Folio Vol.6 Horror

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blood

泥の中の沈黙

岡沢 秋

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緯度の低い国々では、一年の半分は暗闇に閉ざされる。低い太陽、冬の日は昇って直ぐに沈み、地の奥は太陽に暖められることを知らず、有史以来続く冷暗の時の中に留まっていた。

そこでは、気温が低いため、苔や葦など生物の体は、枯れた後も、完全には腐りきらない。

死んだ草木が染み出す水の中に静かに降り積もり、数千年、蓄積したものは、やがて、水分を多く含んだ底なしの沼地になる。澱んだ泥水は、すえたような独特の匂いを発する。

どろりとした灰色の沼に溜まる、植物の腐敗遺体を、泥炭と呼ぶ。

植物だけではない。人の遺体でさえ、そこでは時の流れから取り残された。

泥炭の沼は、その奥に、数多くの死者を抱くと言われた。迷い込んだ人や家畜は、泥に足をとられ、二度と浮かんでは来られない。

当然のごとく幽霊話に事欠かず、何十年も前にそこで行方知れずになったという娘の姿を見かけただとか、暗がりに青白い手が浮かぶのを見ただとか、まことしやかな噂が囁かれてきた。

だが、今は、二十一世紀の真っ只中。それも、夏の真っ盛りなのだ。

天高く、誇らしげに輝く陽の車は、夜を寄せ付けず、白夜となって天の縁を巡る。

澄み切った空の下、乾いた風の中で、くすんだ色の葉を散らす針葉樹の奥に、黄色いブルドーザーの首が見え隠れしていた。重い機械の軋む不愉快な音が、郊外の林にわだかまる静けさを揺らし、追い払う。

「オーライ、オーライ。もっと右だ、そう。そこを掘り起こしてくれ」

頭にヘルメットをつけた操舵手は、大柄な髭面の男の指揮どおり、機械を操っていた。掘り起こされた山のような泥が、次々とトラックに積み込まれ、泥炭を肥料に変える工場へと運び去って行く。

何千年も昔から泥炭降り積もり、広大な面積を持つ、その沼は、工事現場になっていた。

ここが喧騒に包まれるのは、有史以来はじめてというわけではない。千と五百年ほど昔には、獣の皮で作ったズボンを履いた野蛮なゲルマン人の群れが、北からけたたましく渡って行ったし、それから何百年か後には、きらめく甲冑をつけて背の高い馬に乗った騎士たちが、南から勇んで通り過ぎていった。沼はそのどちらの時も、静けさを乱した者たちのうち不注意な何人かを密やかに絡めとり、自らの取得物として臓腑の中に沈めた。

林を切り開き、道が通って町が出来る。沼は掘り起こされ、硬い土を盛って、住宅地へと変わるのだ。かつて人々を恐れさせた沼地の伝説も、その沼地自体も、迫り来る都会化の波には逆らえず、一つ、また一つと、この地方から姿を消しつつあった。

「おい、ありゃあ何だい」

一人の男が、たった今、ショベルカーの掬い上げた、一掴みの泥をさした。中から、真っ黒な、人の腕のようなものが突き出している。

「死体だ!」

誰かが、喉から搾り出すように叫んだ。息を呑むような音を立て、若い作業員たちが振り返る。しん、と静まり返る一瞬。

だが、現場を取り仕切る髭面の男は、驚きもせず、またか、というように眉を顰めただけだった。

「見てないで仕事にもどれ。ありゃあ何でもない」

「何でもない、って。親方。人の死体が出たンすよ」

「ボッグマン<沼地の男>だ。知らないのか? この辺りじゃ、よく見る代物だぜ。」

きょとん、としている作業員を見て、男は、フンと鼻を鳴らした。

「ここらの沼は死体だらけだって、昔から有名な話さ。こんな沼ん中じゃあ、死体はなかなか腐らない。腐らないから、何百年でも、何千年でも、ああして不気味に残っちまう。そんだけの話よ」

「じゃぁ、殺人か何かじゃないんで?」

もう一人の、別な男が、若い男の肩を叩きながら、笑って言った。

「何百年前の死体だか分からねぇんだ。殺しだったとしても、もう、とっくに時効よ。なに、そのうちに慣れる。ここらの工事現場じゃ、どこも同じようなもんさ。酷いとこだと、一日に百も死体が出てくることもある」

言われてみれば、確かに、現代人とはずいぶん顔立ちが違っていた。

出てきたその死体は半ばミイラ化して、服もつけていなかった。骨が溶け、皮だけになって、グロテスクによじれたそれは、腐った木の残骸か、魚の干物と言われても信用してしまいそうだ。

