多いので、MLはウザいほど毎日届くんですよ。「サイトに何々の話をアップしました」だの、「童話コンクールに入選しました」だの。

はっきり言って、そーいう宣伝してるサイトの童話って、大人の遊戯でぜんぜん面白くないんです(笑
言ってしまえば「何だ偽善者め、童話とか絵本とか言うと、なんかちょっといい人に見えるからやってんだろーが」とか、「自分の幼稚な部分を正当化したいだけじゃないの?」とか、ぶっちゃけなことを思ってしまうんですよね。
ベタベタな絵本を仲間内で褒めあってたりすると、嫌悪感がじわじわと来ますねぇ…。

自分にとって、童話っていうのは、いかに想像力を刺激するか、コレに限ります。
読んで楽しい=文章から、いろんなことを想像できる。
大体の童話って、ストーリーが決まってて、言いたいこともガッチリしてて、押し付けがましいというか、想像力の幅が非常に狭くて、読んで頭の中であそべない文章。だからつまらない。
そんな童話、すぐに飽きるに決まってるじゃないですか。ねえ。

昔読んで楽しかったのは、やっぱり、いろんなことを考えて遊べる童話だったですよ。続きとか、文章に書かれていないページとページの間とか。頭の中で想像して勝手に話を作り替えてしまうんで、今では本当のあらすじはぜんぜん覚えていないんですが、でも楽しかったことだけは覚えている。
そういうのが本来の童話じゃないのか。と思うんですよ。


 9   サイキ    2003/11/09(日) 14:15

実際、オンライン以外では、この、どうしようもない(と言っちゃうけど)状況に対して、どのような問題定義があるのかと思い、本を探したら、ありました。
・舟橋克彦著「これでいいのか 子どもの本!!」(風濤社)
・さねとうあきら・中島信子・長谷川知子著「(超激暗爆笑鼎談)何だ難だ! 児童文学」(編書房)
まだ他にもあるかなと思いますが、近所の図書館で二冊借りてざっと読んでみましたが、アレです。
要は出版社や書き手も読み手も批評性がないということで、出版される本も簡便な慣習に則って、ただ、出版されているものだ、という状況らしいです。本屋に並んでいる児童文学の本ですら、そうだからネットはいわずもがな。
児童文学のジャンル的な、書き手は大人だけど、読むのは子ども、という矛盾で、大人の想定した子ども像が定着してしまっていると思います。その定着した子ども像を一回解体しなければあらないのかな、と思ったりするのですが。

上の鼎談本にちらりと話題が出てたのですが、80年代に自民党による国語教科書批判というのが行なわれて、歴史童話や民話童話が国語教育から追い出されたと言う経緯があり、社会のことや歴史のことに触れるとどこでおとがめを受けるか分からないので、自主規制してしまった、ということらしい。結果的にどう生きるかというより「優しさ」や「メルヘン」が童話や児童文学の主流になってしまった。
それが画一的なつまらない原因なのかな、と思ったりもします。

ところでどういう童話が心に残ってます? 
周りに聞いたらこんなのが出てきました。(僕のもあわせて)
「ぐりとぐら」「白いうさぎと黒いうさぎ」「いやいやえん」「おしいれの冒険」「おたまじゃくしの101ちゃん」「てぶくろを買いに」「100万回生きたネコ」「あらしの夜に」うーん、まだあったかなあ。。。

