不愉快なテクスト

加納 景

第一回 何を書くか

ご挨拶

いや、世の中奇特な方もいらつしやつて、私なんぞに文芸批評をさせてくださるとは、あたかもオンライン作家たちに喧嘩を売れと言はんばかりであります、などと言へば仕方なく書いてゐるやうな恰好がつくのですが、なんのことはない、そもそも私の目論見とそれとが合致したといふだけでありまして、とある所でこの度の企画をデッチあげたところ、Folioの管理人さんであるサイキカツミ氏の目にとまり、面白いのでやつてみないかといふお誘ひが舞込んだわけでありまして、さうすると今度は、それを読んだ方々が口を揃へて「面白さう」などとまるで他人事のやうに仰るものですから、根が軽薄で有名な私はそそくさとこの文章をしたためてゐるわけであります。

で、私はこれから喧嘩を吹つ掛けるわけですが、それにもすこしばかり土台固めが必要であることは言を俟たず、取り敢へず読者と、何を基準に判断し、そしてなにゆゑ喧嘩をするのか、といふ共通了解を確立しようといふ算段であります。

何故喧嘩するのか

いや、別に端から喧嘩を目的にしてゐるわけではありません、といへば数行前と言つてゐることが違ふぢやないか、と言はれさうですが、批評と云ふものはどこかしら喧嘩の気味を伴ふものですし、そしてなにより、その批評によつて喧嘩といふ結果を生むことが屡々ある、といふ意味なのであります。

で、なぜ批評、喧嘩をするのか。

まあ、世の中、実力の世界でも馴れ合ひやら無意味な罵詈雑言の応酬があるものです。しかし、それが作者の実力を示してゐる、といふやうでは、少し待てよ、となる。本当の実力、良いところ、悪いところはどこなのか、それを他人に評価してもらへる、といふのは、実は作者にとつて、特にアマチュアにとつては相当有難いことなのです。そしてそれによつて洗練された作品が生まれることは、作者だけでなく、読者にとつても有益であるはずです。私はそのための叩き台をここに提示するつもりであります。

何を基準に判断するのか

基準、といふと中々むつかしですね。アマチュアにプロフェッショナルの技術や思想を追求するわけにもいかなでせう。かといつて、そこに床を敷いて安眠されては困る。

そこで、かういふことにしました。

第一回から三回までは、この基準を、読者に示したいと思ひます。要するに理論編ですが、私はこの理論編こそ本当に面白いものだと思つてゐます。あとの批評は、これに即してやるだけですから。

不愉快といふこと

文学、就中純文学は、本質的に不愉快なものである。それはどういふことかと言へば、作者は読者の多くが持つてゐるであらう社会通念に、まづ疑問を呈することから始め、仕舞ひにはそれを否定し、挑発し、不安がらせたり危機を感じさせたりするからなのでありますが、作品だけでなく、その作者までも不愉快な人間であることが多い。かつて無頼派と呼ばれた太宰治は有名ですが、太宰だけではなく、島崎藤村、永井荷風、谷崎潤一郎、川端康成、などなど、日本近代文学の作家は、総じて性格破綻の傾向が強く、いやいや、日本だけではない、世界の名だたる文豪の殆どがさうであると言つてよいでせう。ドストエフスキーは、家庭教師の手引きで少女を浴室で暴行し、ゲーテは七十四歳になつて十七歳の少女に求婚した。バルザックは多くの事業に手を出して挙句破産し、その借金を返済すべくあの膨大な作品を書き上げた。アメリカで言へば、スコット・フィツジェラルドは放蕩に放蕩を重ね、アルコール中毒になつた。トルーマン・カポーティは自らを「ヤク中でアル中でホモで天才」と呼んでゐた……。

まあ挙げればきりがないのですが、いづれにしろ、文学を語る上で「不愉快」といふ感情を抜きに語ることはできないわけでありまが、さういふ義務感のやうなもので「語らねばならぬ」といふのではなく、不愉快だからこそ面白いのだ、といふことを、分かつて頂きたい。

たとへば、以下の文章を読んでみてください。

深夜、寝しずまった人たちのあいだで一人眼をさました僕は、しびれたような頭を持ちあげ、掛椅子をつたって下におりると、ふらふらしながら船室に立った。からだが伸びちぢみするひどい動揺であった。僕の寝ている下の藁布団のベッドで譚嬢は、しずかに眠っていた。船に慣れて、船酔いに苦しんでいるものはなかった。僕は、からだをかがみこむようにして、彼女の寝顔をしばらく眺めていたが、腹の割れ目から手を入れて、彼女のからだをさわった。じっとりとからだが汗ばんでいた。腹のほうから、背のほうをさぐってゆくと、小高くふくれあがった肛門らしきものをさぐりあてた。その手を引きぬいて、指を鼻にかざすと、日本人とすこしも変らない、強い糞臭がした。同糞同臭だとおもうと、「お手々つなげば、世界は一つ」というフランスの詩王ポール・フォールの小唄の一節がおもいだされて、可笑しかった。

