Folio vol.5 mystery
illust:津守秋
半密室
サイキカツミ

 例えばその部屋で目覚めた男をAとしよう。Aは奇妙な夢の残滓に、泥酔したような心持ちで目覚めた。ベッドの柔らかなスプリングと新鮮なシーツの匂いは、そこが病院だと感じさせた。Aの視界を占拠するのは白く張りつめた天井の色で、何故その場所に自分が寝ていたのかという理由を知らなかった。起きあがり、改めてその白さを確認し、コンクリートの打ちっぱなしにペンキが塗られているのだろう。触れて壁の堅さを確認した。その部屋にあるのは木製のベッド。そして壁際の床の上に置かれたテレビだけだった。14インチぐらいの大きさで、旧式のテレビだった。映るかどうかは怪しいものだとAは考えた。近付いてみると見知らぬ顔が映っていた。自分は、とAが考えると、なにも記憶は浮かばなかった。だが、理由は不明だが、それは自分の姿だと認識したし、間違いもないことを知っていた。見上げると、天井際に格子入りの小さな覗き窓があり、そこから陽光が差し込んでいた。斜めに延びた光線が白い壁に矩形を落としている。どうみても出口はなかった。部屋の隅に水洗トイレが仕付けられていたが、扉の類はまったくなかった。床も白い、白いだけの部屋だった。
 Aの脳裏に浮かんだのは当然のごとく、「ここは何処だろう」という思いであり、何故だという問いだった。覚醒時の緩やかな思考が霧散した後、彼は恐怖にとららわれた。この部屋は独房なのだと考えたのだった。出入り口がないのだ、と、右往左往し何らかの仕掛けが存在するだろうと探した。テレビに駆け寄って、電源を付けた。が、画面は依然としてブラックアウトしたままだった。背後に壁に向かってコードが延びているのに気が付いて、その向かう先にコンセントを発見した。プラグを差し込むと静電気が飛び跳ねる音を立てて、テレビは生き返った。画面は砂嵐だ。アンテナ線の差込口など発見できず、アンテナ自体も存在していないようだった。じりじりとチャンネルを小刻みにあわせてゆくと、突然人の声が聞こえた。人の動く姿が影絵のように見えた。
「事件が起こったのは、ここ世田谷区の高級住宅地です。高橋綾乃ちゃんはお利口にママのお留守番をして……」 
 ザザ・ザザ……雑音が酷くて声の判別がつかなかった。チャンネルをゆっくり回すと、元のように復活してくれるかと期待したが、一度それらしい兆候があった後に、画面は砂嵐に覆われてしまった。チャンネルを操作しても、もう映像を映すことはなかった。
 さっき聞こえたのは何かの事件だろう、僅かばかりの情報だったが、少女が誘拐されたということだけは理解できた。テレビを消すと目覚めたときより冷たい静寂がやってきた。
 するとAの中で濁流が泡を立てるように思考が溢れ出した。静寂のせいだった。静寂は人の心に騒ぎを起こさせる作用がある。砂嵐の画面を付けてみても、もう遅いのだ。
 以前同じような画面を眺めていたことがある。いつなのかどこなのか不明だった。
 Aはじっと画面に注目した。その砂嵐の中に何らかの脱出のためのヒントが含まれていないかどうかを判断した。砂嵐はランダムに白い点を無数に点滅させていた。騒がしい程の雑音だった。ベッドの上でじっと画面を見ていると、自分が砂嵐に包まれるような錯覚を得た。この部屋はどういう場所にあるのだろうかとAは考えた。天井近くの窓からは明るく澄んだ空が見えた。その窓のガラスは汚れていないが、壁に埋め込まれているようで開閉は無理だった。再び手で触れて壁の堅さを確認した。どこかに亀裂なり、隠し扉が存在してはいないか探した。ずっと壁沿いに歩いた。あっと言う間に一周する。手が届く範囲すべてに、望みを託して触れる。期待は裏切られる。どこにも逃げ出せる余地はなかった。まるでその部屋はAを中に入れてから壁を作ったように完璧に遮断されていた。自分がどのようにしてその部屋に連れ込まれたのか分からなかった。
 窓の外が赤く夕焼けに包まれて、徐々に部屋が暗くなってゆくのが分かった。
 日が陰ってきていた。照明がない部屋の中にAは取り残された。どれぐらいの時間が経過したのか分からなくなった。
 ぷつんと音を立ててテレビの砂嵐も消えた。静寂と暗闇が襲ってきた。
 Aはパニックを起こした。壁に向かって走り、ぶつかって転んだ。何度も何度も暗闇に身体をぶつけて、やがて絶望の沈黙が訪れるまでそれは続いた。手探りでベッドに戻った。布団にくるまって泣いた。

