Folio Vol.6 Horror

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blood

泥の中の沈黙

岡沢 秋

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「あたしね、町を出ることにしたの」
立ち止まるなり、若い女は、思い切って口を開いた。髭面の男は一瞬、呆然として、言葉も出ない。

やっと搾り出した声は、惨めなほど掠れて、短かった。  

「何で、また急に…」

「結婚するから」
さらり、と涼しげな目元で、女は言った。

「だから、さよなら。まさか本気だったなんて思っていないでしょ?」
握り締めた男のこぶしが、青ざめて、わなわなと震えた。

「そんなことさせるか」
男は怒鳴った。工事現場で鍛え上げた、逞しい腕が、やにわに女の肩を掴もうとする。だが、女はまるで、白魚のように、するりと風に泳いで逃げてしまう。

「絶対、行かせねぇ」
喚きながら、男はつかみかかった。草に隠れた、浅い沼にくるぶしまで入り込んで、靴先が泥を跳ね上げる。女は悲鳴をあげ、誰かの名を呼ぶ。

ざっ、と藪が揺れた。

自分と、女の間に、ぬっ、と立ちふさがった若い男の姿を目にして、男の目が、ぐるりとひっくり返った。その目は、ぎらぎらと輝いている。

「なんだ、この――この、ひょうろく玉は。この、…」
殴りかかった拳は、空を切った。泥に足をとられ、男は前のめりによろめいた。見上げた顔に、真昼の眩しさが白く撃ち付ける。

「人の女に手を出しやがって、よくもぬけぬけと。」
それだけ言うのが、やっとのこと。

見上げる目の前で、若い男は、ベルトの下から何かを引き抜いた。刃物が、きらりと光る。

そして、何も言わずに、一直線に突き出した。

気が付いたとき、髭面の男は、泥の上に上半身を浮かせていた。

昼の陽射しに温んで、たぷたぷとした泥は、心地よく、腹に空いた穴から体内に流れ込んでくる。砂は細かく、てらてらと生き物のように光っている。

「死んでるわよ」
覗き込んだ女が、怯えたような声で言い、顔を上げて、隣にいる若い男を見る。

「決まってるさ、沈めてしまえばいい」

「ばれたら、どうするの」

「心配ない。俺たちは、明日にはこの街を出るんだからな」
恋人たちは、顔をつきあわせて、こそこそと何かの相談をしていた。

彼らが話し合っているのが、自分の処理の仕方だと気づいたとき、男の背筋には冷たいものが走り、震える喉で声を振り絞ろうとした。

「待て、俺はまだ…」
宙を掻こうとしたが、既に沈みかけた腕に圧し掛かる泥は重く、絡みつく。

太い腕は泥の中に丸太のように浮かんでいた。そして、左右から、長く伸びた草が顔の上に覆いかぶさっていた。

振り向くなり、若い男は手にした石を振り上げた。綺麗な顔をしていた。白い顔。整った眉。確かに、若い女が好みそうな顔。だが、残酷な目をしていた。

裏切り者の女は幸せになれないだろう。そう確信したとき、男は、ようやく納得した。

いずれこの女は、自分と同じ目に遭うのだ。

沼地に沈むのは、俺ではない。いつか泥から掘り出されて、学者が連れて行った、あの娘のように、学者と見物客どものなぐさみものになるのだ。

顔面に石が投げ落とされ、頭蓋の崩れる、ぐしゃりという音を耳の奥に聴く瞬間、髭の男は、はあ、と満足げに、最後の吐息をついた。

世界が闇に閉ざされ、男は、沈黙した。

生暖かい、ぺったりとした泥が衣服の上からからみつき、皮膚に染みとおり、体を埋めていく。沈んでゆく。溶けてゆく。

…泥はやがて、鼻腔をふさぎ、鼻から喉を伝って、暖かく、とろりと、心地よく、臓腑の中まで落ちていく。

それから、半年が経っていた。

「おい、ボッグマンだぜ」
ショベルカーに引っかかった死体を見て、若い作業員たちが鼻をつまんだ。干からびて、黒ずんだ皮膚は水気を失い、植物の皮のように垂れ下がっている。

「またか。面倒だな、捨てておけ、そこらへんに」

埋め立ての終わった沼地には、既に住宅地の建設が始まっている。かつては薄気味悪い林だった場所は明るく切り拓かれ、硬い土を盛り込まれている。新しく敷かれたアスファルトの道の両脇には、こじんまりとした、今風のモデルハウスが立ち並んでいた。

やかましく動き回るブルドーザーの側で、一人が、ふと、思い出したように言った。

「なあ、そういえば、行方不明になった前の現場監督、結局戻ってこなかったな」

「ああ、噂じゃあ、女と逃げちまったんだとよ。」

「あっしが聞いた話じゃあ、無理心中したって話でしたがね。」

「なんにせよ、嫌ンなっちまったんだろうな。よくあることさ」
泥はかき乱され、すくい上げられて、トラックに積み込まれる。

そうして沼は失われた。

真新しい家々が立ち並び、今や、その地にあった泥炭の沼を知る住人は、いない。

だが、すくい上げられた泥、数多の人々の肉と声を飲み込んだ、その泥は、肥料という名目で土に戻る。

時は、流れる――冷たい泥の中にうずもれた、幾百の人々にはゆるやかに。

凍りついた泥の中に眠る、無数の人々の言葉を聞く者は、誰も、居ない。