Folio vol.5 mystery
illust:ナカデ
ミステリー
ぱそ子
 この部屋は密室であった。まるで理想実験系のように人や物の出入りのない閉じた系であった。物は豊富にあった。生活を営む上で不便なことは何一つなかった。望むものは何でも手に入れる事ができたし、行いたいことは何でも行えた。ただし「密室」という性質上、人や物の出入りがなく、物だけではなく情報の出入りすらないというだけの話だ。
 この部屋には5人の人間がいる。いや、現時点では5人いた、と言い直すべきか。ともかく密室に5人の人間がいて、生活を営んでいた。
 1人目−52歳。男。日本人。よれよれになった茶色のスーツを着て、よれよれになった臙脂色のネクタイを締めている。黄色く並びの悪い歯を厚い唇から常に覗かせながら時々ぶつぶつと呟くのだった。
 2人目−32歳。女。日本人。真っ黒に縁取りされた目からは自慢の長い人工睫毛がにょきにょきと生えている。安物のカラーコンタクトのせいで目は充血し真っ赤である。頬の上の染みを誤魔化すための厚化粧の甲斐があってか、遠目には美人といっても差し支えはないだろう。口は紫がかった口紅で縁取られ、その唇の端にはメンソールの煙草が咥えられていた。彼女が望む限りメンソールの煙草は際限なく彼女の手に入ったので、彼女は飯も食わずに煙草をふかし続けていた。彼女は52歳男の汗と脂肪で黄ばんだ襟を見るたびに吐きそうになるのだが、彼女にとって不幸なことにこの狭い部屋の中ではその襟を見ずに1日を過ごすことは不可能だった。彼女はメンソールの煙を吸いこみながら、何とか吐き気を抑えるのだった。
 3人目−19歳。男。日本人。彼は浪人生だった。といってもこの密室の中ではどこの学校を受験することも適わないのだけれど、彼はそれでも浪人生だった。彼は、勉強しなければという思いに囚われると、ペンを取る変わりに頭を掻き毟るのだった。白いフケがばさばさと散って、若白髪がはらはらと彼の足元に落ちた。彼は自分が勉強が出来ないのは32歳女のメンソールの煙のせいであり、32歳の女は責任をとって彼と二人きりの場所で服を脱いで地べたに這いつくばって謝りながら彼の望むような「奉仕活動」をしなければならない、と思っていた。しかしながら、彼は32歳女と目を合わす事すら出来ず、再び頭を掻き毟るのだった。
 4人目−省略。女。彼女は19歳男の飛び散るフケのせいで彼女の持病である喘息の発作がますますひどくなると思いこんでいた。彼女は19歳男が頭を掻き毟るたびに部屋全体に響き渡る大きな咳をし続けた。
 5人目−30分前に死亡。



 狭い部屋なので、5人目の死体は誰もが目にすることができた。5人目は、まるで最初から魂のない蝋人形であったかのように、固く無生物であった。

 5人目はいつ死んだのだろう、と誰もが思った。が口に出して尋ねるものはいなかった。この密室では互いに関り合わないというのが上手くやっていくために暗黙のルールだったからだ。

 5人目はどうして死んだのだろう、と誰もが次に思った。5人目の死体を取り囲んだ4人が同時に顔を上げたので、お互いの目と目が合った。途端に、雷に打たれたかのように彼らは硬直し、再び目を死体に落とすのだった。

 彼らは目が合った自分以外の密室の住人達の顔を死体と交互に重ねながら、思うのだった。

 5人目は一体誰が殺したのだろう。

 しかしながら次の瞬間、弾かれたように全員が死体から離れるといつもの生活を営み始めるのだった。1人目はぶつぶつと呟きながら。2人目はメンソールを吹かしながら。3人目は頭を掻き毟り、4人目は咳き込み続けた。

 5人目が死んだからといって、誰も何も困らない。
 何も不都合がない以上、この生活を破壊する意味はない。
 何一つ不都合がない以上、探偵は現れないしミステリーは成立しない。この話はここで終わりだ。さようなら。
 付け加えておくと、5人目は4人目の咳きを聞くたびに頭にかっと血が上って苛々と興奮するのだった。そして1人目は5人目を、理由は知らないが憎んでいた。
<了>