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one hundred years

英国にて

cug

 厄介なのが転がり込んできた。名前はまだ無い。嘘である。ちゃーんと立派な名前を持っていたのだった。その化ヶ学者、名を池田菊苗といった。長いことドイツに居たせいかどうかは知らないが、いつでもいやに断じて定める物言いをする、いけ好かない紳士であった。頬骨高くえらの張った、五角形の、言ってみればホームベースのような五角形の顔をしていたが(夏目漱石の旧友、正岡子規は大のベースボール好きであった。彼ならきっと池田に“本塁”というあだ名を与えたことだろう)、その一方でなかなかに立派な口髭を蓄えていた。それでまあ、当時36、7であったが相応の紳士の風体ではあった。
 池田のことを続けよう。化学者の癖をして、彼には何でも口に入れてしまう癖があった。まず自らの舌でもって味を見て、というのが行動原則の第一だった。人の食べるものであれば、初物を口にするに臆する事はまるでなかった。土地の食物が舌に合わないこともまずなかった。と言って味覚において鈍感だったわけでもない。むしろ口の中にはいつも鋭敏な味覚の舌を収めていた。それでいて如何なる時にもその味を楽しむ性質だった。故に食事に困らぬ人種であったし、粗食、出不精、根暗の夏目と違って人生を楽しめる人だった。それで行動が先立つこともしばしば、この度も宿を決めるももどかしく寝る場所の当てさえないうちから弾みでロンドンに来てしまった次第だ。とにかく大学の人づてに、ロンドンには夏目という磨り減った男が居るらしい事だけは知っていた。
 彼が転がり込んだ先は負の三拍子揃った夏目氏の下宿だった----というところで、さて、僕はさっそく一つの課題に突き当たるのである。ジャン=フィリップ・トゥーサンの『テレビジョン』の<僕>よろしく、僕は語る対象であるその人物の呼称について考えるのだ。たったそれだけのこと、それをここで吟味するというのも不手際な次第で恥ずかしい限りなのだが、もう語り始めてしまったものだから仕方がないし、まあ、ここでこうして考えてみることが後々生きてくるかも知れないので、今しばらくのご辛抱。
 まず、僕もそうなのだが、ほとんどの人は夏目氏の名前はと言えば“漱石”を真っ先に思い出すだろう。戸籍上の名前である金之助はもはや、実は、という語りで用いられる事の方が多いほどである。漱石は実は本名を金之助と云ったのだそうだ、と、用例を挙げればこうなるところだ。しかしながらこの時期の彼にとって漱石というペンネームはどれほどの価値を持っていただろう? 確かに学生の時分には正岡子規の数あるペンネームの一つを借りて署名したこともあった。ロンドンから子規に宛てた手紙などにも漱石の署名をしていたが、あくまで文学という趣味の仲間としてサンズイを書き出しクチの下を留め結んだに過ぎなかった。そうは言っても彼本人に気を使う必要など全くない僕とすれば、僕自身の感覚にしたがい彼を漱石と呼び習わすべきではないだろうか?
 文学はあくまでも趣味、というのは、一つには彼は彼や子規の資質をよく理解していたからだった。どうしようもなく生真面目でスクエアで鈍くさい彼からすると、自由闊達な気性でややもすると鋭敏過ぎるほどの感受性を持った子規は一種の天才であった。身の回りのありとあらゆる場所から自在に美を取り出す、そういう天才だった。美を御する術、とすれば子規は美術の天稟を備えていた。夏目は美術の一分野たる文学はそういう人物たちの手によって築き上げられるものだと信じた。故に自分は文学の作物を学び、紐解き、より良い読み手を世に育てる側にあるべきであるとも規定した。そうやって松山から熊本を経てロンドンまで来た。ここに至ってさっそく僕は『テレビジョン』における<僕>とは線路を違え、もはや急速に結論に向かってしまっている。つまるところ実生活上の職である英文学者として、彼は金之助のままロンドンで過ごしていたのだ。漱石は趣味用の雅号、生業は英文学者であり、ロンドンへも英文学者としてより若い学生らに英文学の何たるかを教授するために研修に来ていた次第であった。彼が漱石として小説の道に分け入っていくのは、子規が夭逝し、英国留学を終えて帰国し、それでその時ホトトギスを引き継いでいた高浜虚子の誘いを受けてから後のことだった。言ってみれば、僕はこの話を通じて、彼が英文学者・金之助から小説家・漱石へシフトしていく契機を探ろうとしているのかも知れない。あ、いや、まあ、話し終えてみないことには何とも言い兼ねるのだが、とにかくそういう展開になった時のことを想定すると、彼が初めから漱石であっては何かと具合が悪そうだ。これがこの問題の結論である。というところで、さあ、さあ。先を急ごう。