古代人の死体と分かれば、怖いものなど何も無い。若い作業員たちは現金なもので、気味悪がるそぶりを見せながらも、眼だけは興味津々に輝かせて、死体を眺めていた。

「親方。こういうのは、学者に引き渡さなくていいんですかい。」
一人が尋ねた。

「そんな必要は無ぇよ。たかが大昔の死体、昔は物珍しがって研究されてたらしいがな、今じゃ、どんな酔狂な学者だって、引取りやしないさ。あまりに数が多すぎて、な。」

「若い娘の死体なら、ともかく、なぁ」

冗談交じりに言って、誰かがゲラゲラと笑った。

「そう、いつだっけか。娘の死体も、出たことがあるのさ。学者先生が引き取っていって、骨から顔を作ったそうだ。なんでも、生前は、たいそう綺麗な娘だったという話だがね。こんなになっちまっちゃ、わしら生きとるもんには、娘も婆ぁも区別がつかん。」

「まったくだな。これじゃあ、どんなに不自由してても、そそられん」

そうして、また、ひとしきり場が湧いた。

「―ーほうら。また、出たぞ。」
別なショベルカーが、先っぽに引っ掛けた人の上半身らしきものを、ぼとりと沼のふちに落とし、ちょうど近くにいた男が、撥ねる泥に驚いて、悲鳴を上げて飛びのいた。既に眼球は腐り落ち、からっぽになった眼窩に、泥が溜まっててらてらと光っている。

沼の中には、驚くほど数多くの死体が埋もれていた。

時の流れから取り残された哀れな者たちの残骸はみな、長い年月のうちに黒ずみ、よじれ、水の中であるのに自らの水分を失って、乾ききった干物のようになっている。明らかに人と分かるものもあれば、馬や、家畜と思しきものもあった。

それらが、迷い込んで泥に足をとられて死んだものか、殺されて捨てられたものかは、神のみぞ知る。よしんば殺人だったとしても、既に証拠も、下手人も、どこかの土の下だ。

慣れた地元出の年寄りたちが顔色一つ変えず、泥の中から死体を引きずり出す。泥炭は、乾かして肥料として農家に売りに出す。人の死体は、商品に混入する異物なのだ。

そんな、うんざりするような作業が黙々と、どれほど続けられただろうか。

禿げ頭の男は溜息をつき、陽射しに照らされた沼を恨めしそうに睨むと、汗を拭った。気温が上がると、沼からは、溶け込んだ苔と死体の腐臭で、なんとも言われぬ臭いを漂わせる。

「こんなにとこに建てられた家に棲もうなんて連中は、頭がおかしいか、どこか、まともじゃないんだろうて」

「言わなきゃ分からねえだろうよ、死体はわしらが跡形も無く片付けちまうんだから。何しろ、ここいらは地代が安いからな」

じっとりと、肌に汗が滲んでいた。それとともに、安穏とした泥の眠りから無理やり引きずり出された死者の黒ずんだ肌にも、好ましからざる変化が見え始めていた。

しまいに、男は、現場に向かって怒鳴った。

「おい、休憩だ! 皆、死体をとっとと片付けちまえ。それから飯にするぞ」
男たちは、汗を拭い、引き上げられた食欲を失わせる元凶、黒ずんだ死体を、恨めしそうに見下ろしながら、疲れた口調で呟いた。

「こんな死体だらけの場所で飯が食えるかよ。おまけに、酷い臭いだ」

「そう言うな。嫌なら林を抜けて、道端で食って来いよ。沼の天然ガスと、重車両の排ガスと、どっちの匂いがマシだ?」

「体には悪かろうが、車のガスのほうが、ニオイの正体が分かってるぶんはマシだろうよ。」
現場から引き上げようと、したときだ。

一人が、異質なものに眼を留めて、びくりと足を止めた。ほっそりとした女の陰が、木々の間にに、控えめに立っているのを見たのだった。

一瞬、沼から抜け出た青白い幽霊かと思われた。

だが、今は明るい真昼間だ。生きた、生身の女だろう。それにしても、こんな場所には似つかわしくない、うら若い女だった。きつく結んだおさげ髪は赤っぽい金で、妙になまめかしく、肩に揺れていた。

「誰です、あれ」
男は、側に居た年配の男に尋ねた。

「現場監督のカノジョさ。町に住んでる。ここの開拓が終わったら、家たてて一緒に住むんだと」

「へえ、やるじゃないですか。あの人がね。しかし、それにしちゃ若い」

「そりゃ囲い女みたいなもんだからさ。月の稼ぎを、ほとんど、あの女に貢いでるって話さ。」
そんな噂も、ここでは良くあることなのだった。遠方から出稼ぎにやってきた作業員が多い、この地方では、寂しさを紛らすために、近場の町で女を漁ることも少なくない。

そして、死体処理という忌まわしい作業も含む、この地方の開拓事業は、べらぼうに給金が弾むと知る女たちも、金目当てで、沼の死臭の染み付いた男たちに愛想良く振舞った。そして、男たちが金を使い果たし、貢ことが出来なくなると、あっさり去ってゆくのだった。よくある話だった。

沼地に現れた女も、そんな娼婦たちの一人だったのかもしれないが、ほんとうのところは、誰にも分かりはしなかった。髭面の男はそそくさと、藪を掻き分けて女の後を追い、二人は暗い木立の奥へ消えていった。

じっとりと、肌に絡みつく汗の上を、林の奥から吹き付ける冷たい風が撫でて、作業員たちは肩を竦めた。林の中には、数多くの黒い沼が点在する。