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Folio vol.5 mystery
aketi
illust:津守秋
明智小五郎の豊かな老後
オカヤマ

 そいつは結構、と二十面相はたばこの吸い殻を放り捨てる。
「じゃあせいぜい立派な先生でいることだな。子供が大人になるのはあっという間だ。身も心も、びっくりするくらいに成長する」
 言われなくてもわかっている。近頃小林少年の肉体がとみに変化しているのを明智ほど熟知した男はいない。だが心の内は以前のままだと信じたい。先生先生と慕い、憧憬の眼差しを向け続ける小林くんであって欲しい。
 だから明智小五郎はいつまでも名探偵として活躍せねばならない。何せ小林くんはまだ若い。それにひきかえ明智は人生の下り坂に足を踏み入れている。明智が輝きを失ったあとも、小林少年が自分を慕ってくれるとは限らない。悲しいことだが、人の気持ちは変わりやすい。とりわけ若者の心は気まぐれだ。
 だからこそ二十面相は捕まってはならない。明智小五郎が汚れた英雄だと知れてしまえば、小林少年の心も離れてしまうだろう。もしも――そうあって欲しいのだが――彼の愛が本物ならば、明智のもとに留まるかもしれない。しかし彼の瞳に映る明智小五郎は以前のそれではない。もはや尊敬の対象ではなく、同情を誘う中年男と映ることだろう。
 それには到底堪えられそうにない。
「何てことをしてしまったんだ、ボクは」
「いつまでも英雄でいられるわけがないさ。よくあることだ、気にするなよ。なあに、ホームズだって同じことをしたんだ。君だけが気に病むことはない」
「ホームズ氏が?」
 世界的に著名なシャーロック・ホームズ氏のことだろうか。宿敵モリアーティ教授との幾たびにわたる死闘。彼らの間に談合があったということか。
「ちょっと待て。確か最後は格闘の末、モリアーティ教授は滝に墜ちて死んだぞ。芝居でそこまでやるわけがない」
「芝居じゃないさ、話し合いが決裂したから殺したんだよ。ホームズが教授をね」
「そんな話が信じられるものか」
「私に言わせれば、永遠に追い駆けっこが続くなんてことのほうが不自然だと思うね。もちろん、君と私の間にもそれはいえる」
 どういうことだ、そう言おうとしたが喉で声が絡まった。
 視線で問いかける明智に二十面相は、
「前を見て運転しろよ。こんな状況で事故をしたら困るのは君だぞ」
 慌てて向き直る明智。
 二十面相はもう一本たばこを点ける。ひとくちめを深く吸い込み、長く煙を吐き出した。
「君がスターであるように、私もまたスターなんだよ、明智くん。飽きられる前に身を引きたい。できるだけ華やかな舞台で鮮やかに幕を引きたい、そう思う」
 明智は黙って聞いていた。
「だがまだ駄目だ。幾たびも幾たびもしのぎを削り合い、明智小五郎vs怪人二十面相が天下に並びないビッグカードになったその絶頂で舞台を去りたいんだ。だから君にも協力してもらいたい。未熟なままで終わるのも、老醜を晒して生きるのも、私は、イヤだ」
 甘い香りのたばこだった。二十面相の好みだろうか。それともたばこすらも彼の小道具のうちなのか。
「――ボクは、どうすればいい?」
「特に何も。今までどおり全力で私の計画を阻めばいい。私も全力で君と闘い、勝利を掴むつもりだ。だがもし今夜のように、私がみっともない事故で追い詰められたなら、そのときは見逃してくれないか。私にとっても君にとっても、こんな結末は相応しくないだろう」
 二人に相応しい結末。果たしてそれがどんなものか、いつやってくるのか、明智には全く想像がつかなかった。五年後、十年後、数十年後。もはや華麗な動きもできなくなった老人同士が互いに杖で小突き合う、そんな惨めな姿は願い下げだ。
 唐突に二十面相が訊く。
「明智くん、私の年齢はいくつくらいだと思うかい?」
 顔形はおろか、姿勢も、声も、動きですら偽る変装の名人二十面相の年齢を当てることなど不可能だ。
 そう答えると二十面相は若々しい声で笑う。
「嬉しいね。君の慧眼をもってすらわからないのなら、この世に私の変装を見破れる者など一人もいないのだろうね。でもね、自分だけはごまかせない。私は自分の老いをひしひしと感じている。今は何とかやっている。でもこの先はどうだろう」
 どう見ても三十路前の男が切実に老いを語る。その声音に若さが溢れているだけに、いっそう奇妙な感がある。
「そう遠いうちじゃない。いずれ二十面相は姿を消す。そのときまでは君に主役を譲ろう。私が主役になるのは最後の舞台だけだ。だから明智くん、今のうちにせいぜい稼いでおけ。富も、名誉も、何もかも、貪欲に掻き集めておくんだね。老いは君にもやってくる」
 隣に座る男がわからなくなった。わからないのはいつものことだが、今までとは全く異質のわからなさ。
 初めて明智は二十面相を恐怖した。
「――ボクも、やがて老いる」
「そう、君もいつか老いる。だから今のうちだ。今は名探偵を気取っているが、しょせんは自営業者だ。国民年金の給付は月六万円程度だよ。老後の蓄えは早いうちから始めたまえ」
「ぬすっとふぜいが説教か」
「金持ちの言葉は傾聴に値すると思うよ。実際私は金持ちだ。何といっても所得税を払ってないのが大きいからね」
 言うべきことは言った、というふうに二十面相は口をつぐむ。ときおり、曲がり角で指示を出すだけだ。明智はそれに唯々諾々と従う。
 車は街を抜け埠頭に出る。夜の海は黒々として、まるで重油のように見える。
 しばらく待った。
 星明かりを映す黒い水面が揺れる。音もたてず手漕ぎのボートが着岸し、闇に溶け込む黒っぽい服装をした男が二人、岸に上がる。
「ボス、お怪我ですか?」
「足をやった」
 答える二十面相の声は嗄れた老人のものだった。だがこれすらも偽装かもしれない。何一つ信用できるものなどない。
「こいつは?」
 訊かれて明智は背筋が凍る。幸い、夜目に紛れて顔を見られていないものの、宿敵明智小五郎と知れたら命はない。
 だが二十面相は、
「やばいところを助けてもらった。心配するな」
 部下に抱えられてボートに乗る二十面相。ボスの恩人に向けて、二人の男は奇妙な敬礼をした。
 静かに海水を漕ぎ出す。沖に船が停泊しているのだろう。
 まだ間に合う、明智の心が囁く。今すぐ警察に連絡し、即刻港湾を封鎖すれば二十面相とその部下は一網打尽だ。
 だが、そんな結末は相応しくない。
 見えなくなるまでボートを見送ると、明智は車に戻り、街へ引き返した。
 早く帰らねば小林くんが心配するに違いない。

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