Folio Vol.10目次など

イノガシラ街道沿いで

サイキカツミ

 この年末が落ち着いたら飯でも喰いにいこう、といって私は半年振りにMからの電話を切ったが、ええ、またね。といった、同じ声は今も耳に残っていて、いつものように、照れ隠しに笑う声は、その時もまったく変わった様子もなかった。出来事はまるで嘘みたいに冗談みたいに突然やってきた。再び声が聞こえた時に、彼女の声がおもったより深刻な声ではなかったのは僥倖だった。ただ元より深刻な会話へと発展する程の間柄ではなく、深刻に見えつつどこか軽薄さを含んだ舌先に彼女との関係が浮かびあがるような、固くて柔らかな壁が私たちの間に立ち挟まっていた。それでもいい。壁は私たちの間の心地よさとぎくしゃくさを作り出していた。私は壁を本当は乗り越えたかったのかもしれない。ただ、出来事の結果は分かってはいるものの、まだ胸の奥でこれは夢だという心地がしていた。
 えへへ。やっちゃった。
 そういう彼女はそのときそこにいて、そして、もう、永久に、いない。

 友人から連絡を受けた私と、その友人は下北で待ち合わせ連れだって彼女の部屋を目指した。ゴウゴウと車がひっきりなしに通過する環七沿いの四階のビルの部屋には煌々と明かりが点っていて、周囲に高い建造物もなく、遠くからでもその部屋が開け放たれて主の居ない空っぽの中身をさらけ出しているのは、まるで我らが灯台のようにみえた。
 その友人は偶然彼女と飲み友達になり、私とも知り合いだというので、なんだよ世間は狭いなあと、彼女から連絡があったのが半年振り。壁を乗り越えることもなく、互いに近付くこともなく、ただ、距離の中に心地よさと曖昧さが潜んでいたのが、ぷっつりと、彼女の方にコレと決まった人ができたのを契機に、多忙という名目で誤魔化し、ふっと離れたままになった。
 六畳程の部屋は明かりが煌々とたかれて遠くからみてもがらんどうで、まるで冗談のように、そう、それまで軽口で深刻さを紛らわして歩いてきたものの、友人と私はその黄色く輝く空白をみた瞬間に、もう、彼女はこの世に存在しないのだと胸が詰まり言葉を失った。
 私は明かりの中に人影をみた。
 誰か居るのかな。心臓が跳ねあがる音を聞いて、私は素知らぬ風を装った。
 掃除機をかけているような影にみえた。もう深夜に近い時間だったので、誰もいるはずはないとは分かっていた。もし大家だったら、この痛ましい事件の詳細を訊ける。
 私たちは細い住居の階段を登る。狭く、コンクリート製の階段は冷え、明かりもついていず、壁のスイッチをひとつずつ付けて、一階一階登る。辿り着いた灯台の彼女の部屋の前に立ってブザーを押し、当然のごとくにシンシンと静まり、反応はなし。もう一度鳴らし、三度鳴らしても、誰も出てくることはなかった。
 はいー、とあの顔が覗くかとおもうほど、以前と全く同じに鉄製のドアは固く閉じられ、私たちの間に再び静かな沈黙が訪れ、どうしてもその空白が去来すると、改めて実感し友人には見間違いだよねと訊くこともせず、なんかこの中にまだ居るみたいといった。友人は「ばかやろう」と小さく呟いた。
 まったくそのとおりだ。
 私たちは手を合わせて玄関のドアに彼女が愛した煙草(Echo)と酒をビニール袋ごとひっかけた。
 そこにいるなら出てきてよ。私が呟くよりも強く友人のばかやろうの声が暗く静まった階段に弾けてあちこちにぶつかり高く低く響いているようだった。ばかやろう、ばかやろう、ばかやろう。先に階段を降りた友人は彼女が飛び降りたビルに向かって繰り返した。泣いているようだった。きっとばかやろうの風船が膨らみすぎて瞳から溢れてしまったのだろう。
 そして苛立って電信柱にくくりつけられたステ看板を蹴った。私はビルの屋上をみていた。駅までの間、何度もくりかえし彼女の部屋のベランダを振り返ってみた。
 そんなところで様子をみてないで、せっかくだからでて来いよ、と声にださずに語りかけ、返事もないのにああ、所詮その程度だったかと残念がった。

