本文目次など
one hundred years

元日の青

添野 慎太郎

 さと子が住み込みで働くようになってすでに一年半が経つ。夏から紅葉時までの繁忙期限りの条件で雇った女中の一人なのだが、清一郎がこの女だけを引きとめたのには訳がある。まずこの女の足に惚れたのがその理由の一つ。そしてこの女の肌を刺ってみたいという願望がもう一つ。
 山々に囲まれ一筋の川が流れる温泉街の寂れた旅館の若旦那で知れ渡っている清一郎には代々伝わる刺青師の血が滾っており、それは人知れぬ彼のもう一つの顔であった。しかし刺青を肌に踊らせる者など、江戸時代じゃあるまいし、今ではヤクザ相手の商売だと勘繰るのが当然なのだが、彼がヤクザに絵の具を注いだことなど一度もないのである。
 時代というものは時代していく分、変化を為していくものなのだろうが、たかが通信体系と情報量とその速度やらなんやら程度のもので、この旅館だってさまざまな通信手段であらゆる部分的な世界へ通じることが容易とされてはいるが、この商売だけは変らないものだ。時代は激変を遂げても、変わり者は美女に多い、ことは変らず。
 ―光輝ある美女を得て、己の魂を刺り込むこと― 
 さと子がそれを満たす女であることには違いない。

