本文目次など
one hundred years

Rainy Days―レイニー・デイズー

岡沢 秋

百年前 僕は、ここに無く、
百年後 僕は、ここに居ない。

 

 「馬鹿いえ、冗談だろう。」
 相棒の黒猫トムは、すこぶる機嫌が悪かった。いつものことだが。今朝のホットミルクが熱すぎたのが癪に障ったのかもしれない。普段はぴんと張っている自慢のヒゲが、右側だけナナメ下に向いている。
 「まあ、そう言うなよ、GBトム。これは、れっきとした政府のお偉方からの依頼なんだ」
 「ふん。そのセリフは聞き飽きたね。じゃあ何かい。政府のお偉方ってのは、こぞって支払いを先延ばしにしたがるほど、予算に困っている連中なのかい」
 「そういう言い方は無いだろ、マイ・フレンド。君だって良く分かってるはずだ。僕らの仕事は非公式な調査・探求、および機密事項の保守。そんな気前良く右から左へ、おおっぴらに金を流せるもんじゃない。税務署に捕まっちまうよ」
 「だったら、今月のあんたの家賃くらいは早急に出して貰ったほうがいいね。先月分も、先々月分も」
GreatでBlackな黒猫トムは、ぴょんとテーブルの端から飛び降りて、尻尾をぴんと立てた。
 「とにかく、だ。オイラはやらない。ビデオテープの調査だって? まったく、冗談にも程があるよ。やりたいなら、あんた一人でやるんだね。」
言うだけ言って、彼はさっさと部屋を出て行ってしまった。
 まいったな、ご機嫌とりにも、さっぱり応じない。これは、やる気を出させるには、チョコチップクッキーだけでは済みそうにないぞ。
 「ああ、まったく。」
 僕はため息をついて、破れカウチに身を投げる。読みかけのまんま積み上げているマガジンが何冊か、埃もろとも滑り落ちたが、拾い上げる気も起きなかった。
 「いったい誰が、あんな聞き分けのない猫に育てたんだろう」
 「他ならぬあなたでしょ、ポール・マッカートニー」
見上げると、呆れ顔のマダムがそこに立っている。麗しのミズ・シンディ、我らがささやかなる探偵事務所の家主にして生活水準監視員。
 「それとも今日はジョージ・ハリスン? あら、机の上にあるのは”Coda”じゃない。じゃあ、レッド・ツェッペリンだ」
 「やあシンディ、今日のコーヒーは何?」
 「キリマンジャロよ。」
シンディは、サイドボードにティーカップを置いた。そして幸いなるかな、この町で最も優れたコーヒーの注ぎ手だ。
 「まあた”彼”からの仕事? よしなさいよ、もう。なんべん死にかけたら気が済むの。上がりだって少ないし――」
 「いやまあ、そんなことはないさ。そりゃぁ確かに、色々あるけどね。いわくつきな仕事ほど、僕は燃えるんだ。それに今回だって相場の倍以上の額で……」
 「そして危険度はさらにその倍。どうせ入院費と壊したものの弁償代でほとんど消えるわ。ねえ、そりゃあんたがここに事務所を開いた理由は良く知ってるわよ。そこらで浮気調査だの、迷子探しだのするためじゃないことは分かってる。でもね、トムのことも、少しは考えてあげたらどう」
 「まあ、あいつは、僕の唯一の肉親だからね」
力なく笑って、僕は起き上がる。
 極上のホットコーヒーを冷めないうちにといただきながら、僕はちらと、机の上に置いた、まだ封を切っていない大きな茶封筒に目をやった。
 消印はなく、宛名もない。封は特殊な蝋印で施され、決められた手順で開かなければ爆発する仕組み。もちろん無理に破いても駄目。ただし、火に放り込んでも燃えないし、積載限界ギリギリまで荷物を積んだ砂利運搬トラックに踏み潰されても潰れない。政府機密機関御用達、特殊素材で出来た、資料受け渡し用封筒。
 「あんなもの、突き返せばいいのに。」
シンディは、まだ、ぶつぶつ言っている。
 「あの人、あなたのこと、自分の手下か使いっ走りだと思ってるんじゃないの?」
 「少なくとも、信頼はしてくれてるさ。でなきゃ、レベルEの機密資料をこまめに送ってきたりはしない」
空になったカップをミズ・シンディに返し、ご馳走様を言った僕は、封筒を取り上げた。トムが何と言おうと、この手の依頼は、一度だって退くわけにはいかない。安全も何も、くそくらえだ。
 ドアを開け、部屋を出て行きながら、魅力的な我が家主殿は、困ったように、心から心配してくれている声で、言った。
 「忘れて生きればいいのに、あんたも意地ね。どうしてそんなにこだわるのよ、過去のことに」
 「あるいは未来も、そこにあるからだ」
僕は自分でもおかしいくらい、大まじめだった。
 「何かわかったら、真っ先に教えるよ、マダム」
 「はいはい。人間では真っ先に、ね。あとでトムにココアミルクを頭を用意しておくわ。仲直りできるようにね」
ぱたん、と扉が閉まった。僕は、――それを確かめてから、封を切った。

 僕の時間で、今から十五年ほど前のことだ。
 その日は風も無く、空は晴れて真っ青で、雲ひとつ無かったと思う。海は穏やかで、宇宙から見ても地球には白い翳りが無く、山火事も地震も津波も無かった。世界中でそんなだった。おかしいですね、と、ワールドニュースも言っていた。たぶんそのとき、地球自身の時間が止まっていたのだと思う。
 突然、ある場所の空が割れた。見えたのは真っ暗な穴だった。あまりに突然のことで、人々は驚きの声も上げられなかったらしい。
 その場所は、一瞬にして消えた。
 数秒後、思い出したように時が動き出し、……その場所は、空いた穴を埋めるために流れ込んで来た海水によって、沈んだ。

 多分。

 そして気が付いたら、見知らぬ場所にいた、というわけだ。
 SFなんかで良くあるだろう、ほら、時空間転送装置だか、次元ワームホールだかに飲み込まれて、まったく別の、異世界に飛ばされてしまうような話が。僕の場合も多分、そうだった。ただ、どうしてそんなことが起きたのか、どうやってここへ来たのか、僕自身も、よく分かっていない。こちらでも空に裂け目は出来たらしいが、それは同時に、世界中の、あちこちの場所に開いた。そして、吸い込んだもの、建物とか、土とか、生き物とかを、てんでばらばらの場所にばら撒いた。僕はたまたま、テレビ中継車のまん前に、リポーターがスタンバっている、その頭上に墜落した。お陰ですぐに救急車を呼んでもらえ、おまけに身元も保証されたというわけだ。…異世界か、異時代の人間として。

 世界政府が把握している限り、事件の生存者は、僕一人…正確には、僕と、生意気に喋る黒猫トムだけ、らしい。
 残念なことに、僕の記憶は吹き飛ばされたショックでほぼカラッポになってしまったらしい。一緒にやって来たトムの場合は、カラッポになるどころか大いに記憶を得たようだ。たぶん僕の、吹っ飛ばされた記憶の一部だろう。黒猫が喋れるようになったのは、そんなわけだ。