 松山の浪のけしきはかわらじをかたなく君はなりまさりけり

 人の世はうつろい景色を変える。日々の流れのあまりの慌ただしさに様々な仕草を私たちは置き忘れてゆく。
 大切な仕草や運動をどこかに置き忘れて、そして人生のたくらみのみが徐々に蓄積してゆくのに飽き、かつてみた景色はもう二度と戻らないとわかりつつ、再び同じ景色を探そうとしているのだ。未だ私は彼女が居ないことに慣れてはいない。同じような頭をした女性とすれ違う。顔の作りがちょっと似ていると、あれ、いるじゃん、とおもう。

 私は、友人と別れて井の頭線の最終電車を待つホームから、また別の共通の友人にメールを出した。
 Mは数日前なくなりました、とメールを打つと感情がやっと追いついてきた。ああ、そうか。居なくなってしまったんだ。君の人生に何があったんだ? ぐっと喉元が詰まった。どうして。どうして。飛び降りたりする前に何とかならなかった。私だって誰だって、ギリギリのところをなんとか持ち越えながら踏ん張りながら生きているのに、どうして、君はそうして軽やかに飛び去ってしまったんだ? もし私が手を差し伸べることができたなら、彼女は行ってしまわないで生き残ることができただろうか?
 もし私が忙しい年末が終了し、年明けすぐにでも電話をして、話を訊くことができたらどうだっただろう。年賀メールが届いた時、連絡してもよかったじゃないか。時間はいくらでもあったはずだ。だが、だがしかしと、同じ問いに揺り戻されてしまうことに私はうんざりしつつ、無力感を感じていた。
 私はなんの力にもなれなかったのだ。私がなんとかできるなんて考えちゃいけない。彼女、彼女たちはきっと私が考えているよりずっと高く高く飛翔している。彼女たちに対して私ができることは、この世に生きててもいいんだ、十代が酷く大変な時期だった人は、二十代の半ばまでの大きな山を乗り越し、がんばって生き延びれば、もっと生きるのは楽になる。世界は段々ひらけてくる、楽しいことやりたいことだって、年と共に増えてきて世界はバラ色じゃないにしても、ピンク色ぐらいには鮮やかになってくるんだ。きっと、きっと信じ続けて、自分を信じ続けていれば、諦めなければ、灰色の世界にちょっとだけでも色を付けることだってできるんだ。生きることも歳をとることもそれほど悪くないよとだっていえるんだ。
 そんな言葉は欺瞞じゃないのかと私は自身で嘲笑する。でも。
 「ばかやろう」の声が充満しすぎて居たたまれなくなり、電車を途中で降りた。家までの長い道のりを歩いて帰ろうと決めたためだった。

 歩く。
 わたしも歩くのが好きよ。渋谷から歩いて帰ったことあるもん。彼女はかつてそういい、だが赤い愛用の自転車で下北を駆けた。
 矛盾。
 わたし男運が全くないのね、いっつも酷い目にばかり。どうしてか一番酷いひとばっかり選んじゃうのよ。
 カラカラと笑う彼女はリストカッターだった。彼女の手首から二の腕には無数の傷跡が残る。何故そうするのかと問うと、たしか生きるためと答えたはずだ。生きるために自らの身体を切り刻み、痛覚でリアルとのバランスを取る。この世は緩慢で、退屈で、まるで全てが他人事のように感じてしまう。
 そうだよ。そうだよ。矛盾だらけで、この世は生きるに値しないかもしれない。確かに。でもそれでも私たちが生まれてきたということには何らかの意味があったりするはずだ。矛盾だらけで糞のような、思い通りにならないことばかりで苛つくけど。でも、でも。
 そうして私は考えるために歩く。愛するために愛す。だが同じ疑問を回転する。本当に考えているのか、本当に愛しているのか。生きて行くためのリアルな現実はどこにあるのか。やがてガンバったりしたら正解をみつけることができるのか?
 いや、そうした低回も含んで、私たちは矛盾の世界に住んでいるのだ。