 梅雨が明けるか明けないか、まだ肌に粘つく大気が残り、浮腫んだ暑さが不快に感じてくる頃になると、住み込みで雇った女たちが続々と入館してき、館内は連日新たな空気に包まれ、それなりに活気に満ち溢れていく。宿泊客はこの女たちにのせられつられ、そして宴をより派手に続けてもらえれば旅館は今年も安泰。この不景気に宿代を吊り上げては客など入らない。入ったとしても、旅館を出た小さな歓楽街へと遊びに行くに決まっているのである。だから客を旅館から出さないよう宿代をおさえて、女中の能力によって客が銭を、ここに、落としてくれる努力を怠らない。台所の仕事から旅館業務のなにからなにまでを一週間で徹底的に教育する。毎年、その徹底教育により雇った女たちは半分に減る。簡単に説明すると、胸や尻を触られるくらいで、表情に少しでも嫌悪を表すような女はここでは勤まらない、ということだ。
 そんな旅館の景気よりも清一郎にとっては、ここ数年の苦悩があり、背中を刺られるために宿泊する女が現れても満足に刺ることができないでいる。遠方から高額な銭を握りしめて遥々訪れてくるのはいいが、刺青は芸術である、という認識が足りなく、大袈裟に言えば命を懸けて刺られるような女がいない。背中に芸術を背負うということは如何なるものか。身体の一部分の装飾などではない。己の全てを集約した「美」である。だからこそ背中に刺青を背負った女は芸術でなければいけない。しかし下世話なものである。金で美を買う意識しか感じられないのだ。先代が生きていた頃、まだ清一郎が刺り方を学んでいた時分はこうではなかった。なにより刺青を背負う女の方に器があった。先代の技術を習得するために行灯と屏風だけの六畳一間を覗き見れば、女には悲鳴と涙、刺青師には快楽と汗があり、それは凄まじい「美」への情念の戦いであった。そしてようやく刺り終わった先代の無精髭は何もかもが満たされた悦が勇ましく、そして屏風の下で背中を冷す女の肢体は妖艶かつ色鮮やかに陽を迎え入れており、うつ伏せの瞳が、今まさに生まれ変わっていくことを望んでいるように、気品を増していた。
 そういった刺りを清一郎も味わってはきている。しかしながら女の質がここ数年変ったのか、いくら光輝な女であっても、女と刺青師との魂のぶつかりあいの結晶、「美」の創造がない。
 真夜中、清一郎がなんとなしにそう嘆きながら風呂に浸かっていると、脱衣所の方から物音がし、こんな夜中に一体どんな客か、と訝っていると、湯気の中から白い肢が伸びている。女だった。髪を一つに纏めて首筋を見せ、シャワーを浴び始めている。女はこちらには一向に気づいていない様子で、清一郎は唾を飲み込み、女が身体を洗っている様を眺めていた。女中の一人があやまって男風呂に入ってきたことは瞭然であり、しかしながらこんな場所で叱咤することにも気が咎め、清一郎はそのまま湯に浸かっていた。気が咎めるというよりも、単に言葉を発することができなかったのかもしれない。膝を畳み静かに身体を洗い流すその女の肢体から、どこか容易く言葉を掛けられぬような漂いを感じとっていたのかもしれない。
 気づかぬうちに清一郎はその女の足に目が釘付けになっていた。洗い場の椅子を使わず、片方の膝を折り床に付けている。遮る湯けむりの乳白の隙間からは、伸びたアキレス腱、踵、踝、そして小指にいたるまでの華奢な直線と、節々の壊れそうな白い曲線が、現れては消え、また現れる、といった具合にもどかしく映っていた。清一郎は息を殺し湯の音をたてずに目元を濡らした。
 女の容態、仕草は、なんともいえぬ気持を掻きたててくるもので、加えて足を爪先立ちにして濡れゆく女の身体からは、凛としたこの女の芯の強さが感じられ、項から背骨、尻、脹脛、と麗しく白が溢れ流れていた。この宿に、このような魅力を持った女を雇った覚えなどなく、はて誰なのか、と己の内のどこかで期していると、洗いを終えた女が唐突に振り返り、胸を開いて歩み寄ってくる。表情が見えずともこちらを凝視していることは気配で悟り、なにも臆することなく堂々と足を進めてくる女の姿に瞳を奪われたままでいると、まるでこちらがあやまって女湯に入ったのかと思うほど、罰悪く胸が抓まれた気持になり、しかしながらこの女の乳房の程よい潤沢を前にして、清一郎はその柔らかに濡れた白色から目を離せることはなかった。
 女の右足が湯に浸かる瞬間、清一郎はその爪先までのしなやかさに異様な高ぶりを覚えた。女が、女中のさと子であったことよりも、手拭いで添えているその奥の陰毛が濡れ滴って見え隠れしていることよりも、その足になにより驚愕し興奮した。
「若旦那様、隣に浸かってもよろしいですか?」
 さと子がこのように大胆な本性を持ち合わせた女だとは思わなかった。したたかな女である。清一郎が目も合わせず黙しているとさと子が続けた。
「すいません、若旦那様。わたくし、どう間違えたのか、男湯に入ってきてしまい、疲れなのでしょうか? こんなことして、もしここに浸かっているのが、お客様だったことを思うと、あぁ、若旦那様であったことに、不幸中の幸いだったとでも申しましょうか、本当に申し訳ございません」
 さと子は指で項を濡らし、上気した顔で物悲しく湯に視線を落としている。頬に汗を滲ませながらも、そんな横顔が飄々とどこか涼しげに感じる。そしてこの女のことをずいぶん昔から知っているように思わせた。
「君、だったのか」
「はい。さと子、でございます」
「うん。よくやってくれていることは聞いているよ。今期雇った女中のなかでも一番良く働くと聞いている」
「そんな、でも、こうして間違って男湯に入ってくるなんて失格です」
「違う!」
 清一郎は湯の表面に浮いた塵を鋤くって、湯ごと外へ出した。勢いよく湯が飛び、さと子の上体にまで跳ねた。さと子は顔だけを仰け反らせていた。透けた湯にさと子の足が見える。湯の波皺に揺れて見えるそれは清一郎の心を乱すに十分であった。唐突に狂おしくなり、その足に触れ、掴み、頬擦りをしたい衝動に駆られた。
「わ、若旦那……さま、なにが違うのですか?」
 さと子は飄々とした横顔を曇らせた。清一郎に小さな快感が落ちた。この女が豹変した清一郎に怯え慄いている姿がいとおしかった。
「君は知っていたね。僕が入っていたことを予め知っていたね? なぜそんなことをする?」清一郎は低音でそう言ってから、身体の深いところに蟠っていた息を吐き出した。
 さと子は黙ってこちらに顔を向けた。先ほどまでの涼しげな印象は崩れている。目の縁から鼻筋にかけて汗を滴らせていた。清一郎はゆっくりと視線を女に向けた。舐めまわすかのようにさと子の白く丸い肩、乳房、腹、腰、腿、脛、を眺めていった。
「……、いや、知りませ、」「んでした……、若旦那様がここに、いるなんてことは……」
 女はひどく狼狽を露わにしてそう言った。
「まぁ、いい、それはもういい。ところで君は、いくつだ?」
「あ、は、はい……。今年で、三十二になります」
「ほう。ここを出たら、どうするんだ? 次の職のあてはあるのかな?」「あっ、君みたいな綺麗な女は探さんでも、次から次と職が寄ってくるのか、すまん、すまん」
「いえ。そんな、次のあてなんて、そうそうある世の中じゃないので」
「ほお、それじゃ、どうだね、もう少しここで働くかい?」
「は?」
 さと子の顔面からより濃度のある汗が溢れてきている。
「君が決めなさい、今」
「いま?」
「そう、あと一年、二年、ここで働くか、いますぐ辞めるか」
 女は額から滴る汗を中指で拭い、そして乳房を隠すようにその手を肩に置き、自分の前で交差させた腕に唇をつけ暫し瞳を閉じた。
「働きます。お言葉ですが、条件は? 今と変らぬ条件ですか?」
「ふん。今より二割は多くなるが、仕事も二割多くなる、そう思っていろ。しかしそんなものが目的ではないだろう? 君は僕に、
刺られにきたんだろ? 素直にそう言ってみろ。刺られたい、と」
「……、ホラレ?」
「そう、君は僕に刺青を刺られるんだ」