著者、金子光晴は、幼少のころから学歴とふものとほどとほい人生を歩んできた。休学、落第をくりかへし、遊郭に入りびたり、中学を卒業したあとも大学を転々とし、義父の死去によつて手に入れた莫大な財産を、わずか数年で使ひ果たした。三十二歳のときには、妻と恋人を引き離すために、ほとんど無一文のまま、妻と共にヨーロッパに渡つたのである。この『ねむれ巴里』は、このやうなパリでの苦闘を、七十八歳になつてから回想したものであります。引用した文章は、マレーからマルセイユ行きの船で、同船した日本人が退屈きはまるために中国人の部屋に移り、男女二人づつの生活に割つて入つた話です。が、これだけでも厚顔と言はれかねません。しかし金子の真骨頂はこれからでありまして、この中国人留学生は抗日運動家なのであります。言はずもがな、強い反発を受けるわけですが、このわけのわからない日本人を、受け入れてしまふ。しかも、金子は、寝てゐる「彼女」の「肛門」をさぐる。

これは、やはり不愉快に思ふ人が多いでせう。見ず知らずの女性の寝こみに肛門をさぐるわけですから。

しかしここが重要なのです。金子はただエロティックな願望によつて、肛門をさぐつたわけではない。己と他者、日本と外国、男と女の同異の認識を、「肛門」をさぐることによつて成した、といふ点が大事なのであります。そのためになさられた行為が当のものであるとすれば、いかに強烈な認識の上に金子が立つてゐるかは最早自明であります。

これは多くの人が思ひ浮かべる「詩人」の、センチメンタルで甘やかな敍情とは、決定的に一線を画してゐる。そして同時に、これを小市民的な不愉快といふ感情で排することが、いかに愚かしいことであるかも、分かるはずです。

これでもやはり納得がいかない、といふ人がいらつしやるかもしれない。では、もう一つ例を挙げませう。

銀平はラジオに気をつけ、新聞もよく見ていたが、二十万円と通帳のはいったハンド・バッグを強奪されたというニュウスはなかった。
「ふん、やはりあの女はとどけなかったのだ。とどけ出られないなにかが、あの女にはあるのだ。」と銀平はつぶやくと、暗い胸底がふと怪しい焔で明るむのを感じた。銀平があの女のあとをつけたのには、あの女にも銀平に後をつけられるものがあったのだ。いわば一つの同じ魔界の住人だったのだろう。銀平は経験でそれがわかる。水木宮子も自分と同類であろうかと思ったとき、銀平はうっとりした。そして宮子の住所をひかえておかなかったことが悔まれた。

銀平が後をつけているあいだ、宮子はおびえてたにちがいないが、自身ではそうと気がつかなくても、うずくようなよろこびもあったのかもしれない。能動者があって受動者のない快楽は人間にあるだろうか。美しい女は町に多く歩いているのに、銀平が特に宮子をえらんで後をつけたのは、麻薬の中毒者が同病者を見つけたようなものだろうか。

しかし、二十万円を失う時に、宮子も一瞬の戦慄がないではなかった。それは快楽の戦慄であった。宮子は後をつけて来た男がおそろしくて逃げたというよりも、突発の快楽におどろいて身をひるがえしたのかもしれなかった。

この、川端康成の『みずうみ』は、あまり有名な作品ではありません。ですが、私は『雪国』や『山の音』と並ぶ名著だと思つてゐます。なぜなら、川端の不気味さ、図太さ、非情、魔性が端的に表はれてゐるからです。

宮子をストーキングし、偶然にも二十万円を奪つて仕舞つた銀平が、「あの女にも銀平に後をつけられるものがあった」と考へたり、「うっとりした」り、「うずくようなよろこびもあった」と書く川端は、市民的な倫理観からは非難されるでせうし、実際、かういつた性向をもつた人が、しばしばストーカーといふ犯罪者になることは否定できない。しかし、にも関はらず、私はこれを評価する。それはなぜか。

犯罪と言ひます。しかし、法律や良識があつて、初めて犯罪として罰を与へられるものです。では、そのやうなものがなければ、どうでせうか。銀平がとつた行動は、人間の本質的な想ひ、思惟ではないのか。誰しもがもつ、純粋さではないのか。理知は、男女の仲に存在する、妄念の如き相手を思ひ遣る「犯罪的」な欲望と、つひにとつてかはることはないのではないか。