 黒猫を抱きしめて土砂降りみたいに泣いている子供の僕を、彼らは容赦なく保健所に連れて行った。寄生虫や病原体の検査をするためだ。ついでに、エイリアンでないかどうかも。その結果分かったことは、僕が正真正銘の純地球産ホモ・サピエンスであること、トムが何の特徴もない雑種の野良猫であること。当時の僕は身長135センチでトムは35センチだったが、今や僕は179センチ、トムは88センチ(もちろん、尻尾の先まで計っている)だ。時は確かに動いている。だけど今だに若々しいトムの人生、いや猫生を見る限り、本当に、この世界の元の住人と同じ速さの時間かどうかは自信が無い。

 僕は飛ばされる以前のことを、何ひとつ覚えていなかった。しかも、僕の体には、真新しいことは何も無かった。地球上に百億もいる人間皆が持っている、既に解析済みの遺伝子しか持っていない。未知の病原体や治療痕、そう、虫歯の治療痕すら、見つからなかった。実に健康、そして医者にとっては、実に研究する甲斐のない体。
 だからすぐに解放され、居場所だけは明確にしておくことを条件に、こうして、何処とも知らない地球で市民権を獲得して細々と生きている。表向き探偵事務所という名目で事務所を借り、そして時々は、15年前から続けられている、政府の「多次元接続事象調査機関」に、協力しているというわけだ。

 結局のところ政府の関心は、僕らが何処から来たかよりも、自分たちが何処へ行くのかというところにあるのだろう。
 地球上に起きた異変は、何が原因なのか。今後もまた、起きるのか。僕らが未来から来たのなら、その事件は、今後起きるものとして防ぐことが出来る(かもしれない)。また過去に起きたものなら、今後起こらないという保証が出来る(かもしれない)。

 僕は封筒を開き、一本のビデオテープと、分厚い冊子を取り出した。テープは数年前、大陸の端っこの、次元ホールAE25-K跡で発見された残骸を、科学班が苦心して復元に成功したものだ。冊子はそれについての調査報告書。および発見時の状況、付近で発見されたその他の次元間移動オブジェクト。今回も、生物が移動してきた形跡は、無し。
 ビデオテープとは、ずいぶんレトロだ。やはり僕が居たのは、ここから過去の世界なのだろうか。いやいや、結論を出すのに焦るべきではない。この時代にだって、ビデオテープは、ある。博物館にも、中古品を愛用する人々の自宅にも、古物商にも。現に、僕の部屋にだって、10本はある。問題は中身、そう、中の映像だ。
 とにかくトムがいなくては始まらない。僕はそれらを元通り封筒にしまい、相棒を探しに表へ出た。
 一歩出ると、外はひどい匂いのする灰色の雨の中だった。実を言うと、ここ15年、雨は弱まりもせず、ひっきりなしに降っているのだった。そのくせ海は溢れない。どこかに水を吸い込む穴があるのだろう。僕は空を見上げ、そこにぽっかりと空いた暗い穴を眺めた。
 雨が降り出す前、そこからここへ落ちてきた。この、大通りのど真ん中、「町角デリシャス!」という、庶民向け食べ歩き番組の撮影中に。

 乾いていないと気がすまない、我がクール&ドライな相棒は、探偵事務所のすぐ隣にある、ミズ・シンディの洒落たカフェで、のんびりと手足を伸ばしてくつろいでいた。シンディの飼っているゴールデンレトリバーとイカした午後を過ごしていた彼は、僕がくしゃくしゃのコート姿で現れたのを見て、露骨に鼻頭に皺を寄せた。
 「なんだい、なんだい。その格好は。そんなみすぼらしい格好で同情を引こうったって、そうは問屋が卸さないぜ」
 「そりゃあさ、僕は人間だからね。君たちみたいに、黒だの金だのの立派な毛皮は着られないんだよ。」
 「そうかい、そりゃお生憎様。で、さっきの話なら、オイラは降りるぜ」
 「協力してくれよ、トム。お前だって元いた世界のことが知りたいだろう?お前だって、親兄弟がいたかもしれないんだぞ」
 「猫の親兄弟なんて、生後1年でサヨナラさ。乳離れしろよ、相棒。オイラは、ここで満足してるんだってば」
 「じゃあ、お前、僕がいなくとも一人で生きていけるのかよ」
前髪からポタポタ水滴をたらしながら、恨みがましく言いつづける人間を、トムは哀れむような目つきで見ている。いつものことだ、気にするまい。子猫の時から一緒にいるんだ、こいつの扱いは慣れている。

 ややあって、トムは、深い深いため息をついて、重たげに身を起こした。
 「分かった、分かったよ、まったく。人間ってのは、どうしてそう、厄介なのかね。ここでだって、幸せに生きられるってのに」
 「幸せとは、希望が満たされて初めて持てるもんだよ、相棒。そんなもの欲しがるのは人間だけだとは思うがね」
 「それも、あんたに特に強い傾向だと思うがね」
黒猫は素早く僕の肩によじ登り、爪でコートを引っ張りあげ、自分の頭に引っかぶった。
 「急いで戻ってくれよ、濡れないように。ヒゲに水滴がつきでもしたら、匂いでヤル気を無くしちまう」
 「そうだろうな、気をつけるよ」
雨の往来を歩く人など、ほとんどいない。こんな町に住んでいるのは、よっぽどの奇人か、のっぴきならない事情の人か。もしくは(僕のように)、破格の安価で住める宿を求める貧乏人か。

 部屋に戻ると、トムはテーブルに飛び乗って、くんくんと封筒の匂いを嗅いだ。
 「おい、触るなよ。爆発するぞ」
 「分かってるって。ちょいと嗅いでみただけさ。…おや、こいつジェネリーズの匂いがするぜ。事務所のポストに投函してったのは、彼女かな」
 「だったら、一声かけてきゃいいのに」
僕は濡れたコートを、トムの嫌がらない場所に引っ掛けながら、言った。
 「彼女には、保健所でずいぶん世話になったらな」
 「ふん、世話って、オイラが猫に化けたエイリアンじゃないかとか、脳にマイクロチップを埋め込んでやしないかとか、やたらとしつこく調べてくれたことかい。猫だって喋って何が悪い」
 「悪くはないと思うが、問題なのは、それがとても流暢な人間語だということだ。」
ようやく準備が整った。
 ダッシュボードの上のビデオデッキにテープを突っ込み、「Play」ボタンを押し終わると、僕らは揃って、破れカウチの上に胡座をかいた。
 まもなくブラウン管に人の絵が移り、それは――砂嵐の中で、ゆっくり、ぎこちなく動き始めた。世界が暗転し、僕は、いつものトランスに陥っていった。

