vol.4

大統領の英断

  モエとは何か、大統領は重ねて尋ねる。
「それもまた非常に難しい質問です。萌えとは本来、草木が芽生えるという意味の言葉なのですが、オタクの使うモエは可愛いとか心惹かれるとか魅力的だとかの意味なのです」
「それなら普通にそう言えばいいじゃないか」
  既視感のよぎる問答だ。イライラしてきた。案の定、グレッグは大統領の言葉に承服しない。
「そうではありません。モエの精神はもっと微細かつ広汎なものなのです。モエはあまねく事象に入り込み、あらゆる事象を網羅します――」
  反感がじくじくと染み出してくる。かつてこれに似た経験をしたことがある。大袈裟な言い回し。気取った物腰。つまらないものをことさらに飾り立てる虚栄心。だが何だったか思い出せない。すぐそこまで出かかっているのに。
  大統領は違和感に気を取られ、グレッグの話も上の空だ。
「本来ならみすぼらしいとされるもの、一般的には不快と断ぜられるものの中にさえもモエは宿っているのです。そしてオタクたちがそのモエを見つけ出したとき、欠点はその欠点のゆえにさらにモエを際立たせ、オタクの心を魅惑するのです――」
  思い出した。大統領がまだ一介の学生ロバート・ウィリアムスだった頃、若者の間で精神世界の探求が大流行したことがあった。進歩的であると自認する若者たちはやたらと東洋の文化を有り難がっていたものである。タントラがどうのといっては不自然な呼吸を心掛けたり、ジャパニーズ・ゼンなどといって足を窮屈に組んだりしていたのだ。腐りかけた倒木をワビだのサビだのと言ってもてはやし、それを理解しない彼を未開の野蛮人のように冷笑した連中の眼差しは、澄まし顔でモエの精神を語るこの男にそっくりだった。
「――モエの精神は近代合理主義に囚われた我々には受け入れがたいものに思われます。しかし徐々にではありますが若い世代に浸透し――」
  その「進歩的」な連中はいまどうしている? ドラッグに溺れていなければまだましだ。一時間5ドルやそこらで人生を切り売りしたり、失業者手当てを求めて長蛇の列を作ったりしているんじゃないのか? そしてあのとき「救いがたい俗物」と陰口を利かれ、恥辱に肩を震わせた俺は誰だ? 合衆国大統領ロバート・ウィリアムスだ。世界の覇権を握っている超大国アメリカ合衆国の指導者だ。
「――それらは商業主義の中から生まれたものではなく、モエの精神を有したアマチュアたちが自らの意志で――」
FUUUUUUUUUUUUCKKK!!!
  悲鳴とも怒号ともつかない絶叫が室内に響き渡る。
「世迷い言もたいがいにしろ! 何がモエの精神だ、ごまかすんじゃない! 私が知らんとでも思ったのか、おい! じゃあアレは何だ? hentaiだよ、ジャパニーズ・ヘンタイのことだっ!」
  誰もが押し黙った会議室に大統領の荒い息遣いだけが響く。「話せるパパ」のイメージを目論んで、故意に染めずに放置している大統領の銀髪が乱れに乱れていた。
「――済まない」
  何ということだ、有権者の前で取り乱してしまうとは。わずかな時間で息を整え、蠕動する指はテーブルに押しつける。声が震えないことを祈って大統領は続けた。
「だが聞いてくれ、諸君。私は先日、あるきっかけでジャパニーズ・ヘンタイと呼ばれる画像を目にしてしまったのだ。そこに描かれた光景はあまりにも卑猥で冒涜的だった。私が今まで見たどんな悪夢よりも淫らでむごたらしい光景だったのだ。そしてこのようなものが平然と合衆国の少年少女の目に触れる場所にあるという事実に心底肝を冷やしたのだ。Mr.ノートン――」
  グレッグで結構です、と引きつった声が応える。
「グレッグ。君の語るオタク、モエの精神を有した彼らは鋭敏かつ繊細な美的感覚の持ち主ということだが、その彼らとヘンタイ画像には何か関係があるのか? それともヘンタイ画像の愛好家たちはオタクとは無関係の、ごく一部の異常性愛者なのか?」
  大統領の問いを受けたグレッグは、何度も躊躇する素振りを見せたのちにようやく重い口を開く。
「残念ですが大統領、オタクたちの多くはヘンタイ画像の愛好者であり、ヘンタイ画像を送り出している人間の大半はオタクです」