 この世にある種の人々がいる。メンタルヘルス。長くもない人生で、気がついたらそうした俗に病んだ方たちが私の周りにいた。そのうちのいくらかの人々は現実世界に違和感を訴え、押しつぶされそうになり泣き、叫び、時に暴れたりする。彼女たちが対面している世界は彼女たちにとって辛く苦しい。
 苦しみと悲しみと怒りと、無力感。
 精一杯働いてお金をたくさん儲けて、幸せな結婚をして、そして一軒家を購入して、ローンを払い、小さな子供をピアノ教室に通わせ、塾、勉強、優秀な成績を納め、そして、精一杯働いてお金をたくさん儲けて、幸せな結婚をして、一軒家を購入して、ローン。テレビでは「○○はあなたの勝利のために必要です」「○○を食べるな」「○○を買え」「今あなたに○○が必要です」と繰り返す。
 本当にこの世が幸せであるなら、彼女たちはきっと生まれてこないはずだ。
 ふと思い出すのは「白峯」。西行は崇徳上皇の御前で一句詠み対面した。玉呼び鎮魂。私にできる訳はない。でも話を訊きたい。ただ、もう一度声を聞きたい。私にできるのは話を訊くことだけかもしれない。
 なあ、いい加減に出て来いよ。そこにいるんだろ? もっと話をしよう。

 よしや君昔の玉の床とてもかからんのちは何にかはせん

――そんな深刻にならなくっても。
 私は肩に重力を感じて、彼女の出現を歓迎した。そうだ、いつも私が求める役目なのだ。彼女はいつもの声で、ただ姿ははっきりとしないが、確かにそこにいて、不貞腐れていてもちゃんと話しかけてくれた。私はちょっと嬉しくなる。どうした。何があった?
――たまたまよ。たまたまにこうなってしまったのよ。
 そんな。突然じゃないか。
――仕方ないわ。
 あそこから地面までの間に何を考えた? 私はそっと訊いた。こういう質問は微妙な感じがした。だが彼女はなにげない振りで答えた。
――酔ってたから覚えてないわよ。
 私は彼女のそうしてしまった理由を探していた。だがどうしてもみつからなかった。
 いったん喋り出すと彼女は饒舌に、この前、海行ったのね。そしたら寒くてね、淋しくて静かで、何もかも洗われるような感じがしたの。貝も拾ったわよ。ねえ、前に海がみたくて夜になってから葉山まで行って、丘のうえで一晩過ごしたことを話したよね。朝焼けがじわじわ登ってきて、雲をだんだん赤く染めて行くのってほんとに美しい。なんか上手くいえないけど、わたしはわたしであるみたいなのと同じように、わたしがわたしじゃないみたいに感じられて、ほら、夜の闇って暗いじゃない? 夜の闇に溶けてゆくみたいに、朝の光の中にわたしが溶けてく感じがしたの。
 彼女はとりとめなく喋り、それでもどこかすっきりとした顔をした。
 なんだ、心配して損をした、と私は呟いた。それなら何故、そうしてしまったんだ。
――あなたには関係ないわよ。
 関係ないことはない。びっくりして慌てて飛んできたのだから。
――それは感謝してるよ。でもいいのよ。もう。
 男となんかあったの。
――それこそ、あなたには関係ないわ。結局、わたしはどうしようもない女よ。 
 そんなことはない。だれだって、どうしようもないなんていうことはない。
 彼女は夜の孤独だった。決して昼が似つかわしくないというのではない。だが、彼女のたたずまいに、眠れぬ夜、一人、闇の中でベッドに腰を下ろし目を見開いているような不眠症の孤独感があった。そして内側に秘めているものは情熱を含みながら長い髪をばっさり落としてシンプルになろうともがいていた。彼女はまだ一九だ。女の子の一九から二二歳あたりまではとても苦しい。だがその苦しさを乗り越えて、やがて強さになるまでの猶予期間、それが誰にだって必要なんだとおもう。
 ほんとうだ。時間が必要なのだ。
 夜の車のライトは幻想的に私をこの街から連れ去る。街道脇を歩く私の後ろから車の影が走り抜け、明かりがすうっと流れて、またこちら側に揺り戻す。私のなかを車のランプが走り抜ける。
 ねえ、君は生きていて幸せだった?
――わたし病気なのよ。薬飲んでもだめ。時間が経てば経つほど、だんだん私は死んでしまう。でも後悔なんてしないわ。いろんなことがあったけど、わたし、後悔なんてしないの。本当よ。
 きっと君は強くなりたかったんだ。強く、魂の欠片を集めて強がって。
――最近眠れなくてね。
 うん。薬?
――ちがう。たぶん。ただ精一杯生きたかったのよ。精一杯に全てを投げだして、私自身が空っぽになってしまわないと眠れないの。知ってる? 梶井基次郎の小説に「Kの昇天」っていうのがあってね月夜とドッペルゲンガーの話なの。
<影と『ドッペルゲンゲル』。私はこの二つに、月夜になれば憑かれるんですよ。この世のものでないというような、そんなものをみたときのの感じ。――その感じになじんでいると、現実の世界が全く身に合わなくおもわれて来るのです。だから昼間は阿片喫煙者のように倦怠です>
 その小説のKは溺死した。
<哀れなるかな、イカロスが幾人も来ては落っこちる>
 君は私が知るかぎりは精一杯生きようとしてたよ。
 だからゆっくりおやすみ。