 さて、菊苗の転がり込んだ先の住民であり、なおかつこれから僕の語るこの話がフォーカスするべき英文学者・金之助氏が朝、低血圧ながらもよろよろ目覚めてみると、化学者・菊苗氏はいかにも当然のような顔をして窓際の苔生す机に腰掛け、新聞を広げ、疵や埃で白濁した窓を透けてうっすらとした朝の光を呼び込んでそれに目を通しているのであった。新聞は当然ながら英字であった。菊苗は金之助に気付くと彼から目を離さぬまま新聞を畳んで机に伏せ、その手でカップの把手をつまんだ。襟付きのベストを着込んで、ネクタイまでしっかり締めていた。彼はカップを口元に運び、音を立ててコーヒーをすすった。そうしていわく、お早よう。
 金之助が着替えを済ませると、菊苗はスタジアムへフットボール見物に行きたいと言い張った。工業国にあって労働者はつまり百姓と同じであって国の土壌を成すものだ、然るに彼らの気晴らしがどんなか知っておくことも英国の英国たる所以を学ぶこの留学の目的を達する一つの道なのだ----とまあこんな感じで。当時のいわゆる士族の子弟としては、相当にリベラルな発想だったろう。金之助は否とも応ともないままに同意した。主体性なきこと海中の昆布のごとき金之助をあっちへ流しこっちへ流しと操縦する菊苗の大将ぶりは、どこか子規に似ていた。時に金之助、ロンドンに着いて半年余り。彼はこの半年間ずっと監獄のような性悪な気候に気を滅入らせていたのだった。冬など鼻を詰まらせぼやけてしまった金之助のおつむには、ロンドンへの途上で立ち寄ったパリの一週間が懐かしくも温かく思い出されるのだった。パリでは万博を見た。三度も通ったのだ。ギュスタフ・エッフェル氏設計のエッフェル塔にも登ってみた。それはそれは物見遊山でほど良い気分であった。それがロンドンに着くやどうだ。黒っぽく分厚い雲のために太陽が消し炭のようにかすれてしまい、昼間でもペンを使うに当たって先にランプを点けねばならない有り様で、表に出れば路は凍る、空気も凍る、洟も凍る。自ら昂揚することのない金之助の神経はずんずん滅入るばかりだった。それがやっと五月になった。ようやく桜の花も咲き候(ロンドンにも桜の木は御座りまして候)、春になったせいか厄介なのが転がり込んできたが、まあ端から見れば金之助にはそのくらいの刺激も必要だったろうと思われる。とにかくそれくらいのことは許される季節になっていた。 両名は表に出た。ツーティング通りには安普請のアパートがささくれのように居並んでいた。労働者や異邦人の住まう半ば貧民街のような地区だったが、心地良く注ぐ日差しだけはこのロンドンで最上級のものと同じだった。
 菊苗は金之助を率いてどんどん歩いた。角に塀の朽ちた不細工な教会があって、イヤマカット通りに突き当たった。少し開けたらしく、広い通りの脇にはガラス張りの洋装店や喫茶店も見えた。金之助の目の前を馬車ががらがら過ぎて行った。彼らはその馬車の行く方へ道を折れた。菊苗は背広が暑いらしく、朝の襟付きベストだけにして背広は腕に引っ掛けた。緩やかに登りながら伸びやかに右へ曲がっていく通りを、日差しに目を細めながら、彼らは歩いた。道すがら、金之助は菊苗に、美術である文学と学術である化学との違いに関してとうとうと説いた。計測可能な外界の対象の中に一個きりの真理のある化学と違い、美術は計測することの出来ない心の内の美を扱うための精神的な術なのである、というようなことを金之助は喋りまくった。菊苗は黙って聞いていた。涼しげな風が吹いたりもした。
 アパートを発ってから半刻ほどだろうか、だらだら坂を登り終えるとタワー通りに出た。たいそうな目抜き通りだった。新雪のように白い立派な教会が見え、その向かいにオールドゲート駅があった。時代を経ている分も加わってなかなかに荘厳な造りの駅舎であった。地下鉄の始点であり終点でもあった。
