編集後記。

今回は度重なる遅延で誠に申し訳なく思っております。

いろいろなことが起こり、今回は辛い期間でした。次回は編集陣や内容を一新してお送りいたしたいと思います。再発防止に努め、なお一層の精進をして参りますので、なにとぞこれまでと変わらぬご支援ご鞭撻の程を宜しくお願いいたします。

「初心者のための」ホラー映画名作セレクション

国際ホラー研究所(http://www.geocities.jp/horrorlab/)のご好意によりまして、ホラー映画の名作紹介の記事をお借りすることができました。この場に於いてですがお礼を述べさせて頂きます。ありがとうございました。

この夏のホラー映画

新作の紹介をししまるくんの紹介で稲城総合企画(http://sat-ing.hp.infoseek.co.jp/)の稲木さとし様にして頂きました。ありがとうございました。個人的には「箪笥」が観たいです。

ホラーフラッシュ/ゲーム紹介

ホラーフラッシュの紹介をゲーム大好き(匿名)さんにお願いし、また僕(サイキ)もいくつか同時期に探してたフラッシュやゲームを付け加えて、記事にしました。探してる間にゲームにはまってしまって、あやうく紹介記事のために探してるのだということを忘れてしまいそうになりました。もっと面白いゲームとかいろいろあったのですが。。。

R★MIさんに写真をお借りしました。

幻想的で美しい写真で、人と花との混じり合った描写がとてもすばらしいと思います。ありがとうございました。

うなぎ未遂

トリコさんに「エロス」の回に原稿を依頼しまして、その際、途中まで進行してたところに受賞→デビューという流れになり棚上げになってしまいました。多忙の中、原稿を完成頂きましたので、ここに掲載させて頂きます。

自分が関わったというのもあるのですが、この作品、とても気に入ってます。ありがとうございました。

山手線ゲーム

和治さんに「さて、次、何やろうか?」と聞いた時にいくつか上がってきた題材の中に「山手線ゲーム」がありました。

ある夜の夜中に二人でメッセを立ち上げて、山手線各駅界隈の名物を検索。普通の「名物」じゃあ、面白くないよね、ということで、あまり雑誌に載っていそうにない名物店を中心に情報を探しました。その際に得た情報は<これ>です。

よくこれだけのシンプル(簡単過ぎ・情報少なすぎ)な名物一覧で実行してくれました。和治君(&不幸な同行者一名)ありがとう!

連載の料理、戒告兵談、今回はおやすみです。

表紙の佐藤さん。

前回のミンチさんのご紹介で、佐藤さんに描いて頂き、とてもすばらしい表紙になりました。

はっきり言って、売れます。このセンス。ちょっと一目見て感動しました。本当に本当にありがとうございました。

甲斐さん(石川さん、歪さんのカット)壁の悪魔が気にいりました!あとカラス!(筆致少ないのに生きてる!)

いくら。さん(オカヤマさん、トリコさんのカット)オカヤマさんの物語を、ここまで読み込んだのはすごいと思います。子供の表情が、生々しくていい!

チェリさん(濡田さん、朝倉さんのカット)母親の手の色が。。蟻がいいです。蟻が素敵。携帯が溶けて行くのも上手いなあと思います。

ナカデさん(曠野さん、岡沢さんカット)抽象的でいてしかしその闇の奥からどす黒い暗い何かが出てきそうに感じます。黒い顔が。。。

津守さん(パソ子さんカット)うわ。目が!目が!このねじくれた空間処理が素敵。前面の目がインパクトを持って迫ってきます。こわー。

創作に関しては独断と偏見に基づいた講評をつけることにしました。

泥の中の沈黙

<泥炭の沼>の工事現場に従事する男たち。その男もその中の一人だった。現場監督して指揮をして、金目当てに集まってきた中の娼婦の一人に貢ぎ、そして女の裏切りから男も<泥炭の沼>に沈む死体のひとつとなる。

