どうしてポストは赤いのか。どうして空は青いのか。どうやって子供は生まれるのか。
 幼児時代は全てが不思議でした。今でも不思議で仕方がないこと、知りたいことなどは沢山ありますが、それでも昔に比べると色んなことを学びました。1+1は2だし、1−1は0だし、5673×98762はとても大きな数になります。
 僕たちは不思議が大好きでした。いえ、今でも大好きなはずです。謎や神秘は僕らの中で永遠のアイドルなのです。
 謎、神秘。つまりミステリーです。僕らは生まれたときからミステリーが好きだったのです。そういうことで、ここは生まれて間もない赤ん坊並の知能しか持たないミステリー初心者のヤマグチが、偉そうに知ったかぶりを全開にして、皆さんにミステリーをご紹介するコーナーです。

 第一回 ヤマグチ、差別の謎を学ぶ
ヤマグチ

『手紙』
東野圭吾 2003.3  毎日新聞社


東野圭吾 『手紙』


 両親を早くに亡くした貧しい兄弟の話。出来の良い弟を大学に入れてやるために、兄はどうしても金が欲しかった。しかし、腰を痛めたせいで今までの仕事をクビになってしまう。弟を思うあまり、兄はついに泥棒することを決心した。
 盗みに入った家で、しかし兄は住人に発見されてしまい、混乱した挙句に人を殺してしまう。強盗殺人の罪ですぐに逮捕され、長い長い懲役を課せられる兄。
 本当に一人になってしまった弟、直貴は何とか高校だけは卒業するものの、大学進学は当然諦める羽目になった。苦しい生活。そんな折、直貴の下へ服役中の兄、剛志からの手紙が届く。  この『手紙』は、剛志の手紙に励まされた直貴が日々の困難を乗り越えてたくましく生きていく、兄弟愛に満ちた素晴らしい物語、などという美しいものではない。
 兄が強盗殺人犯というレッテルを貼られた直貴は、あらゆる場面で差別を受ける。何度も何度も、何かを積み上げては兄の存在がその全てを壊していく。その間も届き続ける剛志の手紙。直貴の現状を知らない彼の手紙は、場違いな明るさに満ちている。やがて直貴は、いけないと思いつつも兄を恨み、兄を憎み始める。自分のために罪を犯した兄が、邪魔で仕方がなくなっていく。 

    我々は三度の教育を受ける。
    最初は両親から、次に学校で、最後に社会に学ぶ。
    そしてこの最後の教えは、他の二つの教えと全く矛盾するものである。 と

は確かモンテスキューの言だったと思うが、僕は『手紙』を読んでいる間、常にこの言葉を思い出していた。親や学校は奇麗事しか教えない。道徳を重んじ、差別を批判する。しかし、その親や両親でさえ、人を差別し、偏見に拠るのだ。
 あなたの友人の親が凶悪な殺人犯であると知ったとき果たして今まで通りの付き合いができるだろうか。そんなことは友情には何の関係もないことだと断言できるだろうか。または、あなたの子供が殺人犯の子供と仲良くしていると知ったとき、あなたはその関係を容認できるだろうか。
 もちろん、YESと答える人もいるだろう。心優しい人間だっている。だが、世間はそうは甘くない。世の中は差別と偏見に満ちているし、それはどんなに努力をしたところでなくなるものではない。それが間違っていることであることの証明さえできるかどうか疑わしい。先ほどの問いにNOと答えた人を批判する権利なんて、本当に存在するのだろうか。少なくとも僕は、自分はNOを選ばないとは断言できない。
 つまり『手紙』はそういう物語だ。兄にとって、弟からの手紙は外界の様子を知ることのできる唯一の手段であり、弟にとって兄からの手紙は自分の境遇を嫌でも認識させられる忌まわしいものでしかない。

「いつかきっと俺は兄貴のことを恨むようになる。そんなふうになるのが怖いんだ」

 物語の中盤から後半にかけてのシーンで、直貴はそう述懐する。壊れていく人生の中で、直貴の選び取った道は果たして正しかったのか。その決断がどうであれ、僕たちに非難する権利などないのではないか。

 このようなタイプの小説で描かれるのは、大抵被害者と加害者の関係であったりするものだ。しかし、本作では加害者とその家族にスポットを当てる。犯罪が生む悲劇は被害者だけにあるのではない。加害者の家族にまで火の粉は飛んでくる。「家族だからそれくらいは仕方のないことだ」という意見は、本当に駆逐されるべきなのだろうか。
 解けないミステリー。多彩な作風を持つ東野圭吾の五十作目。いわゆる「ミステリー」ではないかもしれないが、しかしこれは確かに謎かけだ。本作を読んだ人それぞれが、自分の答えを見つけなければならない。