 僕は、本当の名前が知りたいのだった。それと。もと居た場所が何処だったのか。ただそれだけが、政府機関に協力する理由と言っていい。
 覚えていたのは住所だけ、この世界、あるいは、この時代には、何処にも存在しない座標。そこが何処だったのか分かれば、今いる場所と、その場所をつなぐ正確な距離…時間…が、分かるはずだ。生きていれば帰れる場所なのか、あるいは、逆戻りしないと辿り着けない場所なのか。

 真っ暗な世界で、ビデオテープが回りつづける。どうやらそれは、テレビの娯楽番組を録画しただけの、ささやかな個人の所有物で、とりたてて重要な情報は入っていないようだった。番組の中で人々は笑いさざめき、また手を打ち合わせ、興奮したような目を正面に向けている。
 おや。あれは何だ。一瞬、ゲスト席に黒いものが走ったぞ。そう、トムだ。
 人々は猫に見向きもせず、司会の男が喋りつづけるのに合わせて拍手したり、笑ったりしている。黒猫はぐるぐる回る。カメラを構えている男。ジャンパー。STAFF…Y…YB…YBC。テレビ局の名前か、番組の名前? それから猫がまた歩いていく。大胆にも、司会の男の前を横切って、ゲストコメンテーターの席のほうへ。画像が悪い。所々、映っていない。コメンテーターの名札は、隠れている。顔もゆがんで、到底、美人とは思えない。彼女はずっと何か叫びつづけている。…そう、何かに向かって「それはアトランティック条約に違反していると思う!」と、叫びつづけている。顔色が変わった。ああ、怒っているのか。そうか、これは討論番組だな。こいつらは政治家か知識人に違いない。議題は…議題は、「自然破壊と生態系の保全について また人が地球と共存するために」。そう、これは覚えておこう。過去のテレビ番組表に記録が見つかるかもしれない。それにしても、このビデオの所有者は、何だってこんな憂鬱な内容をビデオになんか撮ったのだろう? そうか分かったぞ、本当は別の番組、たとえばドラマなんかを撮りたかったのに、番組の放映時間がずれて、うまく狙った番組を撮れなかったんだ。それとも、単にタイマーのセッティングミスかな。いずれにしても、面白い番組ではない。僕の記憶には何も、引っかからない。何も、だ。

 「おい、おいってば。相棒、しっかりしろ」
 「…う、ううん」
 「もう夜だぜ。いつまで寝てる。ビデオはとっくに終わってる」
 覗き込むトムの金色の目と、前足の肉球でつつかれる感触で、我に返った。窓の外は真っ暗、そして、相変わらず雨が降っている。
 トムはカウチの端からぴょん、と床に飛び降りて、僕が起きるのを待った。
 「見えたか?」
 「ああ、視えた」
 「そうかい。そいつは良かったな。オイラには、退屈な仕事だったよ」
黒猫は大あくびをした。ブラウン管には灰色のザーザーだけが映っている。デッキは、流し終えたビデオを無造作に吐き出している。僕はカウチから起き上がり、死体みたいにカチカチに固まった体を大きく伸ばした。
 「今回は、危険なことは無かったようで何よりだ。まったく、あんたときたら、どうしていつもはあんなに骨折りばっかりなんだね?」
 「自分でも良く分からないな。そうだ、レッドリバーに出かけたりしたのが悪いんじゃないかな。今回は、砂漠にも北極にも行ってないしさ」
 「これから行くんじゃないことを祈るよ」
猫は、またも大あくびをした。自慢の長い尻尾をくねらせ、前足をなめる。「で、何が見えたんだい。この、おんボロでほとんど色が踊ってるみたいにしか見えないビデオにさ。」
 そう、ビデオの中身は、僕にしか見えていないのだ。
 政府の科学班にも、ほとんど見えていないだろう。ノイズだらけで意味不明なこの手の異物、僕たちの<かつていた世界>から来るものについては、誰よりも、僕ら自身が、一番手っ取り早く、具体的で正確な回答を引き出せる。
 …とどのつまり、”彼”、ジョニー・デップこと「多次元接続事象調査機関」長官、親愛なるフォレスト氏を満足させる回答は、僕らしか出せない、というわけだ。

 「うひょう、見てみろよ。」
 トムはいつの間にか、机の上に飛び上がり、例の封筒をひっくり返している。分厚い資料の間から、ごくごく普通の長3型茶封筒を引っ張り出している。
 「何が入ってる」
 「カードさ。ほら」
黒猫は両手で封筒を挟んで、器用に揺さぶった。数枚のカードがぱらぱらと落ち来て、机と床の上に散乱する。
 「無期限パスに、ご招待券に、クレジット・カードだ。オイラ最後の一枚だけは気に入ったね。幾ら入ってる? さっそくATMで見てみようぜ」
トムは上機嫌だ。僕は、3枚のカードをそれぞれ人間の手で拾い上げ(猫には散らかすことは出来ても、片付けることは出来ない)、表と裏をじっくり眺めた。
 「何してんだよ。早く行こうぜ。」
 「ああ、ちょっと待って」
無期限パスというのは、ある一定の身分を持つ人々の御用達、メトロでもバスでもタクシーでも、好きなときに好きなだけ乗り回せる夢のような魔法のカード。そしてもう一枚は、政府調査機関ビル入り口の厳重警戒エントランスを一度だけ通り抜けられる素敵な使い捨てチケットだ。
 「よからぬことになると思うんだけどな。これは。」
僕はトムには聞こえないくらいの声で呟き、ドア脇の杭に引っ掛けてあった、よれよれのコートを肩に掛けた。