<澱んだ泥水は、すえたような独特の匂いを発する。>この匂いの正体は一体なんなのだろうか。

<かつて人々を恐れさせた沼地の伝説も、その沼地自体も、迫り来る都会化の波には逆らえず、一つ、また一つと、この地方から姿を消しつつあった。>とある。

娼婦が登場する場面に<一瞬、沼から抜け出た青白い幽霊かと思われた。>とある。女は「幽霊」だと間違われる。

それはこの物語の通奏低音とし響いているあるものを浮かび上がらせている。

<迫り来る都会化の波>に対する<泥炭の沼>の滅ぼされてゆくものの、自らを滅ぼそうとするものに対する<自らの取得物として臓腑の中に沈め>たしまう「怒り」や「苛立ち」なのではないか。確かに、その匂いは「時間」というものかもしれない。そしてそれは<幽霊>のように<埋め立ての終わった沼地には、既に住宅地の建設が始まっている>場所に留まり続け、<匂い>のように放散された後、やがて死体の匂いのように人々の身体に染みつくのだ。

娘と

<ああ、どうしよう。私、子どもを生んだことなんて、ない。>

これは言うまでもなく、この物語のキモだ。虫たちを殺戮し、<いひひと笑う>娘に、この母親は<秋の夕暮れの中でひどく不確定な存在なのが娘であ>ると考える。また<それを問題視していなかった>母親は、<公園までの道筋に累々と重なる死体たち>に対して<心の中でそっと手を合わせ>たりもする。

虫の死体に<そっと手を合わせ>るのは、なぜだろうか。それは、<死体>が全く関係ない他者である「虫たち」であるからに過ぎない。と、何故その部分をここで提示したのかを説明すると、<おかあさん、試してみていい?>と言われ、はじめてこの母親は<ぐぅんと伸び>た少女に<私の目の前は真っ暗にな>るような恐怖を感じている。

再び、その部分に回帰してみる。

<ああ、どうしよう。私、子どもを生んだことなんて、ない。>の前後で、娘は少女に変化している。<生んだこと>もない娘は、その時、少女なのだ。この少女は一体誰なのだろうか。

少女=娘は虫を殺すことを厭わない。<死体たち>に対して<心の中でそっと手を合わせ>る母親。

伸びた<少女の影>に包まれ<目の前は真っ暗にな>る母親。

この<子どもを生んだことなんて、ない。>の一言で、母親は少女に少女は母親に位相が逆転する。この逆転はドラマチックだ。少女である母親は、母親である少女を殺戮したいのではないか? タイトルがそれを暗示している。

立ちこめるモルモット

喧騒の海に泳ぐと人は安堵する。<ぼくらはもしかしたら、他者に興味がないと思い込んでいただけで、携帯電話の会話が漏れて聞こえてくるのを通じて連帯感を育んでいたのかもしれません。>

コミュニケーションとは何か。他者との繋がりとは何か? 携帯電話に登録されている人名は他者との繋がりを示す識標となるのか。そしてその向こう側に存在するであろう人物、それは自殺してしまったマーサなのか。

主人公は最後に<胎児のように身体を折り曲げ>マーサともつかぬ相手に電話を掛ける。これを母体回帰ととるのではなく、たとえば母体回帰的な空間/関係における他者との連帯感ととればどうだろうか。もしかするとコミュニケーションや連帯感というものは、そのような空間/関係→「場」というものの中でしか築き上げることができないのではないかという問いを含んでいるとも考えられる。自殺してしまった、国籍不明(に見える)マーサとの関係不全。モルモットのように永遠に同じ場所を回り続けるようなコミュニケーションへの欲求というのは、人が人と関係を持つことへの断絶と悲しみを含んでいる。

キシリトール

これは解読を拒むので、詩的な空間に遊んで貰った方がいいと僕は思う(いい意味で)。

この<虫>は描写では<アリくらいの大きさの羽根のない茶色い虫>とされているが、実態はわからない。

それを<押し潰>す<あたし>は、引っ越しをして一月。<開封していないダンボール箱が怠惰な様子で転がってい>る部屋で過ごしている。虫は<生理の血にたかり、残飯の肉にたかる>。猫のヒュウが死に、やがて病院に担ぎ込まれた<あたし>も身体の内側から虫に覆い尽くされてしまう。新しい「部屋」。段ボール。猫を内部から喰い尽くす虫。そして主人公の身体。この「虫」というのは、入れ物と中身の相剋である。

