僕と彼女の出会いは衝撃的なものでした。出会った瞬間、僕の体、精神、それら全てが彼女を見た瞬間に奪われたのです。
そう、僕は彼女の虜となりました。
僕はその日、仕事場のある都心から郊外にある自宅のアパートに電車で帰る途中でした。面倒である、ということすらもう認識できないほど、僕はこの毎日を同じように――それは定められたレールから外れないようにと必死だったのかもしれませんが――繰り返し過ごしていました。それは他人から見れば、ひどく退屈な日々を僕は送っていたと考えられるでしょう。心のこもっていない笑顔に囲まれることで、僕も何時からか嘘が上手な「大人」になっていました。
下りの電車から古ぼけた、どこかノスタルジックでもあるホームに降り、その寂れたホームから階段を一段ずつ上り、薄汚れた連絡通路をトボトボと歩いて行き、改札にたどり着きました。最近導入されたのであろう真新しい自動改札機と鉄道会社の経営不振のために長らく改装されていない駅舎のアンバランスさに気づくことすらなく、僕はその駅を後にします。周囲を見れば、前後には知らない人間が僕と同じように下を向いて行く当てもないかのように歩いて行きました。
改札の出口辺りは既に薄暗くなっており、駅前の賑やかなネオンに道案内されながら僕は東へと歩いて行きました。ネオンは駅前から離れるにつれて次第に少なくなっていき、その暗さと連動して僕の心も沈んでいくのです。街は生きている人間のように僕の心を映し出します。等間隔に置かれている街灯の明かりと、月の光、時折あるコンビニエンスストアの店内から漏れた明かりだけが僕を照らします。
そのコンビニエンスストアの前の道を横切ろうとした時でした。ふと、その店の右隣を何気なく見てみると、細い路地の奥にとても明るい一角がありました。二十一時を過ぎた頃でしたので、ここの一帯に人通りはありませんでした。僕はその明かりに惹かれ、横道に入っていきました。慌ただしい朝の出勤時には見ることもなかった場所でした。
明かりの前で立ち止まり、その店を体の正面に据えました。その店に看板は見あたりません。光が店の外にまで漏れてくるものの、中の様子は――これは磨りガラスなのでしょうか――よく見ることが出来ません。
僕は入り口の観音開きになっている扉に手をかけ、ゆっくりと押して中に入っていきました。眩しい空間が僕の視界に飛び込んできました。
白く緩やかな曲線を描くその脚に僕の心は何時からか奪われていました。しかし、僕はその心の動きにこれと言って抵抗することもなく、むしろこの状態を自らが望んでいたかのような、そういう気持ちがありました。脚は僕にとって非常に魅力的でした。僕の腕と彼女の脚が絡み合います。こうしてないと、逃げてしまいそうな僕の幼稚な恋心があったのです。
その部屋は白い光沢を持った床で、十二畳ほどの広さでした。ただ、家具などがなかったことで、その広さは実際の面積よりも広く感じます。赤みかかったこの部屋の明かりは、天井からぶら下がっている蛍光灯からの贈り物でした。
僕は頬を足首の方から太腿へ、ゆっくり感触を確かめながら僕は頬を動かしていきます。この形は僕にとって最高のものでした。ゆるやかな曲線、艶やかで色白な肌、それらはどれも僕を虜にするのに充分すぎるものでした。僕のこの幸福感をどうやって表現したらいいでしょうか。
僕は今まで他人に興味がありませんでした。いえ、精確に言えば他人に興味を持とうとしたことがありませんでした。ですから、異性との付き合いなど無論あるはずもなく、僕は一生同じような日々の繰り返しを不満に思うこともなく過ごしていくのだと思っていました。
しかし、今日を機会に何かが僕の中で変わったようです。それはもしかしたら、他人から見れば小さなことなのかもしれません。しかし僕にとっては大変大きな「変革」でありました。
この建物に入った時、彼女が私の視界にいました。彼女は僕に何を言うわけでもなく、じっと僕を見つめるのです。その視線に僕は引き寄せられるように、彼女の元に歩みを寄せたのです。
僕は彼女の悩ましい脚を側に座って眺めていました。僕は話しかけるきっかけが欲しかったのです。しかし、これまで異性と話したことのない僕にとってそれは非常に難しい問題でした。何を言えば良いのか全くわかりません。
そんな時、彼女は、「こちらにいらっしゃい」と僕に言いました。僕はその言葉に静かに頷き、彼女の脚を抱きしめました。その行為が褒められるものではないことぐらい解りましたが、一度沸き上がった欲望は最早止まることを知りません。
「あぁ、なんて綺麗なんだ」
僕は深い吐息をその左脚に吹きつけ、目を瞑りました。そしてゆっくりと呼吸をしました。踊る心を懸命に落ち着かせ、私は背中に両腕をまわし、力を少し込め抱きしめます。彼女の体温が心地よく僕の体全体に伝わってきます。僕は我慢することが出来ずに、彼女の太腿辺りを少し嘗めました。彼女は怒ったでしょうか? それとも戸惑ったでしょうか? でも、それらの感情すらも僕には快感でした。
「このまま、君を絞め殺して保存したいくらいだよ」
僕は彼女に囁きました。
そうね。でも、私もあなたを一生離したくないわ。
「僕もだよ」
だって、あなたは私の全てなの。ねぇ、お願い、今日は帰らないで。いえ、今日だけじゃない。もうここから出て行かないで。
「それじゃ、仕事に行けないよ」
仕事なんて辞めて。
「生活できなくなるよ」
生活? そんなことのためにあなたはお金が欲しいの? なら私と一緒にここで働くといいわ。それなら、誰にも邪魔されない。二人だけの時間が出来るわ。
「ここで、働けるのかい?」
えぇ、大丈夫。ここには私しかいないの。早く、私を抱いて。
「綺麗だ……」
もっと、私を見て。あなたを感じたいわ。
夜は明けました。部屋の明かりは外の明るさにあわせて照明を暗くしていきました。でも、それはもう彼にとってどうでもいいことでした。
時間などというつまらない概念はここにはないのです。あるのは歪んだ形をした愛情だけでした。それは彼にとって、非常に綺麗なものでした。この世で見たこともない結晶だったのです。
ここには彼と彼の愛するものしかありません。醜いものは何もないのです。お金も、欲望も、権力も、全てから隔離された場所でした。
彼はこの部屋の中で愛するものを長い時間抱きしめ、時に微笑み、時に語りかけながら過ごしてゆきました。
「今、白骨化した遺体が運び出されました。被害者は身元不明の男性とのことです。部屋には白色のパイプ椅子一脚があるだけという情報です。尚、遺体は死後、三年以上が経っているのではないか、ということです。以上、現場からお伝えしました」
(了)
漸
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