 その、僅か10分後、僕らはシンディのカフェにいた。
 「なるほどね。それは確かに、よからぬことだわ」
受け取ったカードを物珍しそうにひっくり返してみながら、彼女は美しいブロンドの下で眉をひそめた。落としている最中のコーヒーがコポコポと音を立て、香ばしい匂いが辺りに充満している。それだけで幸せな気分になれる、コロンビア豆の魔法。
 「何でもいいや、人間のことなんて。それよりオイラ、疲れたんで甘いものが食べたいな。クリームちょうだい」
 「虫歯になるわよ、マイ・ディア」
 「そりゃ歯磨きしないからだろ。オイラは違うぜ、最高に文明的な猫なんだ」
 「はいはい。−−あなたはいつものツナサンドでいいの、ジミー・ペイジ?」
 「今日は本当はどっちかっていうと、ヤードバーズな気分なんだけどな」
 「じゃあエリックって呼ぼうか?」
僕はどうでもいい、というように手を振って見せた。シンディが返そうとするカードも、受け取らなかった。
 「とっといてくれよ。どうせ部屋に置いといたら、埋もれてすぐに行方不明だ」
 「あら、いやよ。こんな大金預かっておくなんて」
 「ここ数か月分の家賃と、むこう半年分の家賃、それにここのツケ代を引いたら、大した金額は残らないだろ。」
 「それに今回の食事代ね。」
シンディはカードをレジスターに潜らせ、カチカチ数字を打っている。普段ならとっくに店じまいしている時間なだけに、他に客は誰もいない。表は真っ暗、街灯の火が侘しく雨に馴染んでいる。シンディが注文の品をカウンターテーブルに運んでくると、トムは歓声を上げて皿一杯の生クリームに鼻面を突っ込んだ。
 「あんまり勢いよくやると、顔だけ白猫になっちまうぜ」
忠告はしたが、聞いちゃいない。
 僕の前には淹れたてのコーヒーとツナサンド。カウンターの向かいには、興味津々のシンディ。
 「それで? 何か分かったの」
 「大して、何も。誰かが録画し損ねたテレビ番組のビデオだった。地球環境についての討論会だって。馬鹿馬鹿しい」
 「あら、それじゃ、あなたたちの居た地球っていうのは、それなりに先進的だったってことね。少なくともGlobalization って言葉を悲観的な意味で使えるくらいには」
 「どうかな。同じことを何百年も繰り返し議論し続けて、結局結論の出ないまま退化していった世界かもしれない。それに、あと2枚の魔法のカードのことも、気になるよ。これは、受け取ったら来いって合図だと思う?」
 「日時の指定は無いの」
 「在れば良かったんだが。」
いつもなら、報告が完了した時点で支払いは指定口座に振り込まれ、わざわざ出向く必要は無かった。”招待状”を受け取るのは、今回が初めてだ。
 「オイラはごめんだぜ。政府のお偉方のいるところには、行きたくないんだ。あんた一人で行って、ついでに定期健康診断でも受けて来いよ」
 「冗談だろう。お前がいなきゃ始まらないんだ、トム。お前だって、僕になにかあったら、ただじゃいられないんだからな」
 「知ったこっちゃないね。ただのお出かけだろう? 憂鬱な気分になるのは、一人でだって十分だ」
いつものやり取りを聞きながら、ミズ・シンディは苦笑いしていた。
 「やれやれ。難儀な体ねえ、あなたたちは。」
そう、難儀な問題だ。僕らの心臓は、どうやら、どこかで繋がっているらしいのだ。

 この世界に紛れ込んで間もない頃、僕とトムは別々の場所に連れて行かれ、それぞれ検査を受けていた。
 調査を依頼された科学者たちは、喋る猫、トムをたいそう不思議に思ったらしい。そこで、電気ショックを与えたり、採血したりしてあれこれやった。科学者が物事を明らかにすることに使いそうな、ありとあらゆる実験を。そしてトムに麻酔をかけて解剖しようとしたところで、僕の心臓が止まり、危うく死ぬところだったのだ。
 応急処置のお陰で僕は息を吹き返したが、これは大問題だった。猫を殺すのは罪にならないが、人を殺すのは罪になる。トムが呼吸困難に陥るだけで、連れの人間が死にかかると分かってからは、怖くて誰もトムに手を出さなくなった。
 ちなみに、この話にはもう一つおまけがついていて、僕が水疱瘡で寝込んだ時には、トムの体じゅうの毛が、ごっそり抜けてしまったのだ。おあいこさま、僕らは運命共同体。奇跡の一卵性双生児の如く、どちらか一方が不幸に見舞われれば、もう一方も幸せではいられない。
 それだけではない。トムが側にいない時には、<かつていた世界>から来るものがどんな記憶を秘めているのか、僕にも全く”視え”ないのだ。心臓だけじゃなく、脳のどこかも繋がっているのだろう、多分。
 それにしても、人生のパートナーが猫だったのは、幸運と言うべきか、不幸と呼ぶべきか?
 「なぁ、例の報告書、ちゃんと読んだのか?」
 クリームでべたべたになった前脚を丁寧に舐めながら、黒猫が聞いてきた。
 「あの、ビデオと一緒に送られてた分厚い紙の束さ。あんたのことだから、斜め読みすらしてないんだろ。ちったぁ、説明書を読む癖つけたほうがいいと思うぜ」
 「ああ、分かった、分かったよ。この間の電子レンジの件は悪かった。生き物を入れないでください、って注意書きを読み忘れて、うっかりお前を突っ込みそうになったのは謝る。だが、それとこれとは話が別で――」
 「オイラが怒ってんのは、あんたが天然記念物級のお人よしのくせに、殺人的ギャグを真顔でやりそうなところだよ。たとえば、自分の心臓をレンジでチンして自殺するとかね」
 相変わらずトムの言うことは難解でよく分からないが、腹がくちくなったことで、なんとかご機嫌は持ち直したらしい。
 僕も自分の皿を空にした。コーヒーもお代わりしたし、心残りは無くなった。
 「美味しかったよ、ごちそうさま。」
 「どういたしまして。それじゃ、おやすみなさい」

 湿っぽい事務所に戻ると、僕は早速、テーブルの書類に向かった。まともに椅子に座るなんて、そうざらにあることじゃない。トムはさっさと自分の寝床に向かったようだ。寝床と言っても、台所の隅にある、古びたワインの木箱なのだが。歯を磨くことは、どうやら忘れてしまったらしい。さっきの誓いをあっという間に忘れるあたり、まるで、小学生の子供のようだ。
 「勘弁してくれよ。虫歯の痛みは、肩代わりしてやれないんだからな」
呟いて僕は、薄暗いテーブルライトで報告書を照らす。文字の津波。無数の蟻の行列だ。僕がこの世界に来てから覚えた、ほぼ唯一のもの。それは「書き文字」というものだ。何しろ、こちらの地球に来た時、僕はまだ、小学生以前だったのだ。
 報告書は、お決まりの形式で無愛想に始まっていた。
 AE25-K次元穴は、15年前に世界中のあちこちに出来た次元の穴の中でも、最も調査が困難とされていた場所だ。標高6000メートルの高山の頂上近くにあるため、つい最近まで近づくことも容易ではなかったが、政府は調査のために、わざわざ世界で最も標高の高いベース・キャンプを建設した。そうして回収されたものが、このビデオテープというわけだ。
 強い風と吹雪のため、他に価値あるものが紛れ込んでいたとしてもとっくに四散してしまっている。巨額を投じた調査結果がこれでは、テープの解析に躍起になる気持ちも分かるというもの。僕には、フォレストの顰め面が見えるような気がした。「奴を呼べ。政府のお偉方を納得させられるだけの資料を提出させろ。」さて、金と政治にしか興味の無い連中に、地球環境について憂える討論会に出席したレポートが、喜んでもらえるかどうか。
 報告書の後ろ半分に添付された専門的なデータ集と白黒写真は、ぱらぱらと捲って流した。時計の針は、いつの間にか2時間も進んでいる。疲れてきて、重たい紙の束を、机の上に放り出した。トムときたら、とっくの昔の夢の中だろう…
 「アトランティック条約。アトランティック条約、ね」
すぐ側で自分以外の声がしたことで、ぎょっとして、椅子の背もたれから身を起こした。
 「トム、――」
 「おいおい、そんな、幽霊でも見たような顔するんじゃない。オイラまだ生きてるぜ」
 「そうじゃない、もう寝てると思ったんだ」
 「歯磨きを忘れてたことに気が付いてね」
なるほど。トムの口元から、ほんのり爽やかなスペアミントの匂いが漂っている。
 「なあ、どうなんだ。アトランティック条約、2105年、NATO加盟国が締結。こいつはちょっとステキな情報だと思うが」
 「そこが問題なのさ、トム。いま何年だ?」
 「ああん、2135年に決まってるだろ」
 「じゃあ、僕らはアトランティック条約の結ばれたまさにその年に、空に吸い込まれてここへ来たわけだ、すごいね。その年、この地球上で何があったか、覚えているかい?」
 「もちろんさ。消えた町なんか一つも無かった。吸い込まれたんじゃなくて、吐き出されたってわけだ。…たくさんのガラクタが世界中にね」
僕とトムの視線が、かっちり合った。そういうことだ。この資料が正しければ、親愛なるフォレスト氏がビデオテープを送りつけてきた意図は、一つしかない。
 「行くしかないな。これで決着がつくんならしめたものだろう?」
 「まぁ、な。あんた一人じゃ、何も出来ないだろうし。」
黒猫は気取って、ミントの匂いのする舌でヒゲをしごいた。
 「それはともかく、夜が明けるまで一眠りしようぜ。オイラ、夜行性じゃないんだ」
 「猫のくせに。」
言われなくても、夜中に動く気など、さらさら無かった。僕は久し振りにまともに文字を読んだせいで疲れていたし、一刻も早く、ベッド代わりの破れカウチに横になりたかった。テーブルライトを消し、資料を片付け、雨の音を聞きながら横になる。トムはいつものワイン箱に。
 頭の片隅で、声の低い男性ヴォーカルが、憂鬱とも爽快ともつかない声で熱心に歌っている。