さう考へると、やはりそこには本質的ななにかへの認識、強烈で、はかなく、かなしい認識を、川端はもち、作品としてゐることに気づく。金子は「肛門」をさぐり国境のなきことを認識し、川端はストーキングといふ邪な欲望を人間の本質としてとらへたのである。

不愉快であればよいのか

さて、金子光晴と川端康成を例として、如何に文学にとつて不愉快さが大事であるかを述べたわけですが、これを愚直に信じ込み、これからなにか物を書かうとする人がいらつしやるならば、その作品はすでに駄作です。捨ててください。

私が言ひたいことは、かういふことです。不愉快であるのは、作者が考へ抜いた末の結論であつて、不愉快であることを目的に書いてゐるわけではない。優れた作品は、作者の思想を誠実に記すがために、かへつて不愉快になつてしまつてゐるだけでなのです。

これをさらに敷衍すれば、嘘を書くな、といふことであります。

勘違ひされては困りますが、この「嘘」とは事実と異なること、といふ意味ではありません。さうではなく、実際に人間がとるであらう行動を、下手なエロティシズムやらイデオロギーやらによつて歪めて描くことであります。日本の文学はなぜかかういふ傾向が強く、ここにおいてプロフェッショナルとアマチュアの差はない。某ノーベル文学賞受賞作家の初期作品は、そのほとんどがサルトルの翻訳と見間違へるほどであつた、といふ皮肉も、これで理解できますでせうか。当時は実存哲学がどうのかうのと書けば、それだけで大した作品だと言はれたものですが、今は違ひます。アマチュアの作品も同様に、「純文学」と言へば「敍情」といふあまりにステレオタイプな発想から抜けきれず、作者が「美しい」と思ふ情景を描くことだけに苦心するわけですが、そんなものはマスターベーション以上のなにものでもない。或は、本当の美しさを描くとは、ただ美しいだけでなく、美しいがために残酷になつたり盲目的になり人を不愉快にさせることがある、といふ観察が、決定的に欠けてゐるとも言へるでせう。

書かなければならぬこと

では、一体なにを書けばよいのか。

これは、むつかしいですね。なにがむつかしいといつて、「書けばよい」ことが、あまりに漠然としすぎてゐることです。判然としないから、書き手は原稿用紙を目の前にして、立ちすくんでしまふわけです。それでは、かう考へてはどうでせうか。

書くべきものを取捨する能力をどのやうに身につけるか

これさへ分かれば、自ずと書くべき事柄が分かるのではないでせうか。

私は以下の三点を読者にお勧めしたい。

  1. 優れた作品を読み、すでに書かれてゐることを知る
  2. 描写する事物を観察する
  3. 観察して得たもの(事物の色形、風貌、構造、精神など)を、1.の内容と比べ、その中にあるかどうかを検証する

ちよつと気の利いた読者ならば、首をかしげるでせう。なぜといつて、すでにあることを書いてなにが面白いのかと思ふからですね。私もさう思ひます。しかし、一体全体なにがすでに書かれてゐるか、考へられてゐるか、を知らなければ、目新しい考証や描写など、生まれるはずもないものです。それができれば天才ですし、天才は拙稿を読むに及びません。閑話休題。

まづ一つ目ですが、本当は基本的な教養であるはずのバルザックやフローベルの作品を、今の人は、名前は知つてゐても読んだことがないといふ人が多い。まあ、文章に関はる仕事や趣味を持つてゐなければ、それはそれで仕方がないかもしれませんが(私はさういふ人間は精神的に平板で面白くないと思ふけれど)、文章を書く事を趣味とし、公開してゐる人がさうであつては困る。優れた作品を読み、己の糧とするやうな貪欲さが欲しいところです。

次に二つ目ですが、ただ漠然と観察してはだめです。それではなにも得られない。

一つ目で読んだ作品はここでも生きてくる。作家の目線、思考であれば、これをどのやうに見るだらうか、と立場を作家にして考へるのです。そして、まるで憑依してゐるやうな感覚になつて、見る。これのくり返しで観察眼といふものは鍛へられるのです。

最後の三つ目です。これは結構たやすいでせう。大抵の作家は、作家独自の思考や描写を持つてゐるものですから、作品をきちんと読み込んでおけば自づとわかる。だから、はやい人は第二の点で文章を書き始める人もゐます。

ですが、それではだめなんですね。

ここまでは本当の大前提、書くための素養にすぎません。

では、なにが足りないのか。

それは、「なにを書くか」といふことにプラスして、「いかに書くか」といふ意識、技術なのです。今まで言つてきたことは、言ふなれば料理の食材探しです。その食材を最高度に高め、美味しくするには、どうすればよいのか。いかに料理をするか。

次回は、その「いかに書くか」に焦点を当てて解説します。

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