 目覚めるとザーと鳴るテレビの音が部屋に充満していた。
 テレビは昨夜切れたままの状態だったので、再び通電して砂嵐を映し出したのだろう。Aは安堵した。ベッドでくるまって夢を思い出そうとした。たゆたうような夢を見ていた気がし、その世界を懐かしく思った。目覚めて昨夜と同じ状態だったのが悔しく感じられた。やがて空腹を覚えた。誘拐された高橋綾乃は自分ではない。当然だろう。だが、この場で目覚める前の出来事をAはまるで覚えていず、思いだそうとすると頭痛がし、あらゆるものが遠い存在のように感じられた。この部屋にAを閉じこめたのは一体誰だろう。と、しても何の意味もなかった。少女を誘拐するように自分も誘拐されたのだろうか。この場にどのようにして連れ込まれたのだろう。もし、何らかの意図があるにしても意味は見いだせなかった。もしくは自分の知らない理由によってこの部屋に閉じこめられているのかも知れないとは思ったが、理由については皆目見当がつかなかった。
 もしかすると自分は誘拐されたのではなく、この場所は独房で、何らかの犯罪を犯してしまった結果、自分は処罰されているのだ、と考え、いや、この場所は自らの意志によって入ったのではないかとも想像したが、答えは当然、なかった。「世田谷の高橋綾乃ちゃん」とは全く関係はないのだろうと想像する。何にしろ情報が少な過ぎるのだった。
 Aは再びチャンネルに挑戦した。アンテナさえあればテレビは映るのかも知れないと考えた。電源コードを右へやったり左へやったりした。だがテレビは砂嵐以外の情報を映し出すことはなく、大声を上げた喉の乾きはトイレのタンクの水を啜り癒した。空腹を感じて、そのため余計に鉄の味のする水に我が身が悲しくなった。
 翌日も同じ一日が過ぎた。テレビの画面は朝になると砂嵐を映し出し、夜になると消えた。Aはもう立ち上がる気力もなかった。

 嗅覚の刺激によって目覚めるというのはよほど空腹だったのだろう。
 目覚めたとき、プラスチック製のトレーの上に焼いたばかりの秋刀魚の塩焼きと、茶碗の大盛り白米飯。漬け物と味噌汁が乗せられているのを発見した。Aはもしかするとそれは幻かも知れないと思いつつ近づき、やがて現実だと認識した瞬間、忽然と怒りが沸き絶叫した。あからさまに意図的な第三者の介入が感じられたからだ。その第三者はAの様子を見て嘲笑しているに違いないのだ。Aは食器をひっくり返し、誰だ、と叫び、出てこい、と叫んだ。いらえはなく、Aは後悔した。空腹に耐えられなくなった。床のコンクリートの上で冷えてゆく味噌汁溜まりに口を付けて啜った。もしかするとこれは毒ではないかという疑念が浮かんだが、もう心配無用だった。殺すなら殺してほしいと思ったのだった。
 Aはその部屋のことを考えていた。ほかに考えることがなかったというのもあるのだが、他のことを思いだそうとしても思い出せなかった。その部屋M(仮名)はAの外側の立方体であり、Aを内包していた。AはMの中にあって、MはAを食用としている訳では今のところなさそうだった。Mは白い立方体だった。正方形ではなく、ベッドを中心として左右が僅かに長かった。秋刀魚の後、数日経過するとまた食事が用意されていて、今度はハンバーグだった。味はすばらしいというものではなかったのだが、手作りでこねたと思われる幾分歪んだハンバーグだったので、この部屋の外には誰かが存在しているのだということは間違いないものだと思われた。余計Aの苛立ちは高騰した。MはAに食事を供給する。供給された食事は人(X)が作成し、いずれかの手段によって、部屋Mの内部にもたらされる。Aも食事(F)と同様にMの内部にもたらされたのだと推測された。
 だがAはそういう空想をして、かろうじての精神を愛撫していたのかも知れない。
 その部屋Mの中ではAの過去や精神のありようは意味を喪失していた。人の個性は存在を肯定する外界との接点においてはじめて認識されるものだが、Aの外界には白い壁しか存在せず、向かい合っているのは砂嵐を写し続けるアンテナのないテレビだけだった。畢竟、思考は内在化するに至り、Aは始終己と対峙せねばならならず、その結果、そうしたことを空想することが唯一の慰めだったとしても詮はない。
 そこでは実在するものと実在しないものの差などないのだ。
 AはMと名付けた部屋の中で思考を続けた。思考とは実在しないものを足したり引いたりする仮想で、Mとはいったいなんなのか不明だった。Aを内側に籠絡してしまった課程を想像し、壁が作られる前にAを閉じこめたのか。もしくは壁は上下にスライドするシャッターの役目があるので、犯人はAを担ぎ込んだ後で、扉を閉めたのだろうか。巨大な氷を挟んでシャッターが勝手に落ちるのを待つというトリックもあり得る。それとも、この白い檻の中でAは生まれ、実は現実だと思っていたのは、テレビで映し出される映像だっただけで、記憶は映像の代価されたものに過ぎないのだろうか。だからこそ過去の記憶が不明になっているのだ。いや、どこかにMの外側と通じる抜け道が存在するのかも知れない。食事はどうすれば説明できるのだろう。食事は作られ、運ばれている。MはAを閉じこめている檻で肥太らせるための装置として働き、ぶくぶくと太ったところでMはAを食ってしまおうという算段なのか。それなら、食事の頻度は少なすぎやしまいか。。。Aはベッドの下に仕掛けが隠されているのではないかと考え、ベッドを動かそうとした。しかし、木製の立方体のベッドは相当に重く、一人では動かせそうにはなかった。壁がスライドするような仕掛けの跡もどこにもなかった。Aを監視するカメラも見つからなかった。小型のカメラならピンホールさえあれば設置できるはずだと思って一日かけた探索の結果、何も発見できなかった。
 気が狂いそうだった。誰か別の人物の存在がありそうなの、それは痕跡だけで姿が見えないからこそ、MはAの謎だった。Mの外側にいる人間をQとすると回答が得られる。回答はAだ。
 もしくは自己をMと規定すると、QはAに対する疑問となる。入れ物を問えば入れ物の中身に触れればならない。入れ物を思考すれば中身を思考するのと同じになるまいか。AはMでありQはMを規定する条件になる。我思うが故に我ありの永遠なる問いかけとは、中身が外身を浸食する事態をもたらした。
 Aは狂気と共に「殺せ! 自分を殺せ!」と叫んで、壁に頭を何度も打ち付けた。鮮血が流れて、やがて気を失った。

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