 12   ぱそ子    2003/11/09(日) 19:50

「ごんぎつね」で大泣きしました。>心に残った童話
ごんが心を入れ替えたのにも関わらず誤解から殺されてしまうあの不条理感が、すごく悲しかったです。

 13   トリコ    2003/11/09(日) 22:21

ちょうどタイミングよく、フランチェスカ・リア・ブロックが数々の有名な童話(白雪姫、美女と野獣、シンデレラなどなど)を再話するという試みで書いた「薔薇と野獣」を読んでました。
フリーク、セックス、ドラッグ、ピストルなど、「童話」のイメージからほどとおいものが堂々と登場するわけですが、アメリカでは2000年の最優秀児童書に選ばれたらしいです。
思わず、「マジで?! なんてかっくいいの!!」としびれてしまいました。わたしも小学生くらいのときにこういうの読みたかったなーとか。
更に声を大にして言いたいのが、白雪姫が自分で作った白いワンピースに小人たちとおそろいの鋲のついた黒いごついブーツを履いているんですよ!! げ、激オシャレ!!!(感涙) 赤ずきんのおばあちゃんはいつもジーンズですよ!!! 部屋には古着のアーミージャケットですよ!!! ううううーーーー。
だって従来の童話のお姫さまたちって、、、、ダサイじゃないっすか。いくら文中に「すてきなドレス」(ううむ、稚拙な表現だ)と書かれてたって、イラストが激ダサっ!! ってことなかったです? わたしはあった。大いにあった。うっとりできなかった(それなりにはうっとりしましたけど)。ディズニーの白雪姫やシンデレラなんて目を覆いたくなるほどのファッションセンスですよ!!

なんか、このスレにまったく関係ないような気がしないでもないですが、そして興奮しすぎてどうもすいませんてかんじなんですが、えーっとえーっと。
スタイリッシュなフェアリーテール、というのはわたしが今後、書いていきたいものでもあります。
それが童話になるのかそうじゃないのかは自分ではよくわからないです。でも確実にわたしが子供の頃に読みたかったものです。
童話というより、少女小説になるのか? という気はしないでもないですが、いやでもあくまで「フェアリーテール」ですよ。別に魔法とか変身とかしなくても、「フェアリーテール」になるのではないかと。思うわけです。すいません、考えまとめてから出直します。

わたしが心に残っている童話は「ロバの皮」。ロバの皮をかぶって生活する王女さまがお休みの日にロバの皮を脱いでオシャレして、自室で1人ファッションショーをするという場面が大好きでした。でもやっぱりイラストは激ダサでしたよ!!
「ほうせきひめ」ですねー。うーん、やっぱりおひめさまものに弱いみたいです。わたしも口からぽろぽろと宝石や花をばらまいてみたいものですわ。

 15   fumio    2003/11/10(月) 00:041

>トリコさん
童話の挿絵が激ダサ!ほんとそうですよね!!!と「!」が3つ並んじゃうくらい同意です。
お姫様もそうだったけど、王子もイケてない!かぼちゃパンツに巻き毛だし、大体において頭悪いし!こんな奴こっちから願い下げだな、という王子様が多かった気がします。

こどもの頃に読んで思い出に残ってるのは「エルマーとりゅう」!あのリュックに詰まってるお菓子が美味しそうで、欲しかったです〜。(現在だと「ハリポタ」の「百味チョコ」なんて安易に商品化されてしまうけど、その味と効果を想像する楽しみが、逆に小さくなっているんじゃないかなあ…)それから「シートン動物記」の「ロボとブランカ」のお話。童話かというと微妙ですが、ロボかっこいい!って。そこらのボンクラ王子よりよっぽど憧れました。
大人になってからはシルヴァスタインの「ぼくを探しに」、アニメじゃない「ムーミン」、あるいは奈良美智さんの作品なんかもいいと思います。大人が大人のまま、童心の部分で感じることのできる作品。こういうのも「童話」として認めていいのかなという気がします。それから「クラフト・エヴィング商会」の空想噺なんかは、完全に仕様は大人向けの本ですが、読んでいるとコドモ心が疼くのを感じます(笑)。
あと、「くまのプーさんの哲学」とか、童話のお膳立てを使って大人に語りかけているもの、たまに見かけますよね。チーズとかペンギンになぞらえたビジネス書も、広い目で見ると「大人のための童話」のつもりなんじゃないかと思います(クォリティとしてはともかく)。

それから、日本人女子としては「なんでいい大人がそんなにキャラクター好きなのか」というのがけっこう気になっていたりします。かくいう私も「リサとガスパールが可愛いの!」なんて言ってたりするのですが、「たれぱんだ」とか「こげぱん」とか、キャラクターから絵本になったもの、多いですよね。「動いてるのが見たい」「ストーリーが見たい」と思わせるものがあるのでは…と、バクゼンと思ったりしています。

まとまらない上に長くてすみません。「童話」というテーマをもらって思い浮かんだことをざらざらっと書いてしまいました。
私ももうちょっと頭まとめてから出直します…

 

 16   トリコ    2003/11/11(火) 22:16

>>15
笑いました>王子イケてない!
なんだそのひだ襟は!! てかんじですよ!!!

