Folio Vol.10目次など

あとがきにかえて

オカヤマ

 最期に憶えているのは、今まさに顔面に激突しようとしているテーブルの角だ。最終的に頬骨をしたたかにぶつけたかどうか、私には判らない。その前に視界が真っ暗になったからだ。うなじに熱い痛みを感じ、これが脳卒中か、と思いながら前のめりに倒れゆく私の意識はそこで途切れた。三十二になったばかりの冬の日だ。
 再び目を覚ました場所は病室のベッドで、私は白いシーツに身を横たえていた。ぎこちなく開いたまぶたの隙間に女の後ろ姿が見える。よく見知った背中、私の母だ。しかし何かおかしいような気がする。「母さん」とおそるおそる声を掛け、また違和感を覚える。
 何かが、変だ。
 私の声に驚き、慌てふためきつつも、母は私を強く抱いてぼろぼろと涙をこぼした。母の両腕にすっぽりと包まれるように掻き抱かれて、私は困惑の度を更に深くする。私の母はかなり小柄なはずなのに、随分とその胸を広く感じるのだ。
 ようやく落ち着きを取り戻した母は、先生を呼んでくると言い残して病室から出ていった。どうやら倒れたあと、この病院に運び込まれたようだと察しは付いたが、それにしても何かしっくりこない。そうこうするうちに医師が母と一緒に病室に入ってきた。まだ先生と呼ぶにはいくぶん貫禄の足りない男で、私と同じくらいの年かさだ。だが医師の態度はやけに馴れ馴れしく、気分はどうだい、などと気さくに話し掛けてくる。そのうち、この指は何本に見える?とか、八かける五はいくつ?などと質問をし、最後に「今年は何年?」と訊いてきた。
 二〇〇五年と答えようとして咄嗟に口をつぐむ。そうだった。ついこの間年を越したばかりだ。ということは――。
「二〇〇六年」
 一瞬、医師の表情が固まった「ん?」
 何かおかしなことを言っただろうかと心配になる。元号で答えれば良かったのだろうか。年が変わったということは平成何年だ。普段元号を使っていないものだからピンとこない。
「昭和、何年かな?」
 今度は私が戸惑う番だった。
「――昭和に換算して、という意味ですか?」
「え、まあそういうことかな」
 昭和は六十三年で終わったから、西暦にして一九八八年だ。ああ、今年は平成十八年だ。ということは――。
「昭和にすれば、八十一年ですか」
 私の言葉に医師と母は顔を見合わせる。63+18は81のはずだが。
「……君の名前は?」
「久保しのぶです」
「齢はいくつ?」
 その問いを受けて、ようやく私は先刻から覚えていた違和感の正体を察知した。質問には答えず、断りをいれてトイレに行こうとする。ベッドから降ろした足は到底床に届かない。血の気の引く思いで身を滑らし、素足のまま床に着地する。突っ掛けたスリッパがかかとから大きくはみ出している。
 廊下を行き交う看護婦たちは皆、私より背が高い。まさかと思いつつもトイレに駆け込み、洗面所の鏡に身を映した。鏡の下半分に映った顔には確かに見覚えがある。紛れもなく私の顔だ。
 ただし二十年以上も前の、まだ子供の頃の私の顔だ。