新しい「部屋」と以前の生活を中に含んだままの「段ボール」は対比され、その入れ物と中身の断層をスライドさせて考えてみれば、猫を死に追いやる虫は<あたし>である。<あたし>は<生理の血にたかり、残飯の肉にたかる>という虫であり、その<あたし>である<虫>は<あたし>自身をも食い付くそうとしている。虫は身体/肉に結びつき、生理現象に結びつく。肉体と精神。心と身体。それを内側から食い破ろうとする<あたし>は、やがて<あたし>を繁殖させて病院中を喰い尽くしてしまうだろう。それは、実存の恐怖であるのかも知れない。

赤の女神。生としての薔薇。

<即死でなければいけない>と繰り返す<俊介>は「死」に向かって突進する。

「死」とは何か。いや、「生」とは何か?この主人公は死を望む過程において、壮絶な生を行きる。死を希求するその情熱は裏返しの生であり、また生が生まれや環境によって限定されたものであるかのごとくに、死もまた制限された状況にある。<重力と僅か四メートルの空間>で人は生きることが出来るのかということをも象徴しているように見える。

たとえば我々の現実は<重力と僅か四メートルの空間>と捕らえることができる。四メートルを仮に3歩四方の空間と捕らえると、数秒の動作で手が触れることができる距離だとも言える。となると、現実の空間と近似するではないか?

生は秒の積み重ねである。僅かばかりの空間と時間の堆積物であるとさえ言えるのかも知れない。

文中に<これは罰だということはわかっている。しかし夢か現実なのか、その区別がまだつかない。>とある。

「夢と現実と区別がつかない」ということは、「夢でもあり現実でもある」ということでもある。もしかするとその「夢」は「生」と「死」に習って何かの象徴だと考えると、女神は「運命」で「カラス」は偶然の意かもしれない。どんなに生きても生き切れないね。ふっと、そんな言葉が漏れてくるようだ。

お化けの意趣返し

いじめを苦に狂言自殺をしようとして失敗し、本当に死んでしまった少年といじめっこの話。

この物語には下手な解説は必要ないだろう。いくら。さんがすばらしい絵で表現してる。

<死んでしまいたいという思いと死にたいという思いは似ているが微妙に異なるものだ。>この一文がすばらしい。

鈴蘭

一読して、不思議な感触で、もう一度読み直す。母の死 無花果の木の死 不確かな自分 姉=祖母?(夢) 姉の死 河童/生誕 鈴と蘭 それぞれの出来事の時間軸と物語軸の混同に惑わされる。ひとつの家族に起こる円環の図式。ふととらわれる幻影は、家や家族というものの因縁、そして地に眠る猫の死体のように、誰も気がつかない間にその家族を包み込んで行くのかも知れない。<実はその果実は花の集まりの袋で、その中に詰まっている小さな種が花なのだ>というように、それは小さな種=骨が実は、この家族の物語の主人公であり、人々の方は種と無花果にとっての夾雑物であるのかも知れない。いや、そもそも人生なんてものは果実にも劣るオマケ。。。

うなぎ未遂

<お互いに恋愛感情はなかったと思う。だけどただの友達と言い切ってしまうのは、なんだかさみしい。そんな関係だった>二人の関係は<柚木はもうわたしの一部みたいなもんで、そのわたしを好きになったんだからキミくんはわたしを愛するのと同じように柚木を愛するべきだそうするべきだ絶対、なんて>ことはなく、唐突に終わる。

出会いと分かれ。それはひとつづつ人の心に何かの「一部」を付け足し、そして永久に「奪う」。

いや、そこに「一部」が存在してたことの記憶だけを残して、見えないものになってしまうだけなのかも知れない。

人はそうした「一部」の堆積物で成り立っている。そしてそれらの「一部」は常に「未遂」である。人は完全に何かを得ることはできない。完全に見えたとしても、振り替えってみれば、何か「未遂」の部分を取り残して、どうしようもない。食欲をそそるような「うなぎ」の匂いに似て、未遂の部分は記憶と心の空腹を促すのだ。

以上

今回もボリュームいっぱいでお送りいたします。

ではでは次回の刊行をお持ちくださいー。

文責 サイキ

(このページのすべての講評はあえて誤読も含むものとします)