わたしは子供の頃、アンデルセンの童話集だと思って買ってもらった本が実はアンデルセンの伝記で、子供心にものすごくショックででも今更、ほんとはこれじゃなかったなどと親には言えず、更に親は親で「この子は小学校低学年のうちからこんな字のいっぱいの絵の全然ない本を選んであらまあまあ」ととても嬉しそうに周囲の大人達に自慢していたので引くに引けず、その後も親受けを狙ってキュリー夫人だのヘレンケラーだのひどいときはベーブルース……って誰だよ!!! などと思いながらそれらの伝記をチョイスしていたという、なんというかいやあなかんじの過去がありまして、だからか童話をおそらくあまり読んでないのです。というか、本自体読んでないですけどもー。
この経験を生かして(?)「大人が子供に読ませたい本」ではなく、「大人が子供に読んでほしくないような本」を目指して書いていきたいと思います!

 17   サイキ    2003/11/15(土) 00:58

フランチェスカ・リア・ブロック、ここで立ち読みしたら、なんだか面白そう。
童話の料理の本って、確か、あったはずと思って探したら、
絶版でした。たのみこんでください
あと、こんなの発見。これは最近出てたんですぐ手に入るはず。
「物語のおやつ」著者: 松本 侑子著

 18   岡沢 秋    2003/11/15(土) 01:02

童話って、実は元は北欧神話だったり、騎士文学だったりするんですよ。
なので、もともと王子様はゴツい野蛮人だったりするんです。
白鳥の湖って、白鳥はもとは戦乙女で、王子様は戦士だったりするわけですが、 戦乙女な奥さんは、「私には戦場が似合う」といって夫を捨てて戦いに行ってしまうのですよ^^;
実際はヒラヒラのフリルついたドレスは着てないし、王子様もカボチャパンツは履いてなかった。
ちなみに、この白鳥の湖の原型とおぼしきお話での白鳥姫は3人いました。
エッダでは「ヴェルンドの歌」、騎士文学では「シドレクス・サガ」に登場します。

たぶん、今想像される「メルヘン」な世界は近代になってから作られたものなのだと思います。
ふりふりドレスもかぼちゃパンツも、中世後期の衣装と思われますし。

「本当は残酷なグリム童話」…なんてのが一時期はやりましたが、 本当も何も、童話というのはもともとサガや騎士文学の一部をパロって 大衆向けに作り直されたものなのだから、 原型を突き詰めていけば猛々しいのは当たり前じゃないのかと思います。


で、自分が心に残ってるのは「ねことことり」(タイトルはウロ覚え)です。
鳥かごの中でずっと暮らしていた小鳥と、高いところが怖い臆病な猫に友情が芽生え、 いちど思い切り空を飛んでみたいという小鳥のために、猫はとりかごを開けてあげる。
小鳥は空を飛べたことに満足してとりかごに戻ってくるのだけれど、 疲労からか、翌日、死んでしまう。

小鳥の飼い主は猫が殺したのだと思い込み激しく追い払われながらも、 猫は、かごの外に落ちていた小鳥の羽根をひろって走り出す。
で、高いところが怖かったはずの猫なのに、町でいちばん高い木に一気にかけのぼって、 小鳥が大好きだった空に、くわえていた羽根を放してやる…

というお話です。ラストシーンがすごく切なかったのを覚えてます。 今も売ってるんでしょうかねー。

 19   サイキ    2003/11/15(土) 01:44

「童話」の絵がダサイっていうのは、確かにあるわけだけど、
古い挿し絵の類だとエッチングの線画で美しいものが数多くあって、ほとんど細密画のような絵で、
非常に美しい。
今、ちくま学芸文庫の「ヨーロッパの子どもの本(300年の歩み)」ベッティーナ・ヒューリマン著
という本を読んでるんだけど、古典的な児童書の紹介と作者の物語があって、それと共に当時の絵が紹介されている。
よく纏まっててお勧めです。
絵の件ってモロに出版予算に絡んでくるだけに、どうにもこうにもゆかないという出版社の事情があるんだろうなあ、と
大人になった今では思います。