 人生をやり直すことができたらと思わない者はいないだろう。大抵の人間は、物事が過ぎ去ったあとで初めてその意味に気付き、ああすれば良かった、こうしておくべきだった、と悔やみながら毎日を過ごしている。私も同じだ。日付の替わった深夜一時、居眠りしながら帰宅の途につき、次の休日まで溺れないように泳ぐだけの日々を過ごしていた私も、何度「やり直し」を夢想したか判らない。
 脳卒中で倒れた三十二歳の私が目覚めてみると、夏休みに海で溺れ、三日間意識不明ののちに目を覚ました小学六年生の男の子に戻っていた。一九八五年、昭和六十年。まだ世界地図にはソビエト連邦が巨大な版図を誇示しており、ドイツはいまだ東西に分断されている。糖尿病を患う前の父はすっきりと細身で、まだ四十に手の届かない母の髪は黒々と豊かだ。そして四歳年下の妹は私の娘といってもおかしくないほどに幼く、いずれ福岡へ嫁ぎ、一児の母になるとは信じられないほどにちっぽけだった。
 私を取り囲む周囲の全てがあまりに無理なく整合していた。そのため、私の脳に残像を刻む二十一世紀の光景は夢だったのではないかと疑い始めていた夏休みの真ん中、大事件が起きた。
 一九八五年八月十二日、日航ジャンボ機が群馬の御巣鷹山に墜落した。乗客乗員合わせて五二〇人が死亡、生存者はわずか四人という航空史上最悪の大惨事だ。
 私はこれを知っていた。本当にあったこととして憶えている。奇跡的に一命を拾った少女が、将来看護士になるという後日談も知っている。
 連日事故の様子を報道する夏休みのワイドショーを眺めつつ、私は密かにほくそ笑んでいた。これから起こる二十年間の出来事を私は知っている。他の者が予想だにしないことも知っている。さすがにその詳細を憶えているわけではないし、全ての出来事を熟知しているはずはないものの、余人を出し抜いて美味い汁にありつくくらいのことは充分に可能だ。たとえば元は京都の花札屋に過ぎなかったゲーム会社が、数年後には世界のニンテンドーに成長することを私は知っている。今はまだ安値のその株を買っておけば、二十年後にはちょっとした財産になるはずだ。
 そして私個人の未来を見れば、その行く末は広々と輝かしく拓けているように思われた。年をとるごとに人の可能性は狭められ、選択肢は限られてくる。だが十一歳の私には様々な可能性と、たっぷりの時間が与えられている。その広く拓けた大地に立つ私は、成人男性の知能と経験を有し、加えて二十年間で通過した「これから」を、世界中のどんな有識者よりも確実に知っている。これからの二十年、私は常に一歩先で有利に立ち回り、他の者がぼんやりと見過ごしている果実を全てもぎ取る収穫者にさえなり得るのである。
 だがそれは甘い見通しだとすぐに気付かされた。この世界の私は小学六年生の男の子で、その外見に見合った扱いを受け、遇される。私の言葉は子供の戯言と一笑に付され、そんな暇があったら勉強しなさい、などとはぐらかされる。
 そして夏休みの終わりと共に、私の憂鬱は本格的なものになった。当然のことだが周囲にいるクラスメイトは皆子供で、下らないことでいがみ合い、些細なことで憎み合い、何かの拍子に仲直りして、何事もなかったかのようにけろりとしている騒がしい生き物だった。彼らの中にあっては私も同様の騒がしい生き物として振る舞わねばならず、その一方で、ついこの間まで学生だった若者を前にしては、教師に対する敬意と畏怖を示さねばならない。ものの一週間もしないうちに私は子供でいることに疲れ果てた。
 自ずと私は孤独を好むようになった。そんな余所余所しい態度は子供たちの敏感な神経に触れ、気付けば村八分とでもいうべき状態に変わったが、それは私の望むところだった。休憩時間や昼休み、私は独りで図書館に行き、時間を埋めるように本を読んだ。前の人生ではろくに本など読まなかった私だが、今回の人生ではむさぼるように活字を求めた。
 仕方ないことだが、周囲の者は皆、私を子供扱いする。だが本は違う。どこの誰とも知れない読者に向かって書かれた文章は、私を一人の人間として迎えてくれる。本と向き合う時だけは、私は自分を偽ることなく、洗練された文章や、創意工夫を凝らした物語、そして長年作家の内面で醸されてきた思想に触れることができた。
 中学に上がっても私の暮らしぶりに大差はなかった。少年たちは憶えたばかりの性知識を吹聴してはにやにやと笑い、少女たちはそんな男の子たちを幼稚な生き物と見下しながら、それでもまだ、どうしようもなく子供じみた言動を繰り返すばかりだった。とてもではないがまともに付き合おうという気にはなれなかった。
 ただ、学校の授業だけは今まで通りとはいかなかった。中学校の三年生ともなると科目は次第に専門的な色合いを帯びる。国語や英語ならば一般常識の範囲で難なくついていけたが、数学となると日常生活から離れた問題に取り組むようになり、生物だの化学だの、歴史関係ともなれば、普段の生活にはまるで関係のない知識ばかりだ。
 他の生徒たちは新たな知識を得るために勉強し、私は忘れ去った記憶を思い出すため、机に向かう必要に迫られた。その甲斐あってか県下随一の進学校を受験するよう勧められたが、私はそれを断って、自転車で片道三十分にある市内の公立高校に進むことにした。長距離通勤はもう懲り懲りだったからだ。
