文、絵 桜井美奈子
発行 睡眠社
それは、しあわせのメガネでした。
どんなに目のわるい人だって、そのメガネをかけると、目がよくなるのです。
けれども、すぐに、ではありません。目がよくなるには、すこし時間がかかるのです。
時間がかかってもいいから、しあわせのメガネをほしがる人は、たくさんいました。
しあわせのメガネは、たくさんの人をしあわせにして、いまも、どこかのだれかをしあわせにしようとがんばっています。
けれども。
しあわせのメガネは、ちっともしあわせではありませんでした。
わたしは普通のメガネです。
もしも口というものを持っていたら、わたしはきっとそう言ったことでしょう。けれども、わたしは普通のメガネなのです。言葉を話すことなどできません。
わたしは、桜井さんにメガネ屋で買われました。桜井さんが使うためではありません。わたしを使うのは、桜井さんの一人娘の、桜井香織さんです。この春、中学校に入学したばかりの女の子だそうです。
桜井さんは、香織さんにわたしを手渡しました。そして、言ったのです。
「これは素晴らしいメガネだから、すぐに目も良くなるわよ」
すぐに良くなんてなりません。わたしにはそんな力はないのです。けれども、わたしはビクリとしました。
「目が良くなる? じゃあ、それってしあわせのメガネ?」
「そう、しあわせのメガネよ。だから、香織の目も治るわ」
「ふざけないで。そんなの嘘に決まってるじゃない」
香織さんは、かわいらしい顔立ちに似合わない、きつい調子で言いました。わたしはなんだか悲しくなりました。
「そんなことない。きっと良くなるわ」
桜井さんが言いました。それは、願いの響きに似ていました。桜井さんも、そんなことは信じていないのでしょう。香織さんは、もう返事もしません。桜井さんから、ぷい、と視線をそらし、わたしを持ったまま部屋へ閉じこってしまいました。
わたしは驚きました。香織さんの部屋の中は、絵の具とカンバスと絵と本でいっぱいでした。たぶん香織さんが描きかけているのだと思われる絵が、机の上に置いてありました。とても、とても上手な絵に見えました。中学生の絵なんかには見えません。香織さんは天才なのではないかと思いました。でも、その絵に描かれたひまわりは、なぜか水色をしていました。
「しあわせのメガネなんて嘘を吐いてまで、絵を描かせたいのね」
香織さんは、自分で書いた絵の前に立って、カッターナイフを引き出しから取り出しました。わたしが、あっと思ったときには、絵は切り裂かれていました。
「絶対にメガネなんて使わない。お母さんなんて嫌いだ」
香織さんは、刃を戻したカッターナイフを放り投げ、ベッドに倒れこみました。けっきょくわたしはその日、一度も香織さんに使ってもらえませんでした。
「お母さんは、わたしを画家にしたいだけなんだ」
香織さんは、ベッドに寝転がりながら、そう呟きました。
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