あと「大人が子供に読ませたい本」ではなく、
「大人が子供に読んでほしくないような本」という話があって、童話の成立って子どもの教育と絡んでるんだよな。これって、すごくネックになってて、情操教育とは別の場所で子どもが読んで面白いものという立場の本が生まれにくいというのがあるんじゃないかな〜と思ったりします。

なるほど。>岡沢さん 
神話に疎いんで、ちょっとそれは考えが及びませんでした。
じゃあ、いつからメルヘン的な物語が童話という形になったか、というのを調べると面白いのか?とも思ったりしますが、ペローにしてもグリムにしても、ある程度そのメルヘンチックなストーリーですよね。
サーガと物語の中間の時代って記録が残ってたりするのでしょうか?(ペローやグリムが創作した、と考えて) 僕はその辺りが気になるのですが。。。

「ねことことり」これじゃないよなあ。。。検索したら出てきたんだけど、違うかも。

 21   岡沢 秋    2003/11/20(木) 00:10

>サガと童話の中間
はいはい。ありますよー。
童話の原型が神話や古い伝承だった時代、 つまり「エッダ」や「サガ」の時代というのが、だいたい13世紀あたりまでです。
んで、そこからドイツやフランスで騎士叙事詩が発生し、 伝承が洗練された物語形式になっていきます。 (王子様・お姫様という役割が生まれたのは、このあたりの時代のようです。騎士=王子ですもんね)
ただ、この時点では、物語はまだ王侯貴族など知識階級に限られた所有物です。
洗練された物語、サイキさんのおっしゃる緻密な絵で飾られた物語というのは、 たぶん、この時代のインテリ階級用を想定したものじゃーないかなぁ〜、と。

んで、途中、伝承には停滞期があり、14-15世紀あたりはヨーロッパは暗黒時代突入のためほとんど進展はないんですが、 16世紀あたりから物語の大衆への開放がはじまります。
その引き金となったのが、印刷技術の発明による安価な本の生産と、 宗教改革により聖書という本が大衆に出回り始めたこと。
「みんなで本を読もう!」ということになり、昔物語がはじめて 文字という媒体を得たンですね〜。

このあたりから、神話・伝承の格調高い物語が大衆向けの単純な物語に作り変えられていきます。
王子様がドラゴンを倒してお姫様を救うとか。 とらわれの美しいお姫様が塔に閉じ込められてるとか。
勧善懲悪の世界になっていくんですよ。

と、いうわけで16-17世紀あたりが、神話・叙事詩と童話世界のボーダーになるんじゃないかと私は思います。
グリムなどが収集を始めたのが、その後の時代ですよね。 ただ、グリム童話も、最初はかなりエグい話ばかりだったようですよ。 白雪姫の美しさに嫉妬して毒りんごを食べさせるのが実母だったり^^;
今、知られているような形になったのは、 本当に近代のことなんでしょうね。童話は変化する…、というか時代に合わせて変化せざるを得ない。 というのも一つ、あるんだと思います。
長くなりました。カンペなしで喋ってるので、どっか間違えてたらスンマセン。

>ねことことり
 …うーん。いや、なんか、最後のページの絵しか覚えてないんで、よくわかんないです…
すんません、なにしろ20年近く前のことですし^^;

 

 22   サムラ    2003/11/20(木) 16:12

中世の貴族階級で語られた物語は当時の絵画からうかがい知ることができるよう、 聖書や古代神話をベースにしたものが多かったんだと思います。それに対し民間、特に 娯楽の少ない農村部では大人の楽しみとしての『語り』、口承伝統が発達し、こちらは 妖精や魔女、怪物といった農村生活に関係したモチーフが多く、内容も大人むけ ですから、かなり露骨で野卑なものだったようです。

