僕が生まれたときにはすでに王貞治は引退してて、物心ついた時にはディズニーランドはあったしファミコンで遊んでいたしジブリはアニメをつくっていた。ファンタジーという言葉で連想するのはまずファイナルファンタジーだったりドラクエだったりつまりはファミコンのRPGで、僕はそういう80年代に生まれた。
 中学生くらいでいわゆるライトノベルを読むようになったのだけれども、そこでもてはやされていた「ファンタジー」は『ロードス島戦記』や『スレイヤーズ』だった。それらのカギ括弧つきの「ファンタジー」を僕は消費するみたいに読んだ。面白かった。ああこんなに面白い読み物がこの世の中にあるのかとライトノベルの「ファンタジー」に没頭した。
 けれどもいくら待ってもライトノベルの「ファンタジー」は読者をその先には連れて行ってくれなかった。僕だって「ああ、コレがファンタジーなんだな」と思って思いこんでそれ以上前に進もうとしなかった。いいや、その言い方は少し語弊があるかもしれない。その当時ライトノベルの「ファンタジー」に心底没頭していた僕は、まさかファンタジーに後ろがあるなんてことは考えてもみなかった。まして前に道があるかもしれないなんて考えることもなく、ただ延々とその場で足踏みを続けていた。
 たぶんその足踏みは、今も続いている。

 初期からライトノベルを引っ張ってきたレーベルのひとつに「角川スニーカー文庫」があるんだけれども、その雑誌『The Sneaker』の95年8/5発売号が今手元にあって、冒頭のインタビューで『ロードス島』の水野良と『スレイヤーズ』の神坂一が対談をしている。副題は「小説?! 僕たちのやり方って反則かもね」。
 反則? 冗談じゃないとそれを読んだ当時の僕は思った。『ロードス島』と『スレイヤーズ』が反則だとしたら、僕が心底没頭していたライトノベルの「ファンタジー」は明らかに全部反則だ。もし『ロードス島』と『スレイヤーズ』が反則だったとしたら、僕はそもそも反則の「ファンタジー」しか読んだことがないし、ライトノベルの「ファンタジー」なんてレフェリーの警告も無視して延々と場外乱闘をし続けているみたいなものだ。僕が小説だと思いこんで読んでいたものは、実は小説ではなかったのだろうか。
 対談記事は続いた。

水野 「ファンタジア大賞が施行されて、最初に出てきたのが神坂さんだったというところに、時代が生み出した必然性というものを感じました」

神坂 「TRPG、コンピューターRPGでできた世界を使い物語を創造とする要素は、誰もが持っていると思うんです。ただ、それまではだれもが『実際に小説にするのは反則だな』と思ってやらなかったことを、僕は平気な顔をしてやっちゃったというところじゃないでしょうか(笑)」

 僕はその記事を読んで大いに困惑した。時代が生み出した必然性? TRPG? 
 それじゃあ神坂以降の「ファンタジー」とは別に、それ以前のファンタジーが存在したっていうのか? それ以前のファンタジーは、コンピューターRPGをそのまま小説に持ち込んだような、そんな小説とはなにが違うのか?
 正直なところ僕は、ライトノベルみたいなカギ括弧つきの「ファンタジー」とは別に、例えば図書館で見る『ナルニア国物語』『モモ』みたいなファンタジーがあることは知っていた。でも僕はどうしてもその両者を同じファンタジーという言葉で繋げることができなかった。両者はあるところでは似通っているけれども、全体としてみればどうしようもなく断絶しているように思えた。
 そうして誰も神坂以前のファンタジーについては教えてくれなかったし、僕も特に知りたいとは思わなかった。知らずとも幸せなまま『スレイヤーズ』以降の「ファンタジー」を消費し続けた。淡々とした足踏み。

 そうして足踏みを続けるうちに、ライトノベルの中心は「ファンタジー」から離れていった。今はもう、ライトノベルで刊行される「ファンタジー」がどれほどあるのか、僕にはよくわからないし、あまり興味も持てない。『ブギーポップは笑わない』は僕らにとって大きな衝撃だったけれども「ファンタジー」じゃなかったし、『キノの旅』はカギ括弧のつかないファンタジーに似ているような気がする。
 もちろん「ファンタジー」に育てられて巣立っていったライトノベルが、親に何を教えられて育ったのか、そんなことは考えたこともなかった。ただ僕は毎日顔を合わせる近所の友達みたいに、ライトノベルと一緒に大きくなって、それ以外の毎日なんて想像できなかったから。
 それでも最近、僕はようやく自分がとても不安定な場所に立っているんじゃないかと思うようになってきた。もしかしたら、僕がごく当たり前の小説と読んできた「ファンタジー」って、実はとても特殊な小説じゃないのか。僕らより上の世代、ライトノベルが認知される前に普通の小説やカギ括弧のつかないファンタジーを読んでいた人たちは、初めて『ロードス島』や『スレイヤーズ』を目にしたとき、少なからずショックを受けたのではないのか。けれども僕らは、そういうライトノベルの「ファンタジー」がごく当たり前の、80年代に生まれた。
 だから僕は、一体『ロードス島』『スレイヤーズ』以前の人たちが、一体何を見、何を考え、何を感じてきたのか、想像することしかできない。

 「ファンタジーというテーマについて、現在進行形のライトノベルから言及をしてほしい」という依頼で、僕はこの原稿を書かせてもらった。
 ライトノベルはもう生まれてからだいぶ時間が経っているし、その成立に「ファンタジー」が大きく貢献していたことも、何となく予想ができる。けれどもライトノベルの「ファンタジー」はここ十年間一歩も前進してなくて、ただ延々と『ロードス島』『スレイヤーズ』の焼き直しを続けていると僕は思う。
 そして延々とその焼き直しを与えられ続けた僕は、この「ファンタジー」が元々反則技だったなんて、夢にも思わなかった。僕は『スレイヤーズ』で満足だし、「ファンタジー」にそれ以上を求めない。『スレイヤーズ』以前の「ファンタジー」になんて興味はない。大げさに言えば、ライトノベルの「ファンタジー」はもう『スレイヤーズ』で完結している。歴史のあるファンタジーとは、完璧に断絶されて。
 僕はライトノベルの「ファンタジー」に、現在進行形なんてあり得ないと思う。あるのは過去完了形としての「ファンタジー」、ただそれだけだ。
 それはきっと悲しむべきことなのかもしれないけれども、僕らには悲しむ術がない。僕はそれがごく当たり前でしかない、80年代に生まれた。そしてそれが一番悲しいことなんだろうと、ようやく自分が足踏みし続けていることに気づいた僕は勝手に予想している。


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