 私は空を見上げた。深夜もだいぶ回った夜更けの、深い海のような空だった。満月がぽつんと浮かんでいた。
 君が落ちた昼をよく覚えている。
 一月の割に温暖で希に澄んだ空をして、青い空に雲があまりにも綺麗だった。夕焼けは赤くオレンジに柔らかな光を投げかけていた。私の職場の大きな窓からじっと日の沈む様子を眺めていた。鮮烈な青い空と赤い夕焼け。
 ブリューゲルの描く『イカロスの墜落』には農民が畑を耕す風景が描かれている。そこでは日常の生活の海にイカロスが小さく落ちた様子が描かれている。私はその農民のようにイカロスが墜ちたことをしらず、日常の生活の中に居た。だが、彼女、いや、彼女たちは私のしらないところで、それも間近な場所で人しれず、墜落してゆくのだ。
 君は一人じゃない。きっと同じように墜落して行く少年少女がいるだろう。
 彼女たちは高みに昇ろうとする。力も努力の意味も分からずに、そして現実という高い壁にぶつかって、上手くいけば生き残り、ちょっとでも歯車が違ってしまえば墜落する。一か八か。時計の歯車がかちっと回転した時、うっかりそんな音を聞いてしまった者はたぶん、不幸だ。
 だけど、せめて生き残って欲しい。せめて現実の世界との接点を探し、手触りと悲しみをやり過ごす術を身につけて、せめて生き残ってしまった私たちを悲しませないでおくれ。
 なあ、私にできることはない?
 私が君に、君たちにできることはない? 余計なお節介だとわかっているけれども。ねえ、もし良かったら白峯の西行のように、詩を奏でさせてくれ。届くように頑張るから。私たちはきっと君たちのドッペルゲンガーなのだから。

――あの日、とっても晴れてたのを覚えてる? 一晩中眠れずに、仕方ないから、いつもの店に行ってね、飲んでたんだ。かえってきたら、空が晴れてたじゃない? ほら、前に、日記に書いてたでしょ。<今日みたいに真っ青な空なんかみちゃうともう駄目だ。死ぬんじゃないかと不安になる>って。でも、まさか死んじゃうなんておもっちゃわなかったわ。もう仕方ないけどね。

 街道からようやく我が家へ着いた頃には、やがて空は白ばんできていた。私にはその夜明けがちょっと澄み過ぎてみえて、ちょっと眩しく憎らしかった。
 彼女は二日ほどの間、気が向いたら私の側にやってきて、そして最期の時期に仲が良かったある人のところに(たぶん)行った。気がついたら居なくなっていたのだから、せめてさよならぐらいはいってくれてもいいじゃないと、私はおもったが、彼女はそんな人だった。
 ばーか。君はいっつもわがままなんだから。
 そうだ。君たちはばかやろうだ。
 残された私はきっと君たちのために鎮魂のうたを歌うだろう。そんな資格があろうとなかろうと傲慢だろうがうたってやる。偶然みつけたら笑ってくれよ。せめて安らかに。わずかに唇を揺るがし、それで一瞬でも悲しみが癒えるように。 fin

 

参考:

Profile

サイキカツミ
[site]ぞうはな