これらの大人用の物語を子供に読み聞かせる『童話』として編纂したのはやはりペローで、 最初はルイ14世の弟の娘(内親王)に贈ったものでした。それゆえペローの童話は 農村の口承伝統をベースにしながらも、大人達が好んだ野卑な表現はそこそこ抑えられ、 また物語の最後にはきちんと『教訓』なるものが付けられていました。
それから一世紀余り後、グリム兄弟が『子どもと家庭の童話集』というのを出します。
これはそれまでの口承伝統やペロー童話を踏襲しつつも、『状況』だけを淡々と語る昔話とは違い、登場人物らの『心理』が描かれた『物語』へと発展していました。 そして版を重ねるごとに『童話として不適切な』つまり子どもに語るにはふさわしくないであろうと判断された部分が削られていきました。(実母→継母、妊娠描写の削除など)

完成と言われる現在のグリム童話(第七版)でも、今の私達の感性からすると童話としてふさわしくないような暗さやグロテスクさが残っているのですが、そうした私達の童話に対するイメージには、少なからずディズニー映画の影響があるように思います。個人的にはディズニーは殆ど見ずに、かわりにアンデルセンの童話をよく読んだので、童話というのには『切ない』イメージがあったりするのですが……(人魚姫、赤い靴、錫の兵隊など)。
生涯にわたって恋が成就しなかった童話作家に、トラウマを植え付けられた気がします。

 

 24   サイキ    2003/11/22(土) 23:29

>最初はルイ14世の弟の娘(内親王)に贈ったものでした。
なるほど。これで、なんかきになってた疑問が分かったような気がします。
「童話」というものの非常に語りにくい部分、というのは「大人が子どものために」という前提があって、書かれたものだ、という大前提がそもそもの初めの段階から存在してたわけで、それそのものの楽しみ方や批評などの語り方というものが、他の小説や詩などの文学に比べて形成しにくい、ということの一番の問題なのかなあ。と思いました。編纂して書物として残るということで、口承文学のなかで使われてたようなエロやグロの描写、例えば、それは「子どもはわかんなくていいから」とたき火に当たりながら語ってた大人達の物語からどこか教条的な部分が挿入されてくるという課程に至る訳ですね。

それで「教訓を含んだ過ぎし昔の物語―または小話集(1697)」がペローによって作られて、 それが、今ある「童話」の始祖として考えられてるのからは、こういうことが言えるのかな?
「童話は教訓を含んでいなければいけない」と。
あれ? なんだか、これって、日本の「仏教説話」の形成に似てる気がする。
とか、思ってグリムなんかを読んでみると、特に教訓というのは含まれてないのもあったり、実際は含まれているのだけど、それをはっきりと見えないような形になってるのもある。
まあ、教訓っていうのは退屈なものだから、物語上から消滅していけばいいのだけど・・・・・・

それで思うのは、じゃあ、現代に「童話」を書くということは、一体どういう意味があるのだろうか。
今回、「童話書いてね!」と言い、創作を集めたのですが、編集として「別に『童話』というフォーマットにこだわらなくていいよ」というぐらいしか提示できなかったのですが、現代的な「童話」というのを考えると、その在り方がどのように捉えればいいのか分からなくなってしまったんですね。
「本当は残酷なグリム童話」以降にある「童話」。もしくは「メルヘン」を逸脱するような「メルヘン」とか。
本来は「童話」を日々書く「童話作家」に文章をお願いしようか、とも思ったのですが、ほとんど既存の「メルヘン」を逸脱しようとしてない。もしくはその「メルヘン」が童話である、と考えている節があって。

逆に研究者は宮沢賢治とかの世界を掘ることを熱心にしているかわりに、現在進行中のものに対してあまり目を向けていないのではないか、と、思ったりした。逆に、大人のための童話は、どういう風に作ればいいのか、と悩んだり。つまり、大人のために書くのであれば、それは純粋に「童話」というフォーマットではない。
だが、書くのも読むのも、実は大人であるという矛盾。
もちろん子ども時に親や教師に与えられて読むのが、童話の一般的な普及の仕組みだから、一度検閲が入ってる訳ですよね。
その検閲を通り抜けるためには一体どういうことを、すればいいのか、とか・・・・・・
僕はそういう部分で子どもをスポイルするために童話が存在するのか、とか思ってしまいました。
ことが「童話」という文学の問題ではなくて、実は「教育」の問題なのか、とか・・・・・・
そのあたりというのが『「童話」というのは何か』と問題定義する時に、すごく難しいことだなあと思います。
(って僕はずっと同じことを繰り返してる気がする。)