 ♪Rain Rain Rainy Days, Rainy Night, Rainy Morning ......

 次の日、僕らはいつも通りミズ・シンディの店でゆで卵とトーストの朝食を取り、赤い路面電車に乗って出かけた。町はくすんだ灰色、海に続く坂道はなだらかで、下りきったところがモノレール駅。海の上を渡る橋で内海を突き抜けたら、向かい側のシティ中央にあるのが目的地だ。
政府の機関はいつも厳重警戒、入り口からしてしかつめらしい。ここまで来ると、町はようやく雨の支配から開放される。何ヶ月ぶりかの「晴れ」た空に、僕らは思わず目を(トムに言わせれば、瞳孔を)細めた。
 「さて。156階フォレスト氏のオフィスまで、乗り込んでく決心はついたかい? マイ・フレンド」
 「どのみち、持ってるのは片道切符だ。入るのはいいとして、出る時は誰か職員に頼むしかない」
黒猫を肩に乗せてロビーに入っていく僕を、警備員が胡散臭そうに眺めている。ここはペットの持ち込み禁止ですよ、なんてありきたりのことは言わないで欲しいものだ。トムときたら、ペットという言葉には非常に敏感なのだから。
 足早に受付に立つと、チケットを取り出して女性職員に渡した。「フォレスト氏に取り次いでもらいたい」
 「かしこまりました、ミスター。お名前は?」
黒猫が、ぴょん、と受付カウンターに飛び乗った。
 「こいつは名無しだ、オイラはトム」
女性職員は悲鳴も上げず、目をぱちくりさせたあと、速やかに平常心を取り戻した。
 「ああ、承っております。黒猫のトム様とお連れ様。フォレスト氏はオフィスでお待ちですわ。そちらの高速エレベーター2番からどうぞ」
 「ありがと」
僕たちは、2と書かれたドアの前に立つ。ここのエレベーターは特殊な作りになっていて、下り方向には動かせない。中にボタンは無く、受付嬢の指定した階にしか止まれない。客は、用のある階以外には、立ち入れないというわけだ。しかも100階まで30秒で到達する超高速エレベーターだから、途中下車の方法を考えている暇は無い。
 「いつも思うんだけどな、マイ・フレンド。あんた、いい加減、自分に名前をつけたほうがいいと思うぜ」
 「そうかな」
黒猫は僕の肩から飛び降り、動く床の上で落ち着かなさげに歩き回っている。
 「特に不自由はしていない。名前なんかあったとしても、呼ぶのは君とシンディくらいだ」
 「フォレストと善良なる部下の諸兄はどうする。可愛そうに、彼らときたら、君のことを話題にするたび、<多次元接続事象により当次元に転移した被害者>だの、<TK-0011にて発見された唯一の生存者>だの、長ったらしい名称を繰り返さなきゃならないんだぜ」
 「ああそう、名前があれば、確かにそれは1回で済むかもしれないな。けど、きっと彼らはこうしてる。多次元接続事象により当次元に転移した被害者、以下、被害者とする。または乙。契約書のノリでね」
チーン。音が鳴って、ドアが両サイドに開いた。僕らが降りると、ドアは素早く閉ざされた。目の前には、海に向かって明るく開けた大きな窓。渋く葉巻をくわえた男が、窓辺に佇んでいる。
 「ようこそ、君たち。元気そうで何よりだ」
フォレスト氏は両手を広げ、鷹揚に僕らを出迎えた。
 「ランチはもう済んだかな?」
 「いえ、まだ。さっき着いたばかりですから」
 「そうか。ちょうど私もこれからでね。最上階のラウンジはどうかな。それとも、ここがいい?」
 「ここでいいですよ。あまり腹は減っていないんです」
すぐさま会議室にデリバリー・メニューが用意され、僕らは政府御用達のマクドナルドから、ビッグマックセットを二つ、フィレオフィッシュを一つ、注文した。届くまでの間、フォレストは実に機嫌よく、当り障りの無い世間話などをしていた。トムは始終、ひげをピクピクさせ、隣のオフィスから漂う独特の匂いに神経を尖らせていた。

