Folio Vol.6 Horror

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赤の女神。生としての薔薇。
blood

赤の女神。生としての薔薇。

 

意外と難しいな。俊介は眼下に広がる白いコンクリートの床を眺めながら呟いた。俊介が立っている女神像の肩の部分に生温かい風が吹き上げてくる。台座を含め全長約四メートルの女神像は、慈悲深い瞳で微笑を浮かべ、白い床を見下ろしている。その床には凝固した黒く澱んだ血液が花びらのように広がり、その上に少し濁った赤色の血液が広がり、重なるように新たな鮮血が散らばって、深紅の薔薇のような形をしている。

下に見える血の薔薇の鉄臭い匂いが鼻につく。俊介を監視しているのだろうか。一羽のカラスが俊介の頭上で円を描きながら急かすように大きな鳴き声を挙げた。八回目。俊介は大きく息を吸いこんだ。だいたいコツは掴んだ。次は失敗しない。覚悟などいらない。ただ、飛べばいいのだ。俊介は未だ鳴き止まぬカラスを一瞥した後、水泳選手が飛び込み台からジャンプするように、白い床に向かって飛び込んだ。

頭上に突き上げた両手が地面に触れた瞬間、両腕の骨が粉砕される感触を感じた。そのまま前方に転倒し、首と後頭部を強打した。「グシャ」という不快な音が頭の中に響く。おそらく脊椎が折れた音だろう。首から下の痛みを全く感じないことからもわかる。脊椎神経がいかれてしまったのだ。原型を留めていない両腕からおびただしい量の血が流れている。四肢の感覚は全くないが、意識だけはしっかりしている。女神像が俊介を見下ろして微笑んでいる。カラスが人を馬鹿にしたような鳴き声を挙げる。また駄目だった。溜息と吐血が入り混じる中、俊介はそのままの姿勢で女神像の下に横たわっていた。白い床は、新たな血を吸いこんでその花びらを広げていた。

あれからどのくらい経ったのだろう。俊介は再び女神像の肩の部分に立っていた。不安定なその足場は、女神の頭の部分を腕で掴まなければ滑り落ちてしまう。二回目に滑り落ちた時、尻の部分から落ち、台座の角で強打した。その時は尾骨が粉砕される感触と同時に身体が裂けてしまいそうな痛みが全身を走り、気を失った。三回目も滑り落ちたが、体勢を立て直し両足から落下し、体重を支えきれずに膝を着き、破壊された。

ちくしょう。俊介は左手で支えている女神像の頭に唾を吐きかけた。それは額から瞳を伝い、涙のように流れた。九回目。これで終わりにしよう。いや、終わりにしたい。俊介は両手を背後にまわし、全身の力を抜き、そのまま前方に倒れこむように女神像の肩から落下した。落下中に何かを考える時間はない。飛び降りた瞬間、地面に横たわっている。仰向けになり、自らの顔から流れている血を見ながら俊介は愕然とした。また駄目だった。俺は生きている。腕が妙な方向にねじれている。鼻がつぶれ、息を吐こうとすると泡を立てながら血が出てくる。気を失うその時まで、俊介は身動き一つせずに女神像の下に横たわっていた。

これは罰だということはわかっている。しかし夢か現実なのか、その区別がまだつかない。夢じゃなければ、あまりにも現実離れした状況だし、夢にしてはあまりにも痛みを感じすぎる。しかし罰を受けているということだけは理解している。おそらく、この状況と今まで犯してきた罪を天秤に乗せると、綺麗に釣り合うことができるだろう。

白いコンクリートの床と女神像。ここに存在するのはそれだけだった。約一メートルの台座の上に右腕をやや横に広げ、左腕に水瓶を抱え、少し傾けた顔に微笑を浮かべている三メートル程の女神像。女神像を頭の中で思い浮かべたとき、誰もが思い浮かべるような抽象的な容姿をしている。

俊介は再び女神像の肩に立っていた。小さな溜息を吐き、女神像の顔を覗く。その顔には俊介が飛び降りる前に吐きかけた唾の跡がまだ残っていた。ということは気を失ってから女神像の肩に乗せられるまで、そんなに時間が経っていないということがわかる。何もないこの場所にも時間という概念は存在する。

この場所に来てからどのくらい時間が経ったのかわからない。女神像から離れ、白い床をあてもなく歩き続けたこともあった。しかし女神像が見えなくなるほど歩いても、塵一つ落ちていない白い床は果てしなく続き、何か変化を感じる予兆すらなかった。絶望的な思いの中、床に横たわり、やがて深い眠りに落ち、目覚めると再び女神像の肩の上に立っていた。

