Folio Vol.6 Horror

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虫 イメージ
blood

ぱそ子

引っ越してからもう一ヶ月が経つというのに、部屋の中は一向に片付かない。8帖フローリング1DKのこの部屋は、未だ開封されていない段ボール箱たちと取りあえず配置された家具たちに占拠されて、8帖どころか5帖もない狭さ。あたしは、新居を我が物顔に占領している未開封の段ボール箱たちを眺め、溜め息をつく。一体あの中には何が入っているのだろう。今、何一つ不自由もなくあたしが生活できているということは、あの箱の中にあるのは、あたしが生活をしていく上で全く必要ないものなのだ。しかも何が入っているか思い出せないなんて、大事なものが入っているわけじゃない。必要がないのにわざわざダンボールに詰めて新居まで持って来られた何か。一体わたしは何を持ってきてしまったのだろう。あー、やだやだ。想像するだけでうんざり。しかもそれを新居で開封するなんて作業耐えられない。中が何か確かめたくもない。

あたしがぐずぐずとそれらのダンボール箱に手をつけないまま放っているうちに、猫のヒュウは箱の一つを自分の定位置に決めて、その上で丸まって寝るようになっていた。確かに、運び込まれたその日から一ミリだって動かされていないその箱は、変化を嫌う猫にはぴったりのベッドだった。ヒュウちゃんのベッドだから片づけたくても片づけるわけにいかないもんね、あたしはダンボール箱の前に座って、ヒュウに話しかけながら彼の耳と耳の間を指で掻く。ヒュウは片耳をぺたんと倒して反応したが、頭を持ち上げることも喉を鳴らすこともしない。そういえば、ここ最近ヒュウの元気がない。元気がないのは引越しのせいだとばかり思っていたけれど、引越しをしたのは一ヶ月も前だ。さすがに様子がおかしい。寝ているヒュウから台所に視線を移す。台所に置いてあるヒュウのご飯皿のキャットフードは、口をつけた気配がなかった。昨日からヒュウは、キャットフードを食べず、水ばかり飲んでいる。いつもに増して寝てばかりいる。あたしは時計を見上げる。午前1時だった。ヒュウには朝まで、もう少し辛抱してもらって、明日獣医さんのところへ連れて行こう。

ぐったりと寝ているヒュウの背中を撫でようとして、ふと手を止めた。ヒュウの体の上を、一匹のが歩いていた。ノミ? いや、ノミではない。アリくらいの大きさの羽根のない茶色い虫だ。ヒュウは虫に気づいていないようだ。あたしは、その虫を何気なく指で摘み上げ、人差し指と親指の腹で押し潰した。指の力を緩めると、虫は指の隙間から逃げようもがいている。確かに潰したつもりなのに。今度は力を込めてぐりぐりとすりつぶす。人差し指を持ち上げると、もう虫だったとは分からない、茶色い団子が親指の腹に現れた。あたしはほんの少し罪の意識と後味の悪さを感じながら、その団子を眺めていた。そのとき、ひくひくと団子の先が動いた。団子は次第にほつれて行き、元の虫の形になると床の上に落ちた。虫は足を引きずりながら逃げて行く。気味が悪い。あたしは手を石鹸で洗って、虫の存在を頭から追い払うと、ヒュウを撫でてベッドに潜り込んだ。明日は朝一番に動物病院にヒュウを連れて行こう。

溺れる夢、もがいてももがいても浮上できない。息ができない。体が言うことをきかない。手足が動かない。もう、もがくことすらできない。肺の中に水が流れ込んで、体ががくりと痙攣して目が覚めた。手を伸ばしてベッドの横の置き時計を確かめる。まだ午前3時だった。

生理のときはいつも眠りが短い。夜中に何度も目が覚める。月が明るいのか、部屋の中は電気をつけなくても何がどこにあるのか大体分かった。薄暗がりの中、ベッドからそっと降りて、ダンボール箱の上で眠っているヒュウを起こさないように静かにトイレに向かう。お腹がしくしくと痛む。ナプキンを交換して、古いナプキンを捨てようとトイレポットを開けたその瞬間、あたしは声にならない悲鳴をあげた。トイレポットの中に茶色く動くものがあったのだ。さっきの虫だ。数匹ナプキンのにたかっているのだった。あたしは手に持っていたナプキンを丸めて押し込むと素早くふたをした。気持ち悪い。明日殺虫剤を買って来よう。お腹が痛い。薬を飲むために台所へ向かう。

