Folio Vol.10目次など

君が彼女を好きだったとき

ハシモト

 昔の話をしよう。
 昔といっても、それほど前の話じゃない。そのころにはもう携帯電話は普及していたし、地球温暖化は深刻化していたし、石原慎太郎は都知事の椅子にすわっていたし、僕らは高校生になっていた。
 でも、これはもう昔の話だ。
 時間でも距離でもなく、これはもっと決定的な部分で遠くなってしまったものだからだ。
 携帯電話にはテレビ機能がついたし、東京は地獄のように暑くなったし、僕らは高校生ではなくなった。世の中はどんどん変わっていく。変わらないものは石原慎太郎の地位くらいのもので、それ以外の変わっていくものの中に僕たちも入っていたというだけの話だ。
 だから、あれはもうとっくに失われてしまった季節のなのだ。
 もう戻らない。これは昔の話だ。著しくセンスの欠落したどこかの恥知らずな大人たちなら、僕たちのあの時代を青春と呼ぶのかもしれない。でも、もっとセンスがなくて、もっと恥知らずな僕たちは、あのころを懐かしむとき、決まって違う表現をする。
 それは昔。
 ――彼が、彼女を好きだったとき。

***

 春と夏の間のことだった。そういう曖昧な言い方しかできないくらい、それは中途半端な時期だった。
 腰ではいたズボンの裾を、カランコロンと音を鳴らすローファーで踏んづけながら、僕と彼はバスケットコートに向かって歩いていた。ペシャンコにつぶれた僕の鞄には、当然だけど部活のための練習着と数冊の文庫本しか入っていなかった。彼もきっと同じようなものだっただろう。
「なあ」と彼は窓の外を見つめながら言った。
「なんだよ」僕はガムを放り込んだ口で答えた。「金なら貸さないぞ」
「金じゃなくて、胸か知恵を貸してくれ」
 それは彼にしては気のきいた台詞だったのかもしれない。首をかしげた僕を少し照れくさそうに見つめながら、耳に穴を空けた男子高校生であるところの彼は、小学生のような笑顔で言った。
「俺、好きな子ができたんだ」

 男子校というのは、この世界でもっとも純粋な場所のひとつだと僕は思う。僕たちは男ばかりが二千人も集まるむさくるしい母校のことが好きだったし、できるならば卒業なんてしたくないとさえ思っていた。広い空間に二千人もの人間がいてそれがすべて男だという、人類の摂理に抗うようなその窮屈さが、逆に僕たちを気楽な立場でいさせてくれた。
 加えて僕たちの高校は、よっぽど成績が悪くない限りはそのまま大学に進学できた。一応は名門といわれる学校だったから、わざわざ苦労して受験勉強をして他の大学に出て行く奴なんてほとんどいなかった。大学へのエスカレーター進学率は、99%を越えていたと思う。当然僕たちは勉強なんてしない。男子高校生から勉強と女子高生を取ったら、後に残るのは馬鹿という要素だけだった。
 体育のあとの授業はトランクス一枚で受けるのが普通だったし、授業中に大声で「セックス!」と叫んでも誰も黄色い声なんて上げなかった。教室にはグラビアアイドルのポスターを貼りまくったし(僕のクラスには市川由衣が五人いた)、保健体育の授業中ではここぞとばかりに非童貞弄りがはじまった。僕たちの高校では、マジョリティである童貞の地位は一般社会におけるそれほどは低くなかった。
 僕はクラスでは普通の位置にあった。僕のとりえといえば、普通の人よりはまあバスケットボールが上手いことと、クラスで一番上手に猪木の顔真似ができることくらいだったから、とりたてて人気者であったわけでも、あるいは嫌われ者であったわけでもない。
 そういう特殊な環境で、僕たちはたまに女に飢えながら、それでもやっぱり男同士の気楽さに引きずられつつ過ごしていたのだ。
 ところで、僕たちの部活は部活動というほどたいしたものではなかった。僕たちはバスケットボール部だったけれども、実質的にはそれはバスケットボール部ではなかった。強豪ぞろいの県大会の上位に食い込むバスケットボール部は別にあったのだ。かといって僕たちの部活が部活動として学校に認定されていなかったわけではない。でも実際的な扱いとしては、部活というより愛好会に近かった。そんな複雑怪奇きわまる事情の結果として与えられた「バスケットボール部B」という冗談のような呼称が、僕たちに許された役割だった。
 毎日ダラダラと試合形式の練習ばかりを繰り返し、対外試合もなく、大会に出場するのでもなく、ただひたすらに楽しいバスケットボールというぬるま湯につかり続けるだけの部活動を、退屈だとは感じならがも僕たちは心から愛していた。
 そんな部活動の最中、彼は嬉しそうに言った。
「電車の中で会う子なんだけどさ、なんか気になって仕方ないんだよな」
 彼を囲んで神妙にその話を聞いていた僕たちの間には、一瞬にして緊張が走った。僕たち男子高校生にとって、出会いとはすなわち合コンかメル友か友達の紹介であって、そんなイレギュラーな恋らしき恋はまったく想定外のことだったのだ。
「……それで、話しかけたのかよ」
 渋木が猪木顔で言った。気持ちは分かるが、それは僕の芸なのでビンタを食らわせた。
「いや、まだなんだ。なんか恥ずかしくてさ」
 恥ずかしいのは、そんな照れくさそうな彼の顔を見ている僕たちのほうだった。胸の奥にともってしまった何かの灯を鎮火させようと、その日の部活にはいつもよりずっと熱が入った。けれども、胸の灯が消えることはなかった。
「恋してーなー」
 帰り際、思わずつぶやいた馬鹿をタコ殴りにしながら、僕たちはみんな心の中で、
「恋してーなー」
 と叫んでいた。