死をもって償いなさい。この場所に来る直前に聞いた最後の言葉。死をもって償う。これは誰が言った言葉なのか、どのような状況で言われたのか、俊介は覚えていなかった。目を閉じ、神経を集中させて過去を思い出そうとすればするほど、記憶が散漫になり、自らの手から離れていくことを感じた。そして記憶は次々に失われ、俊介の中にはもはや「死」という言葉しか残っていなかった。

俺は死ななければいけない。死をもって過去の罪を償おうとは思っていなかった。死をもってでしかこの場所から逃れられないということを漠然的に、しかし決定的に理解できた。俺に与えられたのは、重力と僅か四メートルの空間。果たして人は四メートルの落差で死ぬことができるのだろうか。人間はそう簡単には死ねない。落下した時、骨が粉砕されたり血を吐く度にそう思った。全身を貫くような鋭い痛みは、俊介に「死」と紙一重の「生」を訴えていた。まだ生きろ、まだ苦しみ、泣き叫べ。生が冷笑し、死が嘲笑していた。死に傾けば死が否定し、生が呼んでいる。生に傾けば生が拒絶し、死が手を招いている。俊介は女神像の肩の上で自らの耳がつんざかんばかりの絶望的な悲鳴を挙げた。悲鳴はこだまを返すこともなく、無機質な空間に掻き消された。カラスの鳴き声が聞こえた。

十回目。俊介は九重の花びらをつけた深紅の薔薇を見下ろした。自らの血によって花びらを広げた薔薇は、殺風景なこの場所で圧倒的な存在感を放っている。落下時に無意識のうちに受け身をとってしまう。生への執着と死への拒絶。今は、死に対して執着しなければいけない。しかし、この薔薇を見ることができるということは、俺はまだ生きているということになる。自らが流した血の花が、諦念できぬ生を象徴しているかのように。

頭から落ちるしかない。肋骨が左の肺に刺さった感触を思い出す。あの時はつぶれた左肺から漏れた空気が胸腔内に出て、胸が異様に膨らんで呼吸ができなくなった。風船のように膨らむ自分の胸を見ながらこれで死ねると思った。右の肺が悲鳴を挙げていた。息が全くできなかった。小学校の頃、プールの中に頭を突っ込まれたことを思い出していた。窒息は、僅かながらも死を垣間見ることができる。あの時と同様、俊介は死の淵へ一歩足を踏み入れたように感じた。眩い光に包まれているような感じ。体が四方に引き裂かれ、何かと一体化するような感覚。俊介は耐えがたい苦痛を受け入れながら、死の到来を待ち続けた。

身体を包み込んだ柔らかい光が消え失せた時には、俊介は再び女神像の肩に立っていた。そして漸く悟った。即死でなければいけない。ここでは生から死へ向かう過程を省かなければならない。生と死を明確なラインで分け、それを一瞬で飛び越えなければいけない。即死でなければいけない。即死でなければいけない。即死で、なければ。

俊介は女神像の頭の部分に頭突きをした。即死でなければいけない。女神像の小さな冠に当たって俊介の額がぱっくりと開いた。即死でなければいけない。それでも俊介は不可解とも思える衝動的な頭突きをやめなかった。俊介の額からおびただしい血が流れ、顔を真っ赤に染める。俊介の視界はもはや赤一色だった。女神像の顔も白い床もすべて鮮血の色に染まっていた。即死でなければいけない。俊介は奇声を挙げながら頭突きを続けた。ポン、と左の眼球が破裂し、鼻梁が砕けた音がした。即死でなければいけない。頭が砕けやすいように。頭が砕けやすいように。

真紅の視界の中、白い床に咲いた血液の薔薇だけは、黒く浮かび上がっていた。まるで俊介を招く落下地点のように、大きく花びらを広げていた。

即死でなければいけない。

俊介は狂気じみた笑みを浮かべながら、舌を出し、黒い花の中心に向かって頭から飛び込んだ。床の上に頭頂部が触れた瞬間、俊介の舌が小さな音を立てて噛み切られ、勢いよく飛ばされた。俊介の頭は、まるで胴体にめりこむように消えた。黒い花に吸い込まれるように砕けた。女神像の左腕に抱えられた天秤の上で一部始終を眺めていたカラスが降り立ち、俊介の断裂した舌をくちばしで摘んで飛び立った。

女神像は変わらぬ笑みを浮かべていた。俊介はゆっくりと立ち上がり、歩き出した。頭を失ったその身体は、行くあてがなく彷徨っているようにも見え、舌を咥え飛び去ったカラスを追っているようでもあった。俊介の血で上半身を真っ赤に染めた女神像。白い床に大きく映えた黒い薔薇。俊介は薔薇のつるのように緩やかな蛇行を描きながら歩いていた。遠くでカラスが鳴いていた。