 二度目の少年時代は私にとって雌伏の期間、忍耐の季節以外のなにものでもなかった。子供に許されることはあまりにも少ない。大人の世界で子供の声が反映されることなどまずあり得ない。子供は子供の内にあってのみ一個の存在と認識されるが、大人たちに立ち混じってみれば、人間未満の小さな生き物に過ぎない。自由を手に入れるには子供のままではだめなのだ。
 一刻も早く大人になりたかった。高校生になってもその思いは変わらなかった。毎日目の前で繰り広げられる高校生活には目もくれず、部活動に勤しむこともなく、私に想いを寄せる物好きな女の子たちをも拒み続けた。通過点に心を残すのは無駄なことだと思ったからだ。自宅と教室と図書館、この三箇所を往復するばかりで、私はひたすら社会に出る下準備に専念していた。
 私は焦っていたのだ。私の持つ優位性、イニシアティブが少しずつ失われてきているのを実感し始めていたからだ。既に時代は平成に入っていた。私しか知らないことは少しずつ、みんなが知っている出来事へと場所を移し、こそ泥のように幸運を盗む機会は削られていく。
 私と周囲の距離も縮まりつつあった。子供は恐るべき速度で進化する。つい何年か前までは文字通り、大人と子供ほどにあった彼我の差が、十七、八歳ともなるとほとんどなくなっていた。一年生の時は学年トップの成績だった私が、二年次には上位陣という控えめな場所に席替えし、大学受験を控える頃には「上の下」などという同情めいた評価にまで下がっていた。
 その間にも世界は私に追いつきつつあった。一九九〇年、東西ドイツが統合され、翌年にバルト三国が独立を宣言した。そして大学入試真っ盛りの冬、遂にソビエト連邦共和国が崩壊した。それ以前に書かれた近未来小説は「ソ連」の一文字のせいで微苦笑を誘う羽目になり、ハリウッドの脚本家は新たな仇役を探し回らねばならなくなった。
 そしてとうとう屈辱的な事実に直面する時がきた。第一志望の大学に落ち、第二志望にも不合格となったのだ。他の学校は受けていなかった。落ちるはずがないと高を括っていたのだ。前の人生で、私は地元の国立大学を卒業し、そのまま地元企業に就職した。だが今度の人生では高望みした挙げ句に行き場を失った。もはや私は格別「同級生」たちに優れたところなどないと知らしめられた。
 今度の人生で、私は初めて親に頭を下げた。どうか予備校に通わせてくれ、と。厳しい顔つきの父は、一年間だけと期限をきって私の願いを聞き入れ、勉強に専念できる環境を、と予備校の寮に私をいれた。
 少しずつ未来の景色が変わってきた。いや、舞台背景は「かつての未来」と同じままだ。ただ自分の立つ位置が変わったために、未来そのものが変わったように見えるのだ。私は二度の生涯を通じて初めて郷里を離れ、高田馬場にある予備校の寮に寄宿した。
 部活動をしていなかった私には、同世代の男子たちが四六時中、狭苦しい空間にひしめき合っている状況が物珍しかった。初めのうちこそ遠慮がちだった寮生たちも、梅雨空を仰ぐ頃には勝手知ったる仲になり、夏場ともなれば下着一枚でうろつき回って、遠慮など微塵もない。
 その中でも四国から上京してきた佐々木とは殊更に親しくなった。当初は取っつきにくい奴だと思っていたが、古本屋でばったり出くわし、言葉を交わすようになってからは次第に打ち解け、互いの部屋を訪ねては四方山話に夜を費やしたりもした。
 だが佐々木とのお喋りを愉しむたびに、私は内心、苦い感情を味わっていた。遂に追いつかれてしまったのだ。もはや私と彼らの間に差異はなく、それどころか、目の前にいる未成年の男子を、友人として対等に遇する準備ができていることに、私は忸怩たる思いを感じずにはいられなかった。
 結局、一年の浪人生活も実を結ばず、私は名前が書ければ誰でも入学できるような私立の三流大学に通うことになった。学歴だけが人生ではないが、しかしどうやら二度目の人生は、前回にも増して冴えないものになりつつあった。
 私は思い違いをしていたのだ。私だけが知っている未来の知識、それを活用すれば、思いのままに立ち回れると勘違いをしていた。今から思えば実におめでたい話だ。
 実際には、私の知識はほとんど役に立たないことばかりだった。私の知っていることなど凡庸でありきたりな三十路男が、新聞やテレビニュースで見聞きする程度の事柄ばかりで、その見知った出来事ですら曖昧であやふやな記憶でしかない。たとえば競馬で大穴馬券を狙うにしても、よほどの競馬マニアでもない限り、何年何月何日、どこの競馬場の第何レースで万馬券が出るなどとは憶えていないだろう。
 つまり私でさえ知っているほどの未来とは、到底私の力の及ばぬような大きな出来事ばかりであり、私がちょっかいを出せる程度の事柄とは、私の記憶に残りもしない、些細で微少な事柄ばかりだった。
 その事実に気付いてしまうともうだめだった。徒労感ばかりが募り、何をしようという気にもならない。加えて、全部が間違いなく現実になる「本当にあったこと」の中で、自分の「これから」だけが見当が付かないというのはひどく不公平な気がして、私は毎日をふてくされて暮らすようになった。