 彼が失恋したのは、夏休みに入る直前のことだった。けれども僕たちが彼からその報告を受けたのは、夏休みに入った直後のことだった。
「夏休みになったら会えなくなると思ってさ」
 期末テストの打ち上げということで、違法だけれども店に強引に頼み込んで飲み会を新宿で開催した僕たちは、なれないビールを喉の奥に流し込みながらやっぱり神妙に彼の話を聞いていた。
 彼の周りには部活の同学年が全員揃っていた。三年生になった僕たちは後輩に威張り散らしながらも、後輩ととても仲良くやっていた。後輩たちも、きっと僕たちのことが好きだったと思う。そういう部員同士の結束力にかけては、僕たちの部活は学内でもかなり上位にあった。なぜなら、僕たちは部活を心から愛していたからだ。
「思い切って番号を聞こうとしたんだ」
 僕たちは彼の度胸に感動した。二年も三年も男ばかりの空間に押し込まれた僕たちは、中学生時代のことなどすっかり忘れてしまっているから、いつの間にか女の子の前ではろくに喋れないヘタレになっていることが多い。僕たちの目には、女子高生というのは何か人間ではない特別な生き物ように見えていた。なのにあろうことか、彼は見知らぬ女の子に、しかも電車の中で自分から話しかけたという。
 僕たちは一様に感心し、低くうなった。恋はやっぱり凄い力を持っているのだ。
「でも、断られた」
 彼はそこでため息を吐いて、芝居じみた手つきでビールを飲んだ。僕たちもそれにならった。一斉にみんながビールを空にして、おかわりを注文した。僕たちは別に芝居をしていたわけではない。若さというのはそういうもので、勝手に挙措が芝居っぽくなってしまうのだ。
「彼氏がいたみたいだ」
「そっか」
 それで彼の話は全部だった。合コンで知り合った女の子と付き合って、三ヶ月前に脱童貞を果たした相川が眉を寄せて彼の肩を叩いた。「気にするなよ」
 僕たちは呆然とその光景を見つめていた。相川がなんだかやけに大人に見えたし、ふられたはずの彼さえもが、今の僕たちにはまぶしかった。あと半年で僕たちは大学生になるのだと、何の脈絡もなく思った。それから、高校生活二年半を振り返った。勉強などしなかった。恋もしなかった。ただの一度も。でも、いい友達がたくさんできた。だから、胸を張ってよい学生生活だったと誇れるような気がした。
「今夜は飲もう!」
 立ち上がって僕は言った。それが礼儀のようなものだと思ったのだ。彼の話が終わったことを察した後輩たちが僕たちのテーブルに集まってきた。僕たちは飲んだ。後輩たちが、やけに若く見えた。
 それほど深刻な酔っ払いは出なかった。僕たちは思いっきり高校生だと分かるのに快くだまされてくれたお店の人たちに深く感謝しながら店を出て、歌舞伎町の空気を胸の奥に吸い込んだ。それは濁っていた。男と女のにおいが奇妙な割合でブレンドされた町の空気よりは、ずっと教室の汗臭い酸素のほうがおいしかった。
「花火しようぜ!」
 高村が言った。幸運なことに僕たちはその素敵な提案を却下する理由を何一つとして持ち合わせていなかった。比較的大人っぽく見える相川と高村をドンキホーテに送り込んで、花火を買わせることにした。僕たちは少ない小遣いの中から断腸の思いで一人五百円を捻出し、それを大事そうに握り締めた相川と高村が敬礼を残して雑多な店の中に入り込んでいった。
 花火が安かったのか、五百円が多かったのかは分からない。とにかく相川と高村はかなりの数の花火を抱えて店から出てきた。
 適度に酔っ払った僕たちは、花火をする場所を求めて新宿をさまようことにした。とりあえず、中央公園を目指すのがいいんじゃないかと永田が言ったので、かなり遠いと分かっていながらも僕たちは中央公園に向かうことにした。
 酔っ払った男子高校生が、花火を抱えて夏の新宿を練り歩いていく姿は、少しほほえましい光景だったのかもしれない。垢抜けた服装をしている相川と並んだ垢抜けない服装をした僕は、最近のお気に入りの小説について思う存分語り合った。それから、飲み会の席で聞きそびれた相川の最近の彼女とのあれこれを聞いた。やっぱり恋してーなーと僕は思った。それだけでなく、うおー、超恋してーとも思った。僕らは別に恋人がほしかったわけではないのだ。ただ、恋がしたかった。 夜風にあらかた酔いが吹き飛ばされたころ、僕たちは西口公園に到着した。花火禁止の看板につばを吐きかけて、無法者集団と化した僕たちは次々に花火に火をつけまくった。僕たちの定義によれば花火とは人に向けて楽しむものだったから、戦場と化した中央公園では唐突に命がけのバトルがはじまった。
 僕のジーパンはそのときに少し焦げたし、津川のシャツは背中が焼けた。電灯なんてほとんど無意味な闇の中で、お互いの花火の光だけを頼りに、阿呆な僕たちは二十分近く銃撃戦を続けた。
「ちくしょう!」
 不意に、彼が空に向かってほえた。彼は少し泣いていたのかもしれない。僕たちはでも、飲み屋のときのように神妙に彼の話を聞いてやろうとはしなかった。
「くそ! ちくしょう!」
 彼は空に向かって叫び続けていた。僕たちの頭上には、都庁の灯りが見えた。打ち上げ花火が十発以上残っているのを確認して、僕と相川と高村は邪悪に笑った。
「おい! お前は悪くないぞ!」
 相川が彼に向かっていったのと同時に、僕は彼の肩に腕を回した。
「君は何も悪くない。悪いのは君以外の何かだ」
 僕は彼の耳に悪魔のささやきを伝えた。
「はいはい、みんなもってねー」
 高村が残っていた花火を三年生一人ひとりに渡していった。後輩たちは楽しくて仕方がないというように、すでに笑顔を浮かべていた。
「ならば何が悪い!」
 相沢がヒットラーのように片手を上げて言った。
「この世界が悪い! なんかとりあえず政治家が悪い!」
 渋木の宣言を、僕たちは唱和した。「なんかとりあえず政治家が悪い!」
「ならばこの腐った政治を正そうではないか、諸君!」
 空を向いていた彼の視線が僕たちのほうへ戻り、にこりと笑った。それは邪悪な笑みだった。いかにも今からいたずらをする、それは男子高校生の笑みだった。僕たちは嬉しくなって、うおーと意味のない雄たけびを上げた。
「石原慎太郎、成敗!」
 彼が叫んで、一番に花火に火をつけた。僕たちは競って打ち上げ花火に火をつけて、手に持ったままそれを都庁に向けた。
「石原慎太郎、成敗!」
 七色に変化する花火が、次々に都庁に向けて放たれた。僕たちは笑いをこらえきれず、腹筋がねじ切れるまで笑い続けた。
「あ!」
 と後輩の一人が叫び声を上げた。見ると、なにやら警備員らしき人たちがこっちに向かって走ってくるようだった。
「やばい、逃げろ!」
 アドバンテージはかなりあった。まだ警備員の姿は米粒のように小さい。僕たちは花火の始末もせずに駆け出した。
「俺たちはこれでもバスケ部だぜ!」
 遠藤が叫ぶように言った。
「Bだけどな」
 僕の訂正に、みんなが笑った。
「こら、息が切れるから笑わすな!」
 誰かの怒声が響いた。でも僕たちは笑っていた。彼も笑っていた。新宿のよどんだ夜空には、僕たちのさわやかな笑い声がよく似合っていた。