「おかしいじゃないか。オタクたちはモエの精神でもってアニメやコミックのキャラクターを愛し、崇拝しているのだろう? そんな彼らがなぜキャラクターを辱めるような真似をするのだ?」
  打ち沈んだ表情でグレッグは黙考する。そして悲壮な覚悟を滲ませて答えた。
「オタクといえども聖者ではないのです。魅惑的な女性に出会ったとき男性はこう思うはずです、『彼女とセックスしたい』と。欲望が高じればさらに過激なセックスを求めるでしょう。オタクも同じです。魅惑的なキャラクターに出会えば、モエの精神を刺激されると同時にやはり下心も唆されるのです。たとえるならモエの精神は恋愛感情であり、ヘンタイを求めるのは性欲衝動です。あくまでもプラトニックな立場を貫くモエ原理主義者もいるのですが、それはごくごく少数です」
  大統領は少なからずうろたえた。グレッグの比喩によってモエとヘンタイの関係は理解できたが、根本的なところでずれている。
「つまりアレか? オタクたちはあたかも生身の女を愛するようにアニメやコミックスのキャラクターを愛するのか?」
  今さら何を言っているのだ、とでも言いたげな表情でグレッグは頷く。
「もっとも大半のオタクは普通に恋もしますしセックスもします。ですが急進的な過激派オタクになると、もはや肉体をともなった生身の女性にはエロチシズムを感じなくなります。彼らはまあ、極左ヘンタイとでも言いましょうか。どちらが右か左かは意見の分かれるところですが」
  会議室のあちこちから驚きを孕んだ嘆声が洩れる。文化人類学の教授が独り合点に頷いて、古来よりアニミズム信仰の強かった日本人は物品にも生命が宿ると考える傾向がある、などと賢しらげに解説したが、そんな余所行きの話など聞きたくない。事態は想像以上に深刻なのだ。
  これは単にアメリカだけの問題ではない。地球人類の危機だ。もしオタク・ムーブメントがあまねく浸透し、結果、グレッグのいう極左ヘンタイが蔓延するようなことがあれば、もはや人類という種族は滅亡に瀕するだろう。なぜならアニメのキャラクターは懐妊もしないし出産もしない。数億の精子は子宮に受け止められることなく、クリネックスにくるまれてゴミ箱行きだ。
  大統領はそれほど敬虔なクリスチャンではなかったが、しかし心のどこかで頑なに信じているのである。セックスは子孫繁栄を目的とするものであり、快楽やエロチシズムは子孫繁栄という究極目標に勤しむ男女に与えられたご褒美に過ぎない、と。だから彼は同性愛者を忌み嫌っていた。それに較べれば近親相姦の方が受胎するだけまだましだとさえ思っている。そしてまたここにきて新たなる敵が現れた。極左ヘンタイとその予備軍であるモエの使徒オタクたちの存在である。
  聴聞会を解散した後も大統領の不安は消えなかった。中東情勢に手を焼き、徒党を組む欧州諸国を牽制し、得体の知れない中国をなだめすかす傍ら、大統領は一時たりともオタク文化の脅威を忘れはしなかった。こうしている間にもヘンタイポルノが子供たちを蝕んでいる。この人類の危機に対して自分は何ができるのか、アメリカ合衆国はどう振る舞うべきか。アメリカとは何なのか、合衆国とはいかなる存在なのか――。
  ある晴れた日の午後、大統領は久々の休日を庭の芝刈りに費やしていた。眠気を誘う春の陽射し、うっすらと汗ばんだ額を拭い、見上げた日輪のプリズムに彼は心を奪われる。まばゆい、あまりにもまばゆすぎる。まさに光、一点の曇りもない健やかさ。
  啓示は瞬時に訪れ、一瞬で全てを物語る。
「アメリカ文化とは健全さを表明する精神である」
  たとえ野暮といわれようがアメリカ人は健全であるべきだ。あざといと誹られようがわかりやすさを旨とすべきだ。健康的で明快で曖昧なものを容れない毅然とした態度、それこそがアメリカの精神であり、アメリカの正義とはつまりそういうことなのだ。
  身震いがした。これだと確信した。ロバート・ウィリアムスはついに拠るべき指針を見つけ出したのだ。
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