 清一郎は湯から上がった。そして長い間湯に浸かっていた身体を床に横たわらせた。仰向けに寝転びそして女を手招きするようにして右手を天井に向かって伸ばした。さと子がこの裸体を凝視しているであろう。斑模様に赤く変色したこの裸体を、女は刺られる時がくるまで忘れることはできぬだろう。
「なにをしている! はやく水をかけろ!」
「は、はい、若旦那様」
 さと子はいそいそと湯から上がり桶に水を汲んでき、清一郎の真上に立った。白い裸体が躊躇いながら震えている。
「いいからどこでも好きなところに水をかけろ!」
 女は赤くふやけた清一郎の性器に勢いよく水をかけた。その瞬間、清一郎はさと子の足首を力の限り掴んだ。そして浴びせられた冷水により、身体の中心から引き締まる身と心をもって、強くその女の足首を引っかいた。すぐに血が滲み、足首から足の甲へと女の白肌を滴り冷水に混じって流れ消えた。清一郎は失笑して女を見上げた。さと子は眼光鋭く睨みつけ、それは今まさに男を喰おうとしている眼であった。

 男湯でのその出来事から一年半が経った。
 未だ清一郎の密かな宿願は成就してはいない元日の朝、二階の部屋の障子を開け放ち、欄干に両腕ついて凭れ、欠伸をしながら空を仰いだ。西に輪郭のはっきりとした力のある雲が此見よがしに在り、南の近い場所には柔らかくぼやけた雲が浮遊していた。南の空、こっちの雲が好きだ、と清一郎は呟き、一服火をつけ青一面の東の空に向かって煙を吐いた。煙は久しぶりの晴れ渡る大気に戸惑ったのか、漂う方向を探すように清一郎の真正面で混和していった。ふと、視線を外せば、中庭の残り雪が強い陽射しに溶けて芝生の緑を濃くしていた。雪は一昨日降った。潔く降り続け、昨日の昼で止んだ。そして元日のこの快晴。