***

「やあ」
 僕は大学で偶然に出会った後輩と、そのころの話でひとしきり盛り上がった。
 僕は大学二年になったし、後輩は大学一年になった。あのとき見知らぬ女の子にふられてしまった彼にはとてもかわいい恋人ができたし、とっくに童貞を捨てていた。僕も人並みに恋愛をしたし、もうあれほど熱烈に恋がしたいと切望することもなくなった。
 年をとっちまったな、と大学二年生の僕は言った。後輩は笑って、橋本さん、すげー親父くさいと言った。うるせーと言って、僕は後輩の足を蹴った。
 四限のはじまりを告げる鐘がなったので、僕たちはお互いに挨拶をして別れた。今でもたまにあの夜のことを思い出す。警備員に追いつかれていたら、今頃僕たちはどうなっていたのだろう。
「どうでもいいか」
 そんなことはもう関係がない。だってそれは昔の話だ。
 今の僕たちは、そんな場所にはもういない。サークルの女の子と出会ったらついでにご飯くらい二人で食べることもあるし、クラスの女友達にボールペンを借りることだってある。
 だから、それは昔の話。
 今の彼女と一緒に腕を組んで歩いている彼の顔を思い浮かべて、僕は廊下を歩きながら笑った。
 ――あれは、君が彼女を好きだったときの話なんだ。 fin

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