 時に1901年、20世紀の一年目だったが、既に地下鉄はロンドンの人たちの足の下を盛んに往来していた。メトロポリタン鉄道が人類にとって初めての地下鉄を開業させたのは、金之助の生まれる十数年前、1863年のことだった。横に目をずらせばペリー来航から10年、日本はなお江戸時代であり、その一公国であった薩摩藩は地下鉄を開通させたばかりの英国と交戦している。長くならないうちにロンドンに戻ろう、開業時の路線はパディントンからビショップス・ロードを繋ぐ3マイル半ほどの区間だった。トンネルは長く掘った大掛かりな塹壕に蓋をしてこしらえたのだが、はじめの30年ほどは、その中で汽車を走らせるためにコークスを焚くという無謀な仕組みだった。その後電気仕掛けになった。車輌の改良の傍ら、操業区間も伸び、路線も増えていった。そんなわけで金之助たちの頃には地下鉄はパディントンから更に東へ延び、オールドゲート駅まで達していた。金之助たちの利用した路線は僕らの2005年現在と同じく、すでにメトロポリタン・ラインと称されていた。市内であれば何処まで乗っても2ペンスだった(フィッシュ・アンド・チップスと同じくらいの値段であった)。
 駅舎の中は人ごみだった。金之助は菊苗の背中に従って歩いていたのだが、菊苗が機敏に人の肩を避けたのに気付かないまま、かの唐変木は英国紳士と真艫に衝突してしまった。もっとも平衡を乱した挙句尻餅を搗く失態を晒したのは日本帝国が誇る英文学者、夏目金之助氏唯一人であったのだった。肩幅の広い英国紳士はしかめっ面で立ち聳えていた。パイプを口に挟みしその紳士こそ、サー・アーサー・コナン・ドイル閣下であった。----いや、これは失敬、少々先走ったようだ。ただいま軍医として従軍したボーア戦争から帰還したところであって、金之助とぶつかり合った翌年、その功績でナイト爵を授かることになるのであった。従ってこの時はしかめっ面の、ミスター・アーサー・コナン・ドイル、とこう呼ぶべきだった。とにかく閣下には、自らの足元に倒れ伏した哀れな東洋人の姿が線路工夫の死体にでも見えたのだろう。閣下は金之助の名を知らなかったために彼をメイスンと名付けて『ブルース=パーティントン設計書』をしたため、1908年、短編集「シャーロック・ホームズ最後のあいさつ」の中に収めている。なお蛇足ながら付け加えると、その同じ年に金之助改メ漱石は『三四郎』を上梓した。ドイル閣下はじろりと大きな眼球運動で間抜けな東洋人を観察し(金之助はその冷たく大きな目にぞっとした)、背広をはたいて靴音も高らかに歩き去った。菊苗は金之助に手を貸すこともせず、ただ苦しげに大笑いしていた。
 そんなこんなで東洋紳士両名はオールドゲート駅からウールウィッチまで地下鉄に乗った。駅を出るとスタジアムは目の前にあった。マナ・グラウンド、1893年9月2日落成。キャパシティーとしては1万人ほどの競技場だった。現在のガナーズことアーセナルの根城であるハイバリー・スタジアムは1913年に完成することになっている(そして2005年現在、次なる競技場が建設中である)。金之助の訪れたこのスタジアムはそれまでの間に使用された競技場だった。スタジアムの主アーセナルは、当時は正式にはウールウィッチ・アーセナルといった。ハイバリー・スタジアム完成の翌年にアーセナル・フットボール・クラブと改め現在に至る。クラブそのものは1884年のことだったが、兵器工場の労働者たちの間で作られた。そのため発足以来足掛け3世紀になる現在も、“ガナーズ”の愛称で親しまれている。
 当時英国は内外から起こる非難の雨に打たれながらアフリカ大陸の南の端っこでボーア戦争を戦っていた。そのために大砲工場は大忙しであった。文献によると、この時期のマナ・グラウンドでは観衆が600人ほどしか入らなかった試合もあったという。収容人口のたった6%である。皆フットボール観戦どころではなかったのだった。この当時まだナイト・ゲームができるほどの照明設備がなかったものだから、試合といえば太陽の下で行なうものと決まっていた。日曜は選手も休みだから、試合は土曜日。しかしながらてんてこ舞いの工場では、土曜日と言えども労働者を放すわけにはいかないのだった。
 菊苗は入口の脇の屋台でフィッシュ・アンド・チップスを2人前購った。しかし胃腸の弱い金之助には古くなった油がどうにも我慢出来なかった。胸やけしながらかじってみたが、結局どうしようもなく試合が始まる前に捨ててしまった。菊苗はというと、やはり平然としたものだった。油は何度も使って古くなっているが、決して悪くなっているわけではなかった。彼にすれば味があると言うところだったようだ。