 「で、本題に入ると。」
30分後、スーツを来たボディーガード風のハンバーガー屋が配達に来たあと、フォレストはようやく、切り出した。
 「君たちの知恵を借りたいわけだ。あるいは、その能力か。同封のビデオテープは見てもらえただろう。何が映っていた?」
 「大した力になれるとは思いませんが。ついてた資料には、既にアトランティック条約のことが書かれていたじゃないですか。放映局はYBCテレビ。それに、何の心配があるんです?」
 「心配も何もだ。君は、おそらく資料をきちんと読んでいないに違いない。長い付き合いからの推測だがね。」
トムがくすくす笑っている。猫は気楽なものだ。資料を読め、なんて仕事を押し付けられることもない。
 「問題は、君が認識している以上に深刻だ。そのビデオ、…つい先週復元されたばかりのビデオだが、それと全く同じ番組というのを我々は突き止めたわけだ」
 「そうなんですか」
ポテトを頬張っていたお陰で、少々声がくぐもってしまった。フォレストは、辛抱強く繰り返した。
 「ビデオ内容と全く同じ番組というのを我々は突き止めた。しかしその番組は、まだ、この世のどこにも出回っていないはずのものだ。何故なら」
 「何故なら?」
 「その討論会は、今週木曜に放送される予定だからだ。2時間ものの特番でね。君のことだ、新聞はテレビ欄だけ読むどころか、そもそも新聞自体、見ていないんだろう?」
思わず、ポテトを喉に詰まらせそうになった。何だって? 今週木曜?
 フォレスト氏は、テーブルの向こうから新聞を投げてよこした。恐る恐る、ひっくり返して裏のテレビ欄を確認する。7時半から9時半まで。尚、野球中継の延長による遅延の可能性あり。…本当だ。
 「さて、今日は水曜だ、諸君。明日、どこかの誰かがビデオ録画をすると、15年前のビデオと同じ映像が映ると思うかね?」
 「今時は、テレビチューナーつきのパソコンでハードディスクに記録するほうがありそうだと思うんですがね。問題は、明日以降の”いつ”、”どこで”、僕らが巻き込まれたのと同じような現象が起きるのか、ということだと思うんですけど。」
トムはフィレオフィッシュをもぐもぐやっている。まったく、こういう時だけ、ただの猫のフリをするんだから。しょうがない。僕は用心深く、こう切り出した。
 「つまるところ、僕らに、何をさせたいんです? その現象が起きるかどうかの予測なんてつかないし、起きるとしても、明日以降のいつなのかが特定できるとは思えませんが。」
 「まあ待て、何もそこまで求めているわけではない。ようやく、我々の知る<時間>と、君たちのいた<時間>を繋ぐ点が見つかったのだ。今度は慎重に分析しなくてはならん。我々とともに来て欲しいんだ。あのビデオが発見された場所に。証拠品を山から下ろすより、それらを検証できる人間を送ったほうが手っ取り早い」
そうら、来た。トムのヒゲが右側だけピクピクしているのが分かる。
 「標高6000メートルの吹雪の中へ、ですか。それは魅力的なツアーだと思いますが、そこに何があるのかはお聞きしておかないと」
 「なあに、大したものじゃない。民家がまるまる10軒とオフィスビル、それに高速道路の一部と旅客機1機くらいのものだ。どれも凍り付いてはいるがね」
トムはヒーッと声を上げ、目をまんまるに見開いた。
 「そんなもの、まともに調査してたら、オイラ、ジジイになっちまうよ!」
 「その前に氷付けの像だな。悪いけど、フォレスト。そういうのは、そっちでやって――」
椅子から立ち上がろうとした途端、マクドナルド配達人が、僕を両脇からがっちり捕まえた。逃げようとしたトムも文字通り首根っこを捕まれて、脚をじたばたさせるばかり。
 「おい、やめろ! 何するっ、離せよ、おい!」
 「観念しとけ、トム。だいたいこうなることは予想してたじゃないか。しかし出来ることなら、南の孤島に連れて行かれるほうが良かった…」
 「あんたは諦めが良すぎるんだ! オイラごめんだぜ。やいフォレスト! 死んだら七代祟ってやるからな、覚えとけ!」
 「そいつは残念だ。私は結婚しない主義なんだ。たぶん、私一代で我慢してもらうしかない」
クールなボスは、部下たちに速やかな指示を下した。かくて僕らは高層ビルの真中テラスに作られた広いヘリポートから、ジェット機を乗り継ぐ空の旅へと出発したのだった。

