Folio Vol.10目次など

物語なんて、あったってなくたって

茶石文緒

 ときどき、現実という無味乾燥な書類の山に辟易して、脇に追いやってしまいたくなるときがある。慌ただしい時間の流れから逃避して、ちょっと散歩してくる、とドアを開ける。
 その瞬間、目の前に広がる、見たこともない世界。あなたはそれを怖いと思うだろうか、それとも、美しいと感じ、高揚するだろうか。
 物語を読むというのは、ここではない世界を覗くこと。

 それはたとえば、潜水に似ている。書き手の意識のままに寄せて返す情景の波は、ゆったりとうねる黄金の海のような、複雑な抑揚と調和に満ちている。その屈折を通して見る景色はあまりに美しく、肺に流れ込む香気は酔わせるほどかぐわしい。酩酊感に身を任せるうちに、しまいには現実の世界なんかに戻りたくないと思えてきてしまうほど。たとえばマイケル・オンダーチェ「イギリス人の患者」のように。

 それはあるいは、写真を撮ることに似ている。起承転結はさして重要ではない。何かが起こっても、起こらなくてもいい。どんなに些細な物事であっても、言葉というレンズを通せば、その人にしかできない見方が示されてくる。レンズにはクセがあり、カメラには個性がある。現実をそのまま写しているようで、仕上がった写真は撮影者の分身となり、その茶目っ気と息遣いをどこかに漂わせている。たとえばジャン・フィリップ・トゥーサン「ムッシュー」のように。

 ときにそれは、鏡を覗くことに似ている。それも、姿形を透明に消し去り、感情だけを映し出す鏡に。高潔に見える判断の裏に存在しつづける、せせこましい虚勢や利己心。自分の伴侶を愛し労りながら、同時に軽蔑し、憎いと思う矛盾。手から若さがこぼれ落ち、長い道程を歩き抜いた後にたどりつくのは、ひどく小さく、静かな場所であるという切なさ。いつかわたしも全てを失って、その場所へ行くだろう。たとえばミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」のように。

 さらにそれは、切り離されて生きていた自分の分身と巡り逢うことでもある。自分が属していたかもしれないもう一つの世界。出会っていたかもしれない、あまりにいとおしい一揃いの人間関係。そこは記憶の中で見たことのある理想郷そのものだ。そこにある全てが、あまりにも心に叶いすぎているものだから、これを書いたのがどうして自分ではないのだろうと、悔しさを通り越していぶかしい気持にすらなってくる。たとえばポール・オースター「最後の物たちの国で」のように。

 物語を読むというのは、つまり、そういうこと。
 現実からは遠く、感情には近しい場所へ。ここではないどこかを旅して、わたしではない誰かになる体験を通り抜けること。自ら進んで、その扉を開くことに、ほかならない。
 それはきっと、アルコールや珈琲や音楽も同じこと。なければ死ぬと言うほどのものではない。でも、それがなければきっと、生きていくことは、耐えがたい。

 ところで、書くほうは?
 こちらはそんなに美しい話ではない。あえて露悪的に言ってしまえば、病気の発作みたいなもの。長くもやもやした潜伏期がすぎると、発作が起こる。テーマが決まり、モチーフが現れ、人物が名前を得て動き出す。長い作品だと、その発作が何度も起き、そのたびに次の展開やディテールが固まっていく。一番苦しいのはそこまでだ。
 それが何の役に立つのかといえば、実際、よくわからない。書いている間はいつも、自分の作品への信頼などは揺らぎっぱなしで、書き上げた後しばらくは、読み返すのも恥ずかしい。今回「月と白鳥」で書いた、踊りながら恥の意識から逃れられないスワンは、ある意味、わたしそのものだ。
 それでもこうして自分を晒し続けるのは、どこかで通じ合うことへの期待を捨てきれないからなのだろう。わたしの描くこの空間を愉しみ、必要としてくれる人がいるかもしれない。わたしの書いた言葉を辿ることで、探していた世界を見つけてくれる人がいるかもしれない。それが美しい旅であり、余韻に酔える時間であり、何かが心に残る体験であってくれますようにと、願っている。
 書くことが病気といったって、これもやはり、罹ったからといって死ぬと言うほどのものではない。多少の苦しさくらいなら、それでじゅうぶん報われる、と思っている。fin

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茶石文緒
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