 芝の緑の鮮やかなグラウンドに両陣営の選手たちが出てきた。観客席はと言うと、やはり疎らなものだった。金之助には知る由もなかったことだが、結局この日も1,000人少々しか入らなかった。工場が平常なら来場したはずの9,000人は、工場で汗を流していた。そのせいで観客席はひと月ほど季節が遅れているように寒々しかったのだが、さてグラウンドでは試合が始まったようだ。フォーメーションはお互い、現代風に表記すれば“2−3−5”ということになる。バックス2名にハーフ3名を配し、トップには5名を並べた布陣であった。これでも10人が10人フォワードであった時代からすれば格段の進歩であり、すでにポジション・ゲームの色合いは強くなり始めていた。とは言いながら審判の笛が鳴り渡るやそれぞれがそれぞれに駆け巡り始め、金之助には何がなにやらわけが分からなかった。彼には球のある場所を中心に観察するという習慣もなければ、この競技がボール・スポーツであるという認識さえあったかどうか怪しかった。それで時間が経つにつれて、相手陣地へ攻めている側のゴールキーパーの選手を観察するようになった。これはこれでなかなか上等の方針だった。なるほど攻めている側の陣地であれば選手の頭数は少ないし、ましてゴールキーパーとなればあちこち他の選手と入り乱れて動き回るようなこともない。落ち着いて観察出来るというわけだ。金之助は、ゴールキーパー氏が静止状態から急に駆け出す練習を行なったり、背後を振り返りながら蟹歩きして白い枠の幅を確かめたり、跳び上がって枠の横棒に掴まってみたりする様子をじっと見ていた。
 前半戦が終わり菊苗は金之助に賭けを持ちかけた。どちらがこの試合に勝つのか当てっこしようというのだ。ちなみに試合は前半戦が終わって2点ずつ取り合った熱戦だったが、金之助はそれも把握出来ていなかったようだ。しかしとにかく見当もつかないということだけは確かだったので、そう答えた。宜しい、と菊苗は応じて言った、では僕がこの試合の勝敗を的中させられるかどうかを的中させてご覧、試合の半分まで来て得点は双方等しいのだが。どちらにせよ二つに一つだったが、金之助には菊苗の自信たっぷりなのが気に入らなかったようだ。そこでとうとう、出来ない側だ、と答えた。出来っこない、と金之助は付け加えた。まんまと鴨を引っ掛けた菊苗には、この賭けの成算があった。彼もフットボールを見るのは生まれて以来初めてだったが、しかし人が走るのは何度も見たことがあった。彼の観察によれば、赤いシャツを着た陣営はうまいこと陣形を保って余り走り回らずに済ませているのに対して、白いシャツの方は走るのは勢いがあって素早いものの、往来する距離が赤に比べていささか長いのだった。それでその点に着目見ていると、わずかではあるが、白の方が走行運動時の膝の位置がだんだんと下がってきていたのだった。そこで菊苗は根拠は伏せたまま、ますます自信たっぷりに、赤組の勝つ方だ、とだけ宣言をした。
 後半戦も半ば、金之助は退屈しながらまたしてもゴールキーパーの観察をしていた。その時だった。見ていたゴールキーパーが腰を落として身構えたかと思うと、はっとこちらを振り向いた。金之助はその青いまなこと目を合わせた。隣で菊苗が何か叫んだようだったが、聞き直す間もなく(菊苗は危ない! と言ったのだった)、突然頭の中で寺の鐘を思い切り撞いたように耳の中でぐわん! という音がして頭が揺さぶられた。それっきり金之助はベンチからずり落ちて伸びてしまった。白組の選手が蹴りすぎた球が飛んで来て金之助の側頭部を一撃したのだった。その革の球はしきりに回転しながら真上に跳ね上がった。菊苗は高く舞い上がった球が落ちてくるところを両手に収め、グラウンドに投げて返した(係員に引き渡すのが正しいやり方だったが、この際だから大目に見よう)。 金之助が正気を取り戻したのは試合が終わったすぐ後だった。試合はと言うと、菊苗の予言の通り、赤組の勝利に終わった。それもずっと相譲らぬまま進み、突如終わる間際なって赤組が立て続けに3得点した試合だった(金之助はそれを菊苗から聞き、それでは納得がいかずに近くに座っていた老夫婦に尋ねて確かめた)。賭けは菊苗の勝ちだった。
