■ 純粋無垢へ
茶石文緒

 

「J.S.Bach/ゴールドベルク変奏曲」

グレン・グールド(ピアノ)1955年盤 

ソニークラシカル



 頭が痛い。
 以前していた仕事のせいで頸椎を傷めて、それ以来、偏頭痛が癖になっている(腕力もないくせに撮影所の照明スタッフなんかやっていたせいだ)。
 偏頭痛というと、血の気の失せた顔に眉根を寄せて、指先でこめかみを押え…という色っぽい図が似合いそうな気もするが、実際はそんな優雅なモノではない。もっと攻撃的で、神経がピリピリ尖ってくる。こんなときのわたしは、ものすごく剣呑な目つきをしているのに違いない。
 アタマガイタイ アタマガイタイ アタマガイタイ そればかりが呪い文句のようにループするけれど、その対象は他でもない自分自身だ。自分の血液が持主を裏切り、毒を孕んで脳を浸食する。血管は針金、脈拍ごとにキリキリと縮んで頭蓋骨を軋ませていく。じっと目を閉じていると、張り巡らされた網の目がくっきりと見えてくるほどにリアルな痛み。
 こんなときは、頭蓋骨をぱっくりと開けて、脳そのものを取り出して丸洗いしたい気分になる。あるいはスイカでも冷やすみたいに、タライに入れて水に浸しておくとか。職場の後輩たちはスプラッタだと言うけれど、これだけ持ち主を苦しめる脳髄なんか、ちょっとくらい手荒に扱ってもバチは当たらない気がしてくる。
 でもまあ、自分をひたすら呪いつづけていても仕方ないので、ここはさっさと合理的な解決法、頭痛薬の世話になることにする。薬の銘柄にもそれなりに好き嫌いはあるけれど、それよりも重要なのは薬を流し込む水のほう。会社で借りている築20年のビルの水なんかは断じて飲む気がしない。ミネラルウォーター、できればよく冷えたボルヴィックがいい。
 それだけで鎮静作用を持つような、クリアブルーのボトル。白い錠剤と一緒に、冷たい水を喉の奥へと流し込む。滑らかな軟水が身体を滑り落ちていく瞬間がいちばんいい。遅れてやってくる、薬の効きはじめの曖昧な自覚よりも、はるかにくっきりと、救われた思いがする。

 ところで、常に手元からミネラルウォーターを離さなかったピアニストといえば、グレン・グールドがいる。演奏中だろうが録音中だろうが水のボトルを持ち歩いていた彼が好んだのは、カナダ出身のくせにポーランドの水だった、と伝記にはある。ポーランドといえばショパンの国なのだが、ショパンに対していつも冷笑的だった彼が、どうしてかの国の水を好んだのかはわからない。水が合わない、という言いまわしは、どうやら日本に独特のものらしい。
 水という透明な存在をからだに流し込むことの意味。そこには、他者と混じり合うことへの嫌悪、濁って汚れていくことへの拒否がある。内側に無色透明な領域を持ち続けたいという意志には、他者どころか自分自身への拒絶すら、うっすらと含まれているのかもしれない。
 それは一見慎ましやかなようで、ひどく冷ややかで身勝手な欲望。それでいて、どこまでも姿を変え、色を変え、流れていくことも厭わないという無私の諦念でもある。その裏腹をグールドは一生かけて貫きとおした。コンサート活動をやめ、他人との接触を徹底的に拒絶した。「人間嫌いの変人」という看板の陰に自ら隠れるようにして生きた半面、その演奏には、他の誰にも持ちえないほどの謙虚と優しさがあった。
 巨匠らしい華麗さをひけらかすことも、息がつまるほどの色彩で塗りつぶすこともしない。闇の中に細い細い光の糸を織るように、今まで誰とも分かち合うことのできなかった、ごくごく個人的な痛みへの共感を囁きかける。これほど聴き手に寄り添い、無私の救済を与えることのできる演奏家を、私は他に知らない。

 いま聴いているのは、バッハの「ゴールドベルク変奏曲」、カナダからNYへ出てきたグールドががデビュー盤として録音した演奏だ。当時22歳だったグールドは、この曲を「今までにない斬新なテンポと解釈」で演奏し、一躍スターとなった。1955年に「斬新」と騒がれた演奏は、50年ちかくが経とうとしている今でもやはり「歴史を塗り替える唯一無二の存在」であり、「"ゴールドベルク"を聴くならまず、グールド盤を聴け」と言われる名盤でありつづけている。
 確かに、第一曲目のアリアを初めて聴いたときには、これがバッハかと耳を疑うほど驚いた。とにかく、音がちがう。まるで無垢そのものとしか言いようがないほどの輝きを放つ音。様式でガチガチに固められたドイツ的厳めしさとは全く無縁の音色は、「時代に照らし合わせた物珍しさ」という意味の相対的な新しさではなく(そういう類いの新しさは、せいぜい10年もたてば、気恥ずかしくて聴き返せないほど古臭くなってしまう)、まるでひとつひとつの音がその瞬間に初めて生まれ立つような、絶対的な真新しさだ。これなら確かに、50年たとうが100年たとうが「新しい」と言われ続けるのも納得がいく。
 アリアで始まり、30曲の変奏を経て、再びアリアに立ち返る。様式に演奏を嵌め込むのではなく、様式そのものが生命を帯び、音楽そのものとなって響いているとでも言えばいいだろうか。全てがひとつの流れでありながら常に変化しつづけ、どれだけ耳を傾けていても決して飽くことがない。そういう意味で、この音楽は、自然の造形に限りなく近いのかもしれない。たとえば、ロウソクの炎の揺らぎや小川の飛沫を見詰めていていつまでも飽きないような。理由のない、ただただ微笑を誘う幸福感が、本能に近いところから、湧いてくる。

 「ゴールドベルク変奏曲」には有名な逸話がある。不眠に悩むカイザーリンク伯爵を慰めるためにバッハが書いた作品であり、この曲を演奏したのが、ゴールドベルクという名前のチェンバロ演奏者だったという。このエピソードに倣ってか、「ゴールドベルク」を眠れない夜のパートナーとして愛聴している人も多いらしい。
 けれど、この1955年の演奏に限っては(グールドは、死の間際の1981年にも、同じ曲をふたたび録音している)、むしろ、朝の目覚めぎわに聴いてみることをお勧めする。まだ凛と冷たい早朝の空気は、この透明な音楽を、格段に美しく響かせてくれるから。
 窓を開けて風を入れる。CDプレーヤーを立ち上げて、部屋中に真新しい音を行き渡らせてやる。あとはよく冷えたミネラルウォーター、それだけで、身体も、意識も生き返る。昨日とは全く違う、真新しい一日が、目の前にくっきりと立ち現れる。
 まあ、わかっている。朝の清浄も、澄み切った自分自身も、しょせん、一瞬の感応にすぎない。音が止んだあとに待っているのは、街の騒音に雑踏、神経をキリキリ締めつける日常業務、無数の会話と煩わしい接触、汚れた空気と偏頭痛、つまりはルーティンな現実というやつ。
 それでも、あるいは、だからこそ。ドアの外で待ちかまえている「ごちゃごちゃ」に立ち向かうために、自分の内側に濁らない強さを、純水の清らかさをくださいと、祈るように切実に思うことがある。
 身体の中に音楽が満ちていく。それは決して淀まず、聴くたびにいつも真新しい。朝露を浴びた植物の気持ちになって、私はひとり、背筋を伸ばして微笑んでみる。
 オッケイ。それじゃあ、いきますか。これからはじまる一日に、純粋無垢の祝福を。