Folio Vol.6 Horror

Copyright ©Folio2004
All Right Reserved.
blood

鈴蘭

曠野反次郎

2/2

これは多分幼い頃見た夢の話だ。

私は何処だか知れない古い納屋の隅の暗がりで目を覚ました。確か級友たちと隠れんぼをして、恰好の隠れ場所をみつけ忍び込んだはいいが、そのままそこで眠りこけてしまったのだ。納屋の破れの隙間から這い出ると、外はもう日が暮れ始めていて、大声で級友たちの名前を呼んでみたが、返事はなかった。急に心細くなってしまって、日がどんどんと暮れていく中、涙を堪え、垂れる鼻水をひっきりなしにすすりながらとぼとぼと歩き出したはいいが、何処かで道に迷ってしまって、冷たい土手の上を歩いていた。

ふと気がつくと、隣に誰だかまるで知らない若い女が連れ添うように歩いていて、私が見上げると、ぞっとするような嫌な笑いを浮かべ、「あなたのお姉様が事故で死んじゃったのよ。急いで帰らなきゃならないわね」と言った。

私は何か黒くて恐ろしいものが、鼻から口から一気に入り込んだような気がして、大声で泣き叫びながら、土手を駆け下りた。後ろから女の笑い声が追いかけてくるような気がした。

どうやってか家にたどり着いた頃には、涙やら鼻水やらで顔中ぐちゃぐちゃになっていた。白い門灯がぼんやり燈る門をくぐると、何故か家中真っ暗で、私は恐ろしさに震えながら母がいつもいるはずの寝室に向かった。

真っ暗な部屋の中に母をおらず、代わりに父が黙って座っていて、抑揚のない低い声で、「お前のお婆さんが死んだ」と言った。私はすっかりきょとんとしてしまった。若くから病弱だった私の祖母は私が生まれる前に死んでしまってはずで、はあ、成る程これは夢なのだと思って、その後どうなったのかはまるで覚えていない。それなのに今では、それが完全に夢だったとは断言できずにいるのはどうした訳なのだろうか。

  ※※

ピアノ教室の帰りの姉とばったりと一緒になった時の話だ。

姉に手を引かれ、遠くに駅を抜ける急行列車の音が聞こえる夕暮れ時の街を歩いていた。不意に姉が足をとめた。そこは今ではとうになくなってしまった洋品屋で、子ども用の白く美しいドレスが飾られていた。値段は覚えていないが、姉にピアノを習わせているだけで十分に贅沢な我が家にとって、とても買えるものでないのは明らかだった。姉はガラス越しにじっと洋服を見つめていた。その白い横顔は今までまるで見たことのない顔で、私がはじめて女性を美しいと思ったのはその時であったように思う。しばらくして、ふうと溜息を漏らすと、「いくよ」と私の手を引いた。家の近くまで来て、今度は私が足をとめた。床屋と雑貨屋との狭い路地の中に、どこかで見た女の背中を見つけたのだ。女は煮干か何かでもって猫を手懐けているようだった。猫は甘えたような声を出して、女に抱かれた。夕闇が迫るなか、猫を撫でる女のやけに白い手だけがこちら側からは見えた。女はひとしきり猫を愛撫すると小脇に抱えていた紙袋にすっと猫をいれたようだった。何か見てはいけないものを見たような気はしたものの、その時の私にはその意味が解らず、姉が低い声で「見ちゃいけないよ」と言った方が、よほど恐ろしかった。

姉が事故に会い死んでしまったのはそれから間もなくのことだった。

  ※※


ガタゴトと揺れる車内の中で、つり革に掴まり車窓から夕日を眺めていると、ふと「河童なんていないよ」という言葉が耳に飛び込んで来た。それなりに込み合った車内で、その言葉は誰が発したか知れず、不思議と男であったか女であったかも解らなかった。あるいは子供の声だったのかもしれない。それはおそらく他愛もない会話の一端だったと思うのだが、何かきゅうっと掴まれるようなものがあって、不思議と胸騒ぎを覚えた。否定してみせる必要があると云うことは、少なくとも否定されるイメージがあるということで、いや、そもそも存在していると確定できないからといってそれを即ち存在しない理由にしてしまうのは軽率なのではないか。「四以上の全ての偶数は二つの素数の和として表わされる」この至極当たり前のようなゴールドバッハの予想が未だ証明されず、かといって否定もされていないように、世の中には正確に決定しえないものというのがいくつもあるのであって、あるいはひょっとすると今この列車の中にも河童がいるのかもしれない。

駅に着く頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。ただ訳もなくまっすぐ家に帰るのが憚られたので駅前の飲み屋の暖簾をくぐった。初めて入る店だったが、割合と感じの良い店で、ついつい杯を重ねてしまった。ほろ酔い加減になってきた頃、隣にいたすっかり酔いのまわった男が、不景気がどうのこうのと話かけてきた。しばらくは男の話に適当に相槌を打っていたのだが、そのうちに何故だかうっかり「あなたは河童ですか」と訊ねてしまった。すると男はニタニタ笑うと「そうですよ。私は河童ですよ」と言った。そして「私は河童だぁ!」と叫ぶとカウンターに突っ伏してしまった。私は店主と顔を見合わせて思わず苦笑いを浮かべると、勘定を済ませ店を出た。外では星の見えない空に月だけが白くぽっかりと浮かんでいた。私はあの男は河童であるはずはないと思った。

家に着いて玄関の扉を開けると、いつも遅く帰って来ることにうるさい妻が何故だか上機嫌で出迎えてくれた。その上、私がテーブルに着くと向かいに坐り、ついぞ見せたことのない笑顔を浮かべ、「あのね、あなたに言うことがあるの」と言った。私はただ黙って頷くと、この女こそ河童だと確信した。

  ※※

ある年の暮れのことだった。夜道をとぼとぼと歩いていると、白い雑巾のようなものが道の端に落ちていた。それは猫の死骸だった。車にでも轢かれたのか、その姿はいかにも哀れで、冷たい道の上に放って置くのも忍びなく、家の庭にでも埋めてやろうと、その死骸を抱えた。飼い猫だったのだろうか、首輪に付いていた鈴が音をたてた。家にたどり着いた頃、身重だった妻がひどい猫嫌いであったことを思い出し、一人で黙って、いちじくの木のそばに穴を掘って埋めた。冬の土はひどく冷たかった。その木は両親が結婚した時に記念に植えられたもので、私にしてみれば三つ違いの兄のようなものだった。

やがて、春になると、そのいちじくの木の根元一面に、まるで白い鈴のような蕾をつけた花が覆った。それを見つけた私は、産まれて来たばかりの娘に、鈴という名前を付けることにした。次に生まれた息子には、妻が蘭太郎と付けた。姉弟合わせて、鈴蘭という洒落だと妻は笑った。  

そして、それから十年経った暮れのことだった。鈴は交通事故に遭って死んでしまった。私は鈴の遺骨をいちじくの木の根元に埋めた。猫嫌いの妻には、そのそばに埋められた猫がいたことは黙っておいた。