 28   サイキ    2003/11/23(日) 17:56

ところで、「ソフィーの世界」以降、童話をそのまま童話の媒体として描くというのではなくて、「童話」のフォーマットを延用して「童話」を作るというスタイルが確立したんではないかと、ふと思いました。
例えば、「童話物語」()とかは、ファンタジーの世界なのですが、ストーリーの運び方や文体は童話のフォーマットだったりするんですが、これって新しい「童話」の形なのだろうか?とか思ってしまうのですが。
もちろん先駆者としてエンデとかいて、アシュラ・K・ル・グインとかが熱心に童話というジャンルに取り組んでいる。
そういったことを話はじめると、ファンタジーと童話と大人のメルヘンという混交状況だったりして、話はややこしくなるんですが……。

 29   サムラ    2003/11/25(火) 11:42

グリム兄弟らによっていわゆる『童話』というスタイルが確立した後、
多くの作家が童話というジャンルに取り組んで、それは子供のために
書かれたものなんですが、書いているのはやっぱり大人だし、子供もただの
馬鹿ではないので、きちんとした童話は大人が読んでもちゃんと中身が汲み取れ感動できる
内容になっていると思います。すると今度はそれらに刺激された現代の作家がさらに
童話というフォーマットを利用した作品、いわゆる大人むけの童話のようなものを書いていて、
それゆえ童話というジャンルが混乱してしまっているのではないかと。
ただ、大人用に書かれたもの、それはやはり童話でなく『童話のフォーマットをした小説』
ではないかと思います。個人的には、童話というのはやはり『子供のために書かれた物語』だと
思うんですが、ただ書き手のほうが子供を甘くみると、中身のない、ただ読みやすい
だけの安物コピーになってしまうんだと思います。子供ほど熱心な読者はいないのに。

 30   サイキ    2003/11/26(水) 03:14

今回、この特集のために、サイトを巡ってて、さる童話研究をなさってる方に、原稿依頼と共に僕の疑問をぶつけるようなメール出してみたんですが、返事はまあお断わりのメールでしたが、だいたいこういう返事でした。
 ・童話研究とHPで書いている人との間の齟齬はプロとアマの違いなんで、そもそも批評としてかち合わない。
書き手は読者ではなくて、メルヘンの世界にひたるだけで満足してるような気がしまして、顔見知りの内輪のサークルという場所だけに限定されてはいまいか? という疑問に対しての答えは
 ・サイトは個人の「想い」だけで、またあえて「児童文学」ではなく「童話」という呼称で発表されたものは「メルヘンの世界」が多い。
他ジャンルに比べて作者の顔や全体像が見えないのではないか? ということに対しては、
 ・他ジャンルの作品は最初の読者の想定が作者を想定しているのに対して、童話の場合は子どもを読者対象としているので、齟齬があるのは仕方がない。
という答えでした(要約に不備があるかもしれないけど)。

 まあ順当に納得できる話だし、サムラさんがおっしゃるように、〈童話というのはやはり『子供のために書かれた物語』だと〉というのも分かるのですが、僕はなんだか、しっくりこないのです。
その理由をずっと考えていきますと、どうやら、子どもの頃は、ほとんど「童話」やいわゆる「児童文学」をまともに読まないで過ごしたのだ、ということに思い至りました。
上の方で「絵がダサイ」とかいう話が出てたりするんですが、「童話」や「児童文学」を読むというのよりも怪獣辞典とか、図鑑とかを目を輝かせて見てる子どもでした。 んでもって、少し大きくなると、子供用に優しく書かれた伝記や世界文学全集の小公女とかロビンソンクルーソーとか読んだりしてたような気がします。
それと共に仮面ライダーとかウルトラマンとかのキャラクターものを愛してました。

