Folio Vol.6 Horror

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blood

鈴蘭

曠野反次郎

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背の高いブロック塀がどこからどこまでも延々と続いていた。その奥には病院だか学校だか知れない黒々とした大きな建物が立っていて、懸命にそれが何であったか思い出そうとするのだが、どうした訳かまるで思い出せない。

突然にブロック塀が途切れると暗く冷たい土手に突き当たった。こんなところに川はなかったはずだと思うのだがやはりはっきりとしない。

少しは眺望が利くかもしれないと土手をあがった。夕暮れに染まる町を振り返ってみると、いくつも見覚えもある建物を見つけることができて、少しほっとする。風にのって急行列車が駅を抜ける音が聞こえて来た。

しばらくぼんやり土手を歩いていると、少年だった頃、父に連れられてこの辺りまで釣りに来たことがあったように思えてきた。その帰り道にピアノ教室を終えた姉と偶々一緒になった記憶があるから、まだ私が七つくらいの時のはずだ。二歳年上の姉は私が八つの時に死んでしまった。

不意に土手の下の草原が揺れて、何か大きく白っぽいものがすばやく這うようにして土手を上がって来た。それは、私から少し離れたところまですっかり上がってくると、こちらを向いた。夕日を背に黒いシルエットとなったそれはどこか不自然な四つん這いの恰好で、大きく見開いた円盤みたい目だけがいやに白く爛々と輝いていた。私はあまりの恐ろしさに悲鳴を上げることも出来ずその場に立ちすくんでしまった。我にかえった時にはそれはもう何処に行ってしまっていた。風が吹きつけ、小さなくしゃみを一つした。それでようやく体が汗でぐっしょり濡れてしまっていることに気がついた。鈴の音か何かの音が風に流れて聞こえた気がして、私は何故だかもう一度身震いをした。

家に帰る頃にはすっかり日が暮れてしまっていて、門灯がぼんやりと燈っていた。扉を開けると妻が居間から力なく出てきて廊下にへたり込むと、私の顔を見上げ、搾り出すように言った。

「あなた、お母様が……」


私は途端に何もかも全て解った気がした。

  ※※

去年の暮れから入院していた母を見舞った帰りのことだった。結婚しようと思っている女がいることを、私はその日も言いそびれた。

母は私が子どもの頃から身体が弱く、入院することもよくあることだったので、病床の母に報告するのが躊躇われたのではない。それはつまりは私自身の不安で、彼女のような出来すぎた女が私の女房になるなんて何かひどく不釣合いな気がして気後れしているのだ。また、それとは別に何か得体の知れないもやもやとしたものが胸の奥にあって、そちらの方の正体は何だかまるで解らない。

改札を抜けると家とには戻らず女のアパートの方へと向かった。今日は彼女が何か美味いものを食べさせてくれる約束になっていた。夕食前の活気がまだわずかに残る商店街を抜けると、彼女のアパートの手前にある橋の袂まで来た。その橋の真中辺りに誰かが突っ立っていて、その誰かは、何か一抱えくらいある紙袋を抱いていて、ぞっとするような笑みを浮かべると、紙袋を川へと落とした。私はよく解らない嫌な気持ちがした。その誰かは彼女に他ならなかった。間もなく彼女の方がこちらに気づいて、手を降りながらやってくると「あんまり遅いから迎えに来たのよ。どうしたのそんなところに突っ立って」と何事もなかったように言った。私は何でもないんだと軽く首を振って彼女の手を握った。何故だかその手は普段よりも暖かいように思えた。

その晩は彼女のアパートには泊まらず家へと帰った。家に戻ると父が待ちかまえていて、植えて一年も経っていないいちじくの木が急に枯れてしまったから明日引っこ抜いておいてくれという。私は不精ながら承知し、はて、なんでいちじくなんて植わっていたのだろうと思うも思い出せなかった。確か父親が何かの記念に植えたのではなかったろうか。

いちじくは漢字では無花果と書く、まるで花が咲かず実だけなる木のように思えるが、実はその果実は花の集まりの袋で、その中に詰まっている小さな種が花なのだという。庭に植わっていたいちじくはまだその花を一度もつけていない低木で、引っこ抜く時にポキリと折れてしまうほど細かった。白い乳液を流した幹は中が空洞になっていて、何かよくわからない小さな虫がゾロゾロと出てきて、思わず手を離してしまった。私はシャベルを突き刺し突き刺しして、幹をいくつかに折ると、いちじくが植わっていた辺りに穴を掘って埋めてしまうことにした。

いくらか掘り進むと、掘り起こした土の中に何か白いものが混じっているのに気がついた。取り出して見てみるとそれは小さな骨の欠片だった。背中を怖気が走り抜けたが、それは人の骨ではなくて、何か小動物の骨のように思え、丁寧に掘り進めて骨を集めてみれば、それはどうやら犬か猫の骨のようだった。

病気がちだった母の身体に障るからと、昔から我が家には犬も猫もいなかったはずで、私は何故だかひどく恐ろしい気がした。

 ※※

馴染みの床屋で髪を切っていた。

整髪料やシェービング・クリームのにおいがふわりふわりと漂う中、私はいつもそうするように目を閉じて、床屋の主人と話をしていた。

「そういえば奥さんのご病気の方はよくなりましたか」
「いや、うちの奥さんは元気だよ。病気なのは母親の方で、これはまあ昔からだから、良くも悪くも今更なりはしなくてね」
「はあ、そうでしたか」
「そうだよ。勝手にうちの奥さんまで病気にして貰っちゃ困る」
「確か、お母様は亡くなったものだとばかり思っておりまして」
「何を言ってるんだい。それこそそんな可笑しなことを言って貰っては困るよ。縁起でもない」
「はあ、そうでしたか。わたくし確か暮れの寒い時期にご焼香さしあげたような気がしていたのですが」
「暮れという僕の姉貴がそうだったかな。でもそれだったら随分と前の話だよ。なにせ僕がまだ子どもだった頃の話だから」
「はあ、そうでしたか」
「もしかして誰か違う人と間違ってるんじゃないかい」
「いやそんなはずはありませんよ。まだ耄碌する年じゃありませんしね。お客さんこそご自分を誰か違う人と間違われてるんじゃないんですか」

私はそう言われてはっと目を開けた。床屋の主人は先程からまるで変わらぬ軽く整ったリズムで鋏を動かしていた。

目の前のガラスに映った自分はまるで見知らぬ人のように見えた。

「どうですか」

鋏をとめて床屋の主人が言った。

私は何も答えられず、鏡に映りこんだ床屋の主人のまるで能面のような顔をぼんやりと見つめた。

  ※※