vol.4

屈折

屈折


ヤマグチ

1

 空は晴れていた。
 日曜日の午前九時に、なぜか僕は制服を着ていた。もちろん、私服も持っているし、制服を着るのが趣味なわけでもない。制服を着ているということはつまり、これから登校するのだ。日曜日の、午前九時に。
「おはよう」
 玄関先でサボるか行くか瀬戸際の決断に迫られていた僕は、後ろからかけられた江川さんの声に振り向いた。「あ、おはようございます」
「日曜なのに、学校?」江川さんは美しい微笑を浮かべながら僕に尋ねる。「大変ねー」
「ええまあ、生物の成績が大変なことになったので、補習登校するわけですが」
 照れもせずに言い切る僕に向かって、江川さんは「頑張ってね」と言った。「弟の分まで」という言葉は、元からなかったのか、続くはずだったものを省略したか、僕には分からない。
 隣家に住む江川さんは今年で二十二歳。とんでもなく綺麗な顔立ちをしていて、僕の憧れの人である。また、元級友の姉でもある。職業は不明。短大を卒業したあと、どこかに就職したらしいのだが、詳しくは知らない。
「これから駅? 私も今から駅に行くんだけど」
「お仕事ですか?」僕は自転車の荷台を指差した。「じゃあ、乗っていきます?」
「遠慮するわ」江川さんは笑って、車のキーを僕に見せた。「乗っていく?」
「もちろんです」と僕は答えた。

 江川さんの赤い車が駅の駐車場に止まった。お礼を言って助手席を降りると、江川さんも車から出て僕の隣に並んで歩きだした。
「あれ、江川さんも電車ですか?」
「うん。車で行くと、目立つから」
 ますますどんな仕事か気になる。車で駅まで来て、そこから電車というのも珍しい。
「補習って、勉強ちゃんと頑張ってるの?」江川さんは色っぽい笑みを見せながら僕に尋ねた。尋ねながら、黒い髪を手で梳かしていた。白いうなじが見えた。少し興奮した。江川さんは艶やかに目を細め、僕の唇の前に顔を持ってきた。「ねえ、聞いてる?」
「聞いてます。勉強はこれから頑張るんです」無意味だと知りつつ、平静を装った。
「去年も聞いたね、その台詞」江川さんはまた笑う。横目で僕を見ながら。胸の膨らみに目がいった。江川さんは綺麗だけど、清純派じゃない。お色気タイプだ。そのことを意識してか、江川さんはよく僕にとって挑発的な態度を取る。お願いしたら今すぐにでもベッドに行ってくれそうな気配を醸し出す。僕は興奮する。江川さんといると、いつも。
「だって」僕は唾を呑みこんで答えた。「去年も言いましたから」
「去年かー」江川さんはため息を吐いた。「もう一年以上だね、憲二が学校にいかなくなってから」
「そうですね」と僕は頷いた。「アイツがいきなり登校拒否をはじめてから、およそ十四ヶ月です」
「なんで急に登校拒否なんか」江川さんはさほど深刻そうでない表情で呟いた。「何か知ってる?」
「知りません」と僕は答えた。「去年も聞かれましたけど、知りません」
 僕は自動改札機に定期を送り込みながら、憲二の顔を思い浮かべた。姉に似た美しい目と輪郭は思い出せた。けれど、そこから先がどうしても上手くいかなかった。
 僕と江川さんが並んで構内を歩いていると、後ろから声をかけられた。本日二度目。
「滝本君、おはよう」と肩を叩いてきたのは、僕に本日の補習を命じた生物教師であり、去年の憲二の担任である橘先生だった。二十九歳、独身、しかもお金持ちの家のお嬢さんで、もちろんお金持ち。この駅近くに在住、どちらかというと清純派の美人。学校のマドンナ先生というお決まりの存在がいるとしたら、たぶんこの人だ。何せ他には男と牝猿しかいない。
「おはようございます」僕はにこやかに挨拶を返した。本音を言えば、江川さんとの時間を邪魔されたことに、少し腹をたてていた。けれど、いくら腹を立てていても、教師に向かって中指を立てるほどの根性は僕にはなかった。
「偶然ね」と橘先生は言った。偶然といっても、橘先生は僕や江川さんと最寄り駅が一緒だから、奇跡的な確率というわけでもない。
「偶然ですね。先生、電車通勤でしたっけ。あまり会いませんね、普段は」
「私は朝が早いから。ところで」と先生は僕の後ろに立っていた江川さんを見た。「そちらの方は、お姉さん?」
「はい」と僕は言った。説明が面倒だったのだ。なんといっても、江川さんの弟は去年橘先生の担任した登校拒否児なのだから。「そんな感じの人です」
 江川さんは困ったような笑みを見せて、お辞儀をした。そのあとで、背中から僕をつついた。指ではなく、大きな胸で。困った。僕は少し前かがみになった。
「滝本君、今日の補習は午前中で終わるんだから、なるべく寝ないでね」と橘先生が言った。僕は曖昧に返事をした。寝ないなんて無理だと心の中で呟く。
「あら、午前中で終わるなら、お昼ご飯、一緒に食べない?」と、これは江川さん。「私も午前で終わるの、仕事」
 言ってから、江川さんはぼやくように「時間が不安定なのよ、私の仕事って」と文句を言った。
 江川さんの職業は不明だ。けれど、江川さんの職業とは無関係に、僕は犬のように頷いた。江川さんの職業よりも、数時間後の楽しいランチの方に僕の興味は向いている。
「でも、補習で寝たらダメだからね」と江川さんがにこやかに付け足すので、僕は橘先生の方に振り向いた。
「寝ないことになりました。よろしくお願いします」
 その様子を見て、江川さんは笑った。それから「じゃあ、一時に公園前駅で」と言って、手を振った。ちなみに、公園前駅というのは、僕の学校の最寄り駅だ。
 僕と先生は逆方向の電車に乗るので、プラットホームを移動することにした。後ろから「あとでねー」と手を振ってくる江川さんに頭を下げて、僕は先生と一緒に移動をはじめた。しばらくして振り向くと、江川さんはまだこちらを見つめていた。にこやかに、ではない。やけに真剣そうな表情で。

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