 飛行時間にして8時間ほどで、僕らを乗せた飛行機は、雪の降りしきる山の麓に到着した。そこからチューブの中をリフトにて運ばれること半日。高山病になりかけながら、ようやくにして辿り付いたその場所は、とてつもなく天国に近い場所だった。
 「アッハ、見ろよ太陽が下にあるぜ、相棒。こいつは愉快だ。ここは何処だ? 天国かい?」
 「よしてくれ、トム。頭が痛くなる。空気が薄くてハイになってるのは分からないでもないが、声が響いてキンキンする」
雪の中にドーム状の天井が作られ、調査員たちの住まう小屋が建てられている。ホットコーヒーに真空パックのサンドウィッチ、どれも懐かしのミズ・シンディの手によるものとは比べるべくも無いが、今の僕らにとっては100ドル払っても欲しいくらいのものだった。
 さしあたっての必要品は、南極探検にでも行くような厚手のコートと滑り止めつき雪山ブーツ。猫用のものは無いから、トムにはコートの内ポケットに入ってもらうしかない。
 「不公平だよ」
トムは早くもブーイングの嵐だ。
 「あんたのポケットにちんまり納まって出歩けって言うのかい。これじゃ、オイラあんたのオマケじゃないか」
 「風速40mの吹雪の中を、君一人で出歩くつもりかい。5秒で行方不明確定だね。賭けてもいい」
 「そんな賭けはやらない」
フンと鼻を鳴らし、彼は前足で僕の頬を突っついた。
 「さっさと終わらせて帰ろうぜ。雪より雨のほうが、なんぼかマシだ」
それには僕も同感だった。今回の話には、珍しくフォレスト氏も同行している。それと、彼の部下、ジェネリーズ女史も。
 「良かったな。主治医が来てくれてるぜ。君が山の上で倒れても大丈夫なようにな」
 「冗談じゃ無いや。オイラが倒れたら、あんたも倒れるんだぜ。分かってんだろうな」
 「もちろんさ。ほら、連中がやって来る」
 「準備はいいかね、諸君」
体格のいいフォレストは、何を着てもバッチリ決まる。どこから見ても、これから雪山遭難の迫真の演技に挑む映画俳優。本当に、この吹雪がセットの一部だったら良かったのだが。
 「で、どうすりゃいい?」
 「まずは、君たちに見てもらいたい」
ドーム状の屋根に、一斉に明かりが灯る。体育館なみの照明だ。その下には、永久凍土にめり込んだ数々の品。たった15年前にこの地上に出現したわりには、ずいぶん古びて朽ちかけている。オフィスビル群と民家とがごっちゃになり、町の一部がそっくり切り取られて、瞬間移動させられていた。高速道路には見慣れた道路標識。その上に、でんと乗っかるオリエンタル航空のジャンボジェット機。
 「おいおい、ちょっと聞いてもいいかな、ミスター・フォレスト」
 「何だね」
 「あれはどう見たって、飛んでたものが落ちてきたようにしか見えないんですがね。でなきゃ、道路の上に飛行機が乗っかるわけがない」
 「もちろんだ」
 「中は、確かめたんでしょうね?」
何事にも動じないボス氏はにっこりと笑い、平然と、こう答えた。
 「君の言いたいことはよく分かる。つまり、中に死体が無かったかということだろう? もちろん調べた。不思議なことに、人っこひとり、人がいた痕跡すら、見つかっていない」
 「つまりここは、山上のバミューダ・トライアングルってわけだ。」
早くも頭が痛くなってきた。人が操縦していない飛行機が、空を飛ぶだろうか? 落ちてきた飛行機には人が乗っていないだって。たまたま飛行場で整備待ちになっていた飛行機が、オフィスビル群に紛れ込んだってワケか?
 「不可解な点は、これだけじゃない。」
 「そりゃあそうでしょうとも、
 「まあ、そう慌てずに聞いて欲しい。我々の調査の結果によると、……つまり、政府の調査機関による公式の見解なのだが、ここにあるこれらの事物について放棄されてからの時間を検証してみたところ、少なく見積もっても、100年は経っているという」
 「はあ?」
思わず声を上げずにはいられなかった。
 「どういうことです。僕らがこっちの世界に放り出されたのは、15年前だ。100年も昔じゃない。あなたたちだって知ってるはずだ」
 「ところがモノに蓄積された時間は、100年なのだ。本、写真、建物に到るまで。回収されたビデオテーブは何本もあったが、あまりに劣化が激しく、辛うじてデータが読み取れるまでに復元出来たのは、君たちに送った、たった一本だけだ」
 「100年も吹雪に埋もれていたビデオテープとしちゃ、奇跡的だな」
トムが、僕のコートの内側で呟いた。
 「どういうことなんだろう?」
 「それが知りたくて君たちを呼んだわけだ。説1として、多次元接続事象による<穴>は、同時に開きはしたが、個々の接続先が異なる。…つまり、君たちの出てきた穴と、この山の上に空いた穴とは、異なる場所・時代に繋がっていたという説だね」
 「それじゃ説明がつきませんね、フォレスト。だって、100年前の”遺跡”から出てきたビデオに、明日…いや、もう今日かな、今日放送される番組の内容が映っていた。100年前に、YBCテレビは存在しなかったんでしょ?」
 「そのようだ」
 「じゃあ僕は説2を取るな。ここにあるものは、今より”未来の”ものなんだ。」
 「魅力的な説だが、説明がついているようでついていないな。15年がどうやったら100年になるものか。それに、モノが未来から過去へ移動することが可能かね? 通常は考えられない」
 「僕らがここにいること自体、もうとっくに、通常は考えられないことだと思うけどね。」
またもトムが呟く。コートを着ていても息が白い。じっとしていると、だんだん意識が遠のいてしまいそうだ。それはもちろん、フォレスト氏も同じこと。
 「この廃墟、自由に見せてもらっていいんでしょうね。」
 「無論、そのために君たちをここへ呼んだのだ。あらかたの調査は終わっている。何か視えたら、知らせてくれ。」
フォレスト氏は白い息を吐きながら去っていった。さあて、仕事だ。今回はクレバスに落ちなくて済みそうだぞ。
 黒猫が、ふさふさした毛の襟飾りの間から顔を出した。
 「どうすんの、コレ。片っ端から調べてちゃぁ、それこそ、あと100年あっても足りないぜ」
 「アテはある。」
僕は、両手を擦り合わせて暖めながら、言った。「覚えてるか? 僕らが、こっちに飛ばされた時のこと」
 「さあ? オイラは、その辺りのことは分からないな」
 「空に穴があいたとき、僕らの元いた世界では、町が一つまるまる消えたんだよ。その場所は海の側だった。その町が、多分こいつだ。こっちの世界で、ほかに町が降って来た場所は無いようだし、消えた以上、その町はどこかに降らなきゃならない。つまりそれが、此処だった」
 「他に消えた町が無けりゃね」
調査員たちが歩きやすいよう、雪は取り除かれていた。そこかしこで、まだショベルカーやクレーンが動き回っている。自然破壊どころではない。
 ひしゃげたジャンボジェット機は、だらりと滑車を下げ、高速道路の端っこに引っかかっていた。
 「何で町が消えるところが見られたのか、ずっと不思議に思っていた。幻を見たにしちゃハッキリしてたからね。謎がようやく解けた。僕は多分、あの飛行機に乗っていたんだと思う。そして窓際の席から見てたんだ、どうだい?」
 「なるほどね。あんたは長年追い求めて来た記憶の一部を、どうやら見つけたってわけだ。で? 続きはどうなるんだい、相棒。」
 「この飛行機は、僕らのいた世界の時間で2035年の”今日”より”未来”の空を飛んでた。けどそれは、この世界から見て85年は”昔”のことだった、って話」
 「はあ。100引く15ね。つまり…」
黒猫は耳をぴくぴくさせた。
 「つまり、今いる地球と、ここにあるモノが来た地球は、時間の流れの違う地球ってコトかい?」
 「ま、ありきたりに言うと、そうなる。時間と空間とが、並行して同時に存在することを許されているのならね」
僕らは、壊れたジャンボジェット機の中に入ってみた。シートは凍りつき、床の絨毯は毛羽立ってトゲトゲした氷の塊になっている。乗客も荷物も、全て無くなっていた。天井が半分無くなっているから、そこから外に散乱したのかもしれない。
 「オイラは何処にいたんだろうな。飛行機ってのは人間が乗るもんで、猫が乗ってるとは思えないけど」
 「乗ってたんだな、それが。旅行先で拾って、捨てるのが可愛そうで、親に黙って機内に持ち込んだんだよ。手荷物検査で見つかるとマズいから、ずっとコートのポケットに入れてた。猫は金属探知機に引っかからない」
 「本気か、おい!」
 「そのお陰で、フライト中は気が気じゃ無かったね。何度もトイレに立っては、君が死んじゃいないか確かめたもんさ。」
トムは、半信半疑の目で僕を見ている。
 「冗談とは思えないだろ? そう、多分、合ってると思う。自信は無いけど」
僕は冷たい飛行機のシート、H列の25番目に腰を降ろして目を閉じ、しばらく考えてみた。これ以上に、確かな記憶はなさそうだった。記憶が空っぽになったその瞬間、自分が何処にいたのか思い出した気がした。席の間を歩き回るスチュワーデスの姿が視える。窓の外の視界は良好、近づいてくる陸地。座席についたヘッドホンから流れる曲、「RainyDays」。アナウンスが流れる、間もなく本機は着陸体勢に入ります…
 「起きてるか、相棒。」
 「ああ、起きてる。」
 「こんなところで寝ると、死んじまうからな」
トムは落ち着かなさげに内ポケットの中で身じろぎする。暖かな感触。あの時も、コートの中に隠した子猫のトムの感触をずっと感じていた。飛行機は滑走路に向かって高度を下げる。飛行場のある町が眼下に迫る。海沿いの町、オフィスビルと民家の交じり合う都会。ど真ん中を高速道路が横切っている。僕は歌っている。「RainyDays」。外はとてつもなく良い天気なのに。視界良好、風速0m。本機はこれより、着陸体勢に入ります…