なんとなく 今年は好事 あるごとし 元日の空 晴れて風なし

 という啄木の一句を詠んで独りはにかみ、また煙を吐いた。そして今日、刺るしかない、という閃きと決意が清一郎に流れる血を滾らせ始めた。

 清一郎は朝食を運んできた女中の一人にさと子を部屋に呼ぶように伝えた。部屋の障子を閉め、間仕切りを閉て切り、刺青の道具を用意し始めた。しばらくしてさと子がやってくると、清一郎は茶を入れてやった。茶を啜りながら女は不思議そうに上目でこちらを窺っていた。
「あの時を覚えているね?」
 さと子はしばらく考え、茶を飲み干してから頷き口を開いた。
「男湯、でのことですね?」
 清一郎は腕を組んだまま頷き、膝元に準備していた先代から貰った『肥料』という額縁に入った絵画を女にみせた。さと子は唇を微かに震わせ、この春の花園の絵に見入った。しかしこの絵は、単に若い女が桜の木に身を寄せているだけの絵ではなく、女の足元には大勢の男たちの屍が転がっており、それらの骸を見下ろしている絵であった。女の身辺を舞う小鳥の群れはおだやかであり、女の瞳には溢れる歓びの色がある。そしてその歓びは、春を感じる麗らかな女心でありながら、この斃れた男たちを嘲笑する快楽の眼差しでもあった。
「この女の眼は、あの時の君の眼と同じなんだよ」
 清一郎は快げに笑い、さと子の表情を額縁の脇から覗き込んだ。
「若旦那様、もう、こんな絵しまってください」「それにどうしてこんなものを見せるために呼んだのです」
「ふん、ずいぶん、男を弄んできた眼をしている。もっと見るがいい、今日、君はこの絵の女よりも美しくなるのだから、今のうちに見とくがいい」
 再び意地の悪い笑い声を上げた。
「や、やめてください、まさか、あの時言っていた刺青のことでしょうか」
 さと子は唇をわななかしてやっとのことでそう言った。
「まぁ、そんなに恐がることはないだろう。君は最初からそのつもりで、ここに、来たのだから」
 女は和服の袖で顔を隠し、突っ伏して泣き始めた。
「長い間、それも一年半も辛かったろう。内に潜んでいる魔物が煩くてよく眠れなかったろうに。魔物は毎晩現れてはこう言っていただろう。一刻も早く刺ってくれ、刺ってくれ、と。君はその度に背中が疼いて苦しかったろうに」
「若旦那様、これは墨刑、なのでしょうか? 私はそんなに悪行な女でしょうか? 白状します。私はこれまでにこの絵にある女のような性分で生きておりました。だから男を軽んじてきた、その罰なのですか?」
 清一郎はさと子の側に寄り、優しく包むように告げた。
「罰でも刑でもない。君が望んでいるものだ。今から刺られ、真の美しさと器量を備え、そして男の全てはこの絵のように君の肥料になる。君がそれを望んでいるから僕は刺るまでなのだ」
 手を置いていたさと子の肩から滑らせ、清一郎は女の足を撫でた。
「や、恐いです。もうお願いですからやめてください」
「大丈夫。すべてを僕に任せるんだ、すべてを」
 清一郎は女の耳元で囁き、足袋のこはぜを外した。そして身を屈めて女の踝の下に浮き出た血管を舐めた。すると、もたげていた頭を上げたさと子は瞼を閉じたまま一筋の息を吐いた。清一郎は女の足に舌を這わせ続けた。

 麻酔剤によってさと子は眠りに落ちた。初春の陽が障子の紙を金色に染めて、眠る女の顔は赤黄色に照らされていた。清一郎はさと子の背中を剥き、その肌艶をしばらく眺め、ただ恍惚とその妙相を味わっていた。
 庭の物音で我にかえると、片方の手で絵筆を持ちながら、女の背中に針を刺していった。「美」を刺ることは、己の「美」を抉ることでもあるのか、清一郎は命が削られていくような感覚に身を震わせ業を行っていった。それでも刺す針、抜く針の度ごとの緊張感、そして一点の色を注ぎ込むことの快感には、我が魂の宴を感じずにはいられなかった。焼酎に交ぜて刺り込む琉球朱の一滴々々は、清一郎の命の色であり、それが休むことなく女の肌に滴り滲んでいった。
 一切、業に手を抜くことなく、一心不乱に清一郎は刺り続けた。いつのまにか昼が過ぎ、部屋の明るさも少なくなり、行灯に火を灯す頃、針の行方は女郎蜘蛛の形象を具えていき、完全な夜が訪れた頃、女の肌と陰影なるこの魔物は、八本の足を背一面に躍らせていた。
 元日がそろそろ終わりに差し掛かる頃、明日を運ぶ冷たい風が障子の隙間から感じられ、きっと元日の夜空は吸い込まれそうな黒なのだ、と生えてきた無精髭を擦りつつ思いながら、清一郎はやっとのことで絵筆を置き、女に残る背の白を眺めていた。それからゆっくりと視点を刺り込まれた蜘蛛へと動かしていった。この業を遂げた今、清一郎の命は削りに削られ、限りなく零に近い心にあった。さと子との「美」の共有により、真に愛し愛されることができ得た満悦感に、清一郎は女の背に涙を落としていた。
 その雫を感じたのか、さと子が雪どけの冷たさに触れたようなかすかな呻き声を上げた。瞼をゆっくりと持ち上げ、息のできない深海から慌てて大気へと顔を出したかのごとく荒い呼吸を繰り返していた。その度に蠢く八本の足がさと子を背中から抱きしめていた。清一郎はその絵を見、ぽつりとごちた。
「蜘蛛がせわしなく、でもとても美しい」
 さと子はこの言葉を聞き逃さず、鋭く眼を開いた。増していくその瞳の輝きに清一郎はうろたえていくのが分かった。
「その、蜘蛛を、早く見たい。見たいです」
 女の言葉には、今ほど麻酔が覚めたばかりとは思えない生気漲るものが感じられた。
「それじゃ、早いとこ、湯に入って色上げをしよう。一緒に男湯にな。湯が染みて苦しいだろうが我慢しな」
「はい。美しくなるのなら、どんな痛みでも耐えてみせます」