 それで賭けに勝った菊苗、帰りの道すがら、とうとうと人間の味覚と食物中の物質の関係について語った。いわく、吸い物の味がどうのと言うのは料亭の客の領分だ。対して学者の領分はその吸い物が何故美味いか、あるいは何故不味いかを解明することだ。色んなやり方があるだろう、化学的見地から見るやり方、いわく、味覚とは人間の内にあるがそこに刺激を与えるものは全て化学的に分析出来るものであり、それゆえ化学的に再現できるものである。分析、再現。これこそがサイエンスの核心、すなわち僕たちの仕事の核心なのだ。金之助君、賭けに勝ったのは僕なのだから、一つ僕の提案を容れてみないか。金之助は黙ったまま、菊苗の次の言葉を待った。文学ってものそのものについて、君がどう向き合うべきかを今一度考えてみたまえ。
 金之助は苦し紛れの抵抗を試みた----文学を代数幾何や化学式のように取り扱っては、そこにうまみがないではないか。菊苗はその回答を待っていたのだった。我々サイエンティストの帯びたる使命とは、そのうまみを理論立てて解き明かすにあるのだ、と、菊苗はまたしても言い切った。そうでなければうまみの再現は経験則の範疇に留まり、新たなうまみの発見は、言ってみれば天才のような人間の生まれてくるのを待たなければなるまい。そんなことでは、金之助君、君の分野は他の分野から取り残されていく一方だぞ。池田菊苗、グルタミン酸を発見し、従来四味(甘味、塩味、酸味、苦味)と定まっていた味覚に五つ目の“うま味”を書き加えた人物である。更にグルタミン酸ソーダを主成分とする化学調味料の発明者でもあった。なおも菊苗は、ひと言多い独演会を延々と続けるのだった。
 金之助は結局菊苗の理論に屈した。屈したと言うよりはむしろ、進んで宗旨変えをした。美術の美しさというものはただただ人知を越えて神秘的に美しいわけではなく、そこには確かに人間の目にとって美しく映るための何かが存在するから美しいのである----少なくともそう考えるのが理屈だ。文学者であれば、学者をもって自認するのであるならば、そこにある美しさの素を解き明かさなければならない。それをしないのは怠慢と呼ぶに値する。まばゆい光に目を奪われてはいけない。真理はその中にあるのだ。そのために文学というものを、美術というものを、冷静に冷徹に、冷酷に、観察し尽くさなければならない。ひいては目に見える全てのものを、目を見開いて、あるままに----そう思った時、金之助の頭にはオールドゲート駅でぶつかったあの英国紳士の大きく冷たい目玉だけが、ことさらに大きく膨らんでいく様子が思い浮かんだ。どっしりとした文学を学ばなければ、今にそいつに押し潰されてしまうだろう。金之助にはそう思えた。そして革の球の当たった頭がひどく痛んだ。
 これは後日談だ----こんなことがあってから、金之助は狂ったように書物を読み漁りつつノートに蝿の頭ほどの文字で何事かをびっしり書き付けていった。彼の頭の中で理論が定まってくるにつれて、本国にあって病に伏せる友人、正岡子規のことがだんだんと片隅に追いやられていった。二年が過ぎて帰国の段になり、金之助は子規の逝去を知った。正岡子規、美しさを直に掴み取る天才であった。さらに紆余曲折あって小説の道に入ることになった時、金之助は子規の天才の文学を引き継ぐわけにはいかないまでも、せめて漱石の名前は子規の形見として頂くことにした。[fin]

cug
WRITER cug
唾棄すべきは演出過剰/キャッチーなことなど何も無い。
                          2005年、春
URL:cafe unidentified generation

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文学リミックス
夏目漱石
 夏目漱石(本名、夏目金之助)。1867年に生まれる。
 明治33年(1900)から明治35年(1902)まで、英国へ留学する。帰国後、東京帝国大学などで教鞭を取るが、明治38年(1905)、「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を連載、明治40年(1907)には教職を辞し朝日新聞社に入社する。以後、朝日新聞に『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『行人』、『こゝろ』、『道草』、『明暗」などを連載する。
 大正5年(1916)12月9日、胃潰瘍のため死去。
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