 埃まみれの下宿に寝そべったまま、私が眺める一九九五年のテレビ画面は、年明け早々瓦礫の山と化した阪神地区の光景であり、怒号の飛び交う地下鉄丸の内線のホームだ。しかし私にはリアルタイムの大事件ですら、予定の事柄が既成事実に変わるだけで、ああ今年がその年か、と何の驚きもない。音楽番組で紹介される今週発売の新譜も、私にとっては懐メロ以外のなにものでもなく、まだ誰も聴いたことのない歌でさえ、私は自然と口ずさむことができたが、それをもって優越感に浸る時期はとうに過ぎていた。
 この歌が流行っていた一九九八年――と私は思い出を撫で回す。初めて買った自分の車で、恋人と一緒に九州へ旅行したのは確かこの頃だった。地元の女子大に通う女の子で、ちゃらちゃらした外見とは裏腹にやけに身持ちが堅く、二十歳を過ぎてもまだ処女だった。その事実を熊本の旅館で目の当たりにした私は突き上げるような支配欲に打ち震え、この子をずっと大切にしようなどと殊勝にも思ったものだ。結局、私の仕事が多忙になるにつれ、寂しさに耐えかねた彼女の方から別れを切り出したのだが、しかし現在の私はあの子と一面識もなく、私という人間がこの世に存在していることすら彼女は知らないはずだ――。
 思い出されるのは前の人生のことばかりだった。不細工でもどかしい最初の人生だけが生々しい記憶として残り、万全を期したつもりのこの度は、あまりに空疎で寒々しい。
 条件を満たすためだけに費やされた二度目の人生で私は何も残せずにいた。目に見える結果を出せなかったばかりではない。私自身、生きたという実感がまるでない。何が起こった、こういう結果になった、そんな空漠たる事実の数々が箇条書きのように連なっているだけで、それが他人の履歴だといわれても納得するくらい、現実感に乏しい人生だった。
 つまり確実に、反論の余地なく、私は二度目をしくじっていた。
 私を置いて日々は移る。何事もなく一九九九年が過ぎ、それよりももっと現実的な観点から、何か起こるのではないかと危惧されていた二〇〇〇年もさしたる混乱もなく通過し、予定通りに迎えた二度目の二十一世紀、私は文章を綴るようになっていた。予備校以来の友人、佐々木の影響だった。作家志望の佐々木は寸暇を惜しんで小説を書き、出来上がるたびに私に感想を求めてきた。のみならず度々私に、何か書いてみろよ、と促しもしていた。
 毎日毎夜キーボードを叩き、つれづれ思うことを文字に変換し、ときには物語に混ぜ込んで文章にまとめるという行為に私は没頭した。損得勘定抜きの行為であるにもかかわらず、私は奇妙な高揚感に満たされ、そのまるで無駄な行為に充実感を覚えるのだ。書き始めた当初こそ、文筆で身を立てるなどという青写真を描きもしたが、すぐに私の書くものは、私のためだけに書かれたものだと気付き、以来、雑誌の新人賞に応募することもなく、こそこそと無価値な言葉を並び替えて過ごしている。
 全くもって、これらは私のためだけに書かれたものだ。読者の鑑賞に堪えうるものではないというだけでなく、それが書かれた動機、目的が全て私個人のためのものだからだ。
 いくら愚かな私でも、いずれは気付くときがくる。二〇〇六年、私は不意の死に襲われた。そして一九八五年の夏からもう一度やり直している。では二度目の二〇〇六年、私の身に何が起こるのか。
 あるいは何も起こらず、そのまま年老いていくのかもしれない。だが一方で、三度目の一九八五年を体験する可能性もある。その「早過ぎる死」のあと、何も残さずにやり直すのは不本意だった。まるで無価値ながらくた、それどころか悪臭を放つ汚物であっても構わない。二度目の人生に私がいたというささやかな印を残しておきたい。その願いは、野良犬が曲がり角に小便を引っかける程度のことなのだろう。
 だが、何もないよりはよっぽどましだ。

 二〇〇三年、佐々木がインターネットを使って雑誌のようなものを作るというので、私も参加させてもらった。人に読まれることを前提で何かを書くというのは実に難しいことだった。
 佐々木が立ち上げ、様々な人間の助力を得て二年余の刊行を続けたウェブマガジンは、今年の冬、ひとまずの区切りをつけるという。その後のことを私は知らない。前の人生ではそんなものがあるとは知りもしなかった。
 ただこれが終わっても、参加者たちは何か書き続けるのだろう。私には、ひとたび書くことを覚えた人間は、理屈抜きに、死ぬまで何か書くものだろうという気がしてならない。私自身、何事もなく二〇〇六年をやり過ごせたなら、たぶん相変わらず、独りよがりにキーボードを叩いていることだろう。それはそれで結構なことだ。余生の趣味としては悪くない。
 だが全ては仮の話だ。本当の話はもうできない。二〇〇五年秋、本当にあったことはもうじき終わる。
 この先、私の知っていることなど何もない。 fin

Profile

オカヤマ
[comment]いやホント、先のことなんてわかりゃしませんよ、あはは。
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