 麻酔が完全に切れ、湯が染み、さと子は激痛に苦しみ、脱衣所の板の間に身を打ちつけながら激しく悶えた。下げた長い髪の毛を乱し、気狂いじみた悲鳴を上げてのたうち回る。魘され、呪われ、嬲られる。体内にようやくかすかな静寂が訪れた時、さと子は自身の背後にある鏡面に気づいた。そこにはあの独特な、白い魅惑をもった足が映っていた。
「……、お願い、清一郎さん、私をここにしばらくほったらかして、お願いだから。先に部屋に戻って待っていてくれませんか。あぁ、湯が、とても染みて、身体が苦しい」
 さと子は湯上りの濡れた身体を拭きとることもせず、清一郎がいたわるように差し出したバスタオルを突きのけて掠れた低音で拒絶してきた。
 清一郎さん、などと言って、さと子は明らかに態度を変えていた。それに驚愕したが云われるままに先に部屋に戻った。この絵、『肥料』を、女にくれてやろうと風呂敷に包んでいると、背後に人影があった。さと子だった。濡れたままの長い髪を両肩へ滑らせ、和服をしっかりと着込み、妖艶な口元を緩め、晴れやかな身のこなしで清一郎の前を通り過ぎ、障子を開け放った。そして世界の淵から世界の核を射抜くような瞳で空を仰いだ。

 欄干へと歩みゆく女の足を空虚に眺めていると、光の粒を一斉に浴び燦爛となる女の全身が視界の中心に迫り、清一郎はただ茫然とするだけだった。
「おい、もう君の美は完成したのだから、ここでは雇わない。ついでにこの絵を持って帰ってくれ」
 さと子はこちらを真っ直ぐに見つめていた。鋭い刃物のような瞳が初春の青色を背景に輝きを増して、まぶしく発光している。
「清一郎さん、もう一度、私の足を舐めてください。いいえ、
お舐めなさい」
 清一郎が頷くと、女は誇らしげに下唇を湿らせた。
「まさか、この清一郎が、真っ先に私の肥料になってくれるとはねぇ」
 歩み寄る清一郎をさと子はその瞳のまぶしさのまま待っていた。
 女の耳元まで辿り着き、清一郎は言った。
「それじゃ、刺青を最後に見せてくれるかい?」
 さと子はするっと肌を脱ぎ、潔く背中を見せた。

 清一郎は跪き女の足を舐めた。
 元日が過ぎた二日の朝陽がさと子の背中を照らしている。女の足元から見上げる女の背中には、舌を這わせるほど蜘蛛の足が蠢いていた。[fin]

添野慎太郎
WRITER 添野慎太郎
世界の淵から世界の核を射抜くような瞳で世紀を仰ぐこと
URL:Writing-High

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文学リミックス
谷崎潤一郎「刺青」
自らの命をかけるように背に美を注ぎ込む刺青師清吉。魂を削るような美への執着、客が刺青の痛みに苦しむ様をじっと見つめるサディズム。ひとときも気を抜けない、鳥肌が立つような小説。
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