台所の電気をつけた途端、あたしは気を失いそうになった。白い壁に茶色の筋ができて動いている。あの茶色い虫が長い長い行列を作っているのだ。虫の行列は台所の三角コーナーに捨てられた何かに向かっている。その何かは茶色の虫に覆い尽くされているが、虫の隙間から赤黒い色が見えた。肉だ。調理中に落としてしまって、三角コーナーに捨てた豚肉の切れ端だった。生理の血にたかり、残飯の肉にたかる。こいつらは肉食の虫なのだ。行列は次々と目的地に到達し、肉どころか三角コーナーすべてみるみるうちに虫に覆われていく。あたしは体中に鳥肌が立つのを感じる。胃の中がざわざわする。でも目を逸らすことができない。虫の行列には、さっき見た小さな虫に混じって、腹の大きい羽根を持った虫が数十匹に一匹くらいの割合で混じっていた。白い壁が茶色の筋で汚される。後から後から虫は涌き出てきて行列は永遠に続くようだ。ここはマンションの5階なのに。一体どこからこの行列が出てきているのだろう。行列はさっきよりも太くなっている。こんな部屋、ひどすぎる。

あたしは泣きながらマンションの管理会社に電話をする。何度も鳴らしてようやく電話に出た男は、眠そうな声で「はあ、ですか」と言った。「状況はわかりましたが、こんな時間じゃどうすることもできないので、また明日の朝伺います」

何が24時間管理体制だ。あたしは腹を立てて電話を切った。朝まで台所に近づかなけりゃいいんだ。薬を飲むどころじゃなくなった。しくしくと痛むお腹を抱えながらベッドに潜り込むと掛け布団を頭まで被って朝を待った。

ようやく訪れた朝、あたしを出迎えたのは管理会社の人ではなくヒュウの死体だった。死体は一面茶色ので覆われていた。ヒュウが死んだ。死んだヒュウをやつらが食べている。嫌だ、やめてよ。ひどいよ。あたしはそのまま意識を失った。

気がつくと病院のベッドの上だった。看護士さんがあたしを覗き込んで、もう大丈夫ですよと笑った。「管理会社の人が救急車を呼んでくれたんです。あのマンションは害駆除の一斉消毒をするそうですよ。もうこれで大丈夫です」

看護士さんはそれから、怖かったでしょう? とあたしの髪の毛を撫でてくれた。あたしは安堵のせいか泣き出してしまった。

「ゆっくり休んでいいのよ。何かあったらそこのボタンで呼んでくれたらいいから」

彼女が去っていく。一人になったあたしはヒュウが死んだことを思い出してもう一度泣いた。管理会社の人はヒュウをどうしただろうか。で覆われていた、かわいそうなヒュウ。思い出すと狂いそうになる。でも、病院でいつまでも泣いていたらさっきの優しい看護士さんに心配を掛けるだけだ。

姿勢を変えて耳を枕につけて横向きになる。そのとき、あのが白いシーツの上を歩いているのが見えた。なんでここに? 横向きになったせいか、息が苦しくなって咳き込んだ。咳とともに、大量の虫が口から飛び出る。一体これは何だろう? 息苦しくて歯を食いしばると口の中に刺すような苦味が広がった。苦しい。息ができない。溺れる。喉の奥で何かが動いている。しんと音のない病室にしゃくしゃくという咀嚼音が聞こえた。音は外ではなくあたしの体の中から聞こえている。考えを整理したいけれど、頭がぼんやりとしてうまく働かない。吐き気と眩暈で頭がぐるぐるする。。あの虫たちは死んだヒュウを食べてただけじゃなかったんだ。あの虫たちはヒュウの中で増えてヒュウの体を食い破って出てきたんだ。そして、次はあたしを住みかに選んだんだ。誰かに話さなきゃいけないのに、声が出ない。手足がしびれて動けない。脳にまで入り込んでいるのだろうか。早く誰かに知らせないと、今度は病院がこのに食べられてしまう。体中がに埋め尽くされる。病院中がこのに埋め尽くされる。誰かに伝えないと。 誰かに伝えないと。早く。誰か。でもあたしの意識はそのまま遠のいていった。そしてあたしもヒュウのようにに食い破られ死んでいくのだろう。早く。誰か。でもあたしの意識はそのまま遠のいていった。そしてあたしもヒュウのように虫に食い破られ死んでいくのだろう。


<了>