 人の気配を感じて、僕は顔を上げた。フォレストと部下たちが、飛行機の入り口に立っている。
 「なかなか戻らないものでね。心配した」
 「そんなに時間が経ってたかな」
立ち上がろうとして、脚が冷たくなっていることに気づいた。手も痺れている。それとも、頭がか。
 「何か視えたかい」
よたよたしている僕の姿を見て、フォレストは半笑いだ。
 「色々ね。どこかで暖かいコーヒーを貰えないかな。なんだか気分が悪い」
 「それはそうだろう。氷点下で居眠りなんてするもんじゃない」
情けないことに、両脇を抱えてもらわなくては歩けなかった。瓦礫の山から引っ張り出され、ストーブの前に座れた時、僕は心底ほっとしたものだ。
 「さて、報告を聞こう」
フォレスト自ら、湯気の立つマグカップを差し出した。
 「何があった?」
 「大したことじゃない。自分のいた場所を思い出したくらいだ。トムとの馴れ初めもね」
 「結構なことじゃないか。で、それは過去なのか、未来なのか?」
 「どっちでもない。」
 「どっちでも?」
 「今から100年前、僕らのいた世界は、この世界の”今”より未来だった。つまりこの世界の”今”、僕らのいた世界は、事件が起こってから100年経っている」
しばし、沈黙が在った。フォレストは、僕がコーヒーをすするのを、ただじっと眺めている。
 「…つまり?」
 「つまり、だ。喩えるなら、沢山のテレビが時間をずらしてビデオテープを再生してる。あるテレビではオープニングを再生してるのに、別のテレビは半ばも過ぎたシーンが映っている。今いる地球に映っているシーンは、僕らの居た地球では、100年前に再生が終わったシーンだってこと。あんたたちが最も知りたがっていることを、ズバリ言おう。”多次元接続事象”は、どの世界でも、どの時代でも、今後起こりうる。この地球でも、どこの地球でも。起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。」
これは政府機関の見解としては、あまりにアバウトすぎるかもしれない。まあいい。その辺りの言い回しは、フォレストと優秀な部下たちが上手くやってくれるだろう。報告書を書くのは、僕の仕事じゃない。
 とどのつまり、僕が持ち帰った答えは、いつ地球が終わるのか、いつ自分が死ぬのかは、分からないってことだ。――明日なのか、100年後なのか。今までと何も変わらない。”明日”というものに対する危機感、あるいは保険屋の新規加入料は、ほんの少し、上がるかもしれないが。
 「成る程。異なる世界、同時に存在する、異なる地球ね…」
フォレストはあごをしゃくり、部下たちに何ごとか指示を出した。彼は馬鹿な男じゃない。彼なりに、僕の言わんとしたことを理解したのだろう。
 「引き上げだ、行くぞ。報告をまとめねばならん。回収出来たデータを持って」
 「僕はもう一日か二日、ここに居てもいいですかね、ミスター・フォレスト。何しろ疲れたんで、いま往復させられると死にます」
 「好きにしたまえ。ジェネリーズはここに残るだろう。私は一足先にお邪魔させてもらうよ。」
 「お忙しいことで…」
僕はたちまち、あくびをした。眠くて体が泥のようだ。高度6000メートルまで一気に駆け上がって、すぐに駆け下り、また8時間も飛行機に詰め込まれるなんて、真っ平だ。平気でいられるフォレストは、人間じゃないに違いない。
 「――ああ、そうだ。聞きそびれていたことがあったな」
出て行きかけたフォレストが、足を止めて振り返る。
 「分かったんだろう? 自分の名前も。<100年前の地球>で、君は何と呼ばれていた?」
 「レイン」
 「レイン?」
 「そう、雨のレイン。女みたいな名前だろ? 雨好きの祖母が、つけてくれた名前さ。」
見る見る、フォレストの顔に笑みが広がっていく。苦笑いか、それとも嘲笑か。どっちでもいい。この寡黙ぎみのナイス・ガイが満面の笑みを浮かべるところなんて、一生にそうお目にかかれるもんじゃない。
 「成る程、レイン、ね。そいつは、忘れられそうに無い名前だ。ではレイン君、今回は助かったよ。また連絡する」
言うが早いか彼は、部下たちを引き連れて、カツカツ足音を鳴らして消えていった。
 トムが、コートの合間から顔を出す。難しい話は僕に任せるつもりで、隠れていたんだな、こいつ。
 「何だろうね、あれは。”また連絡する”だって。オイラたちの役目は終わったはずだけどな。食事にでも誘うつもりかね?」
 「さーて。心霊調査にでも使われるんじゃないかな。ダウジングで死体を探し当てるとか、モノに触れて持ち主を探し当てるとか。」
 「冗談。そんな仕事、やってらんないね。第一、あんた、もともとこっちの世界に在ったモノのことが分かるのかい」
僕には答える気力も無かった。ただ眠りたかった、それだけ。…僕は泥のように、パイプ椅子に沈みこんでいった。

 金曜日、僕たちは懐かしの町に降り立った。町の中心に聳え立つ政府機関は今日も前面ガラスに眩しく光を反射させ、清清しいばかりに空は晴れ。入り組んだ湾の向こうの町が年中灰色に曇っているのとは、対照的に。
 一般旅客機に猫は乗れないから、フォレスト氏がチャーターした政府機密機関御用達、高速旅客機ビジネスシートにてゴージャスな空の旅だ。途中で乱気流に巻き込まれたりしなければ、もう少しマシな旅になっただろうが。
 「ああ。腰が砕けそうだ、もうよろよろだよ」
 「何言ってる、ずっと寝てたくせに」
明るい日差しに思わず目を細め、僕はふと、飛行場の向こうに見える景色に気が付いた。
 「…ここ、なんだか、見覚えがないか」
 「ああん? あるに決まってんじゃないか」
トムは、僕の肩から飛び降りた。
 フェンスの向こうに、都市から流れ出す汚水でどんより濁った内海が見える。魚はいるけど食えたものじゃない、誰かが言っていた。そう、父さんだ。週末に、あの道を家族で歩かなかったっけ。そう、たぶん、間違いない。曇った町に、もし光が差していたら。海沿いの道に並ぶ色とりどりのカフェのひさしがあったら。尖ったビルの壁一面にペンキを塗ったくった、「週末はレンタカーで!」と書かれている趣味の悪い広告が、もっとハッキリしていたら。
 「オイラたちの町だろ? もう忘れちまったのか。」
黒猫が呆れたように尻尾を振る。
 「しっかりしてくれよ、相棒? 今から、あそこへ帰るんだろ」
 「そうだったな。」
思わず、笑いがこみ上げてきた。そうだったのか。15年前、僕が帰ろうとしていたのは、”あの”町だったんだな。
 思い出したばかりの、あの歌を口ずさんでみた。低い男性ヴォーカルの、暗いんだか、明るいんだかよく分からない、100年ほど前の、今はたぶん、100年ほど未来になっているはずの、あの世界の曲。

 ♪Rain Rain Rainy Days, Rainy Night, Rainy Morning
  A rainbow comes after rain , over the rainbow,There's a land that you know...

 家を開けていたのは、――たった数日のこと。
 ただいま、ミズ・シンディ。

 

僕は、今、ここに居る。[fin]

岡沢秋
WRITER 岡沢秋
パソコンで原稿書くと、考え事してる最中に横においてた湯のみひっくり返す悲劇が起こらなくて、いいっスね。
…キーボードの間に茶が入る悲劇は起こるけど。(あっはっは! もう茶ァ飲むな自分!)
URL:空想絵物語館 Fifth Season

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