でも、それって今の子どもも同じじゃないかなあ、とか思ってしまうのです。
今ならポケモンとか、宮崎アニメとかゲームがもう手元にあって、それを先に手にしてしまう。おまけにそれらのキャラクターを子ども以上に熱心に愛玩するのは、大の大人だったりするということで。ずっと、疑問に思っているのは、「大人が先か子どもが先か」というニワトリ問答なんです。
僕自身のことでいえば、「童話」というのをちゃんと読んだのは大人になってからなので、「童話」って子どもが読者の振りしてるけど、本当の読者っていうのは、大人なのではないのか? と思ってしまうのです。

 32   サムラ    2003/11/26(水) 11:09

なるほど。サイキさんがどうして『童話=子供用』という構図に疑問を抱かれて
いるのか、よくわかりました。たとえば将来子供たちが本を読まなくなってしまって、
童話や児童文学というジャンルが大人の研究者たちだけのものになった場合、
それでもそれらの物語は『童話』であるのだろうか、なんて思いました。

 34   岡沢 秋    2003/11/27(木) 20:48

自分の中では、童話というのは残酷である「べき」なものです。
残酷で、シビアで、そして現実である。
んでも、その中に「優しさ」を込めることが出来るのが、現代人の童話だと思うので
す。

たとえば、童話だからといって「くまさん」「おおかみさん」とダンスは踊らなくて
いい。
狼は獣で、人間を襲うものなのだから、ありのまま、そうであっていい。赤ずきんを
追っかけてって食っちゃっても構わない、むしろそれが現実です。
だけど、因果応報とばかり、狼の腹を切り裂いて石つめて殺すんじゃなく、たとえば
狼も助けて、女の子は食うなと諭して逃がすような。

ご都合主義でハッピーエンドになったり、厳しい側面を覆い隠して激甘の仮想世界だ
けで話を進めるのは間違ってると思う。

人間ふくめ動物は本来、無関係な他人に対し残酷なもので、
子供はその残酷さを制御することができないゆえに本質的に残酷なものである。

だから、ただ優しいだけの物語は面白いとは感じないと思う。
あくまで現実の一部として、死ぬべきものは死んでいいし、どうしようもないことは
どうしようもないと描かなくてはいけない。

たとえば、雨の日に拾った子猫が必ず助かる必要は無いし、バス亭で飼い主を待ち続
けた犬のもとに、ご主人が帰ってくるとは限らない。
現実に、親切から悲しい思いをすることはあるし、報われない努力はある。
だけど、その厳しい現実の先に暖かい夢を見せることが出来るのが童話なんじゃないかと…

それが、「死んだチロは星になりました」みたいなオチで。現実は解釈次第で、その
解釈の一つに、童話が描き出す世界がある。
だから大人が読めば、その童話の中には大人の見ている世界が投影されるし、
子供が読めば、子供の見ている世界が投影される…

童話ってのは読み手の心しだいで何でも映し出せる無限の「鏡」か、
「器」のようなものだと思うのです。

 35   サイキ    2003/11/28(金) 02:06

(ごめんなさい。なんだか自分語りしてしまってました)
岡沢さんの「鏡」っていうのが、とても端的に言い表わせていていいなあと思います。
そっか、鏡ねー。
ここ数日、自分なりに考えてたのは、「骨だけの文学」という形での「童話」というもので、
文学から装飾を取っ払って、虚飾を際限なくなくしていった所に
「童話」があるのではないかなあ、とか思っていました。
勿論それが大前提とかではなくて、そういう形の「童話」も成立しても良いのではないかな、
とか考えてたのですが……

嗚呼、もっと他の方の話も聞きたかったんですが、これからこの掲示板のレス整理してアップしなきゃ。時間切れになってしまいました。唐突ですが、これで終わりにします。
なんか締まりがない終わり方だし、本当はもっと色々な作家、例えば、エンデとか松谷みよ子とかいわさきちひろ、今江祥智とかの話もしたかった……すみません、こんな流れになってしまったのは、僕がひとりで怒ってばかりで悪かったです。
えー。
ご協力して頂いた方々、ありがとうございました。