Folio Vol.10目次など

エレベーター

Case1

「あなたは気が小さいから、浮気なんてできるタイプじゃないわ」
 知り合って一年。マユミの横顔からも窺えるある種の余裕。セックスの余韻に浸るマユミの小さな吐息に、ヴァージニアスリムの紫煙が静かに揺れる。
 僕はホテルの安っぽいライトを見上げていた。現実を直視しないように目を細めていた。
「浮気ってね、何よりも、勇気が、必要なの」
 時々マユミは様々な恋愛経験によって得た知識(大抵それは女性雑誌でも得られる知識なのだが)を、重要な事項を伝える上司のような口調で、言葉を変に区切りながら僕に提供してくれる。
「あなたはその勇気が欠如してるのよ」
 そして僕を安易な関連付けで、『私の理解力』という箱に詰め込もうとする。少ないデータで考察して、都合よく分析して、偏った結論に導く。こういった女性がよく用いる思考手段。
「だから私は安心してあなたの傍にいることができるの」
マユミはヴァージニアスリムを小指を立てながら揉み消して僕の腕にしがみつく。汗とシャンプーと煙草の煙が複雑に絡み合った匂い。いつものホテルの匂い。マユミの匂い。
「心配しなくていいよ」
僕は右腕にしがみついたマユミを見ながら呟く。左手でマユミの髪をそっと撫でながら。右手で膝の裏を掻きながら。
―――僕は不器用だから、同時に人を愛することなんてできない。
「でもあなたが浮気でもしてたら」
ふと顔を上げたマユミは、僕の顔を好奇に満ちた瞳で眺め、「できるとは到底思えないけど」短く微笑みながら付け足して、
「オデコに『ウワキシテマス』って文字が浮かびそうだもんね」
再び僕の僕の腕の中でフフフッと笑った。
「そんなことないよ」
僕も額を撫でながらマユミの笑い声を真似てフフフッと笑った。

Case2

「ねぇタカシはどこからが浮気だと思う?」
 美沙はバラエティ番組から視線を外さずに僕に話し掛ける。付き合って三年。スウェット姿で横たわり、時々尻を掻きながらポテトを貪る美沙の後姿には、微塵の色気も感じられない。ジャケットを脱ごうか迷ったが、そのまま着ていることにした。今日も早く帰るつもりだ。
今ではここに留まる理由を考えるほうが難しい。
美沙は僕の答えを待たずに、画面に映る俳優を指差して口を尖らせた。
「二人きりで旅行行ったって、これ完全に浮気でしょー」
 倦怠期。突然のプレゼントで喜ばせようとしたり、虚飾の衣をまとい自分以上のものを見せようという気持ちが消え失せ、もはや二人の間には新しい風が入り込む余地はなく、そこにはただ生温い風だけがゆっくりと流れている。
 デートにオシャレをすることもなくなった等身大の二人は、日常的な空間が悲しいほど身に馴染んでいた。虚飾の衣は、もうハンガーに掛けてある。
「キスしたら浮気だよ」
 本当はそんなこと微塵も思ってはいない。手を繋ごうがキスしようがセックスしようが、そこに気持ちがなければ浮気ではない。意図的に「キスしたら」という中学生が恋愛相談を受けるような稚拙な表現をして、美沙を安心させている。不適切な表現をすると、油断させているに過ぎない。
「でもこれって浮気される方も悪いよね」
 美沙は相変わらずテレビを見たまま話し掛ける。
仕事が忙しい男が構ってくれなくて、「寂しかった」という理由で女が浮気する。よくある話だ。テレビはありきたりな話を何百回も僕たちに伝えて、僕たちは同じことを何百回も考える。テレビ局が馬鹿でも僕たちが頭が悪いわけでもない。
ただただ、皆そんなことを真面目に考えていないのだ。
「うん。される方も悪い」
 僕は視線はブラウン管ではなく、美沙の後姿に向かってそう呟く。着古されたピンクのスウェットは、色褪せてしまった美沙の姿と不思議に調和している。
小さな溜息を吐き、ネクタイを無造作にポケットに入れ、「じゃあ」とワンルームマンションの小さな玄関に向かう。
「もう帰るの?」
「明日、早いんだ」
 仕事帰りは美沙のマンションに寄る。一年目はただ顔が見たくて。二年目は温もりが欲しくて。そして三年目はただの習慣で。
「今度の休み、どっか行こうよ」
 美沙は億劫そうに立ち上がり、玄関に向かう間も番組の内容を気にして何度も後ろを振り向くきながら話し掛ける。
美沙がテレビの方へ振り向いている間に二度目の小さな溜息。聞こえたって構わない。
「どっかって?」
「うーん……。どこでもいいけど」
 一緒に行く場所も、食べるものも、そして二人を繋ぐ親密な会話も、少しずつ、少しずつ、形を失っていくのがわかる。
ポケットの中で携帯のバイブが小さく揺れる。
「ホラー映画、見に行こうか?」
 僕は携帯を取り出し、着信を確かめる。
「えー。私は別にいいけど、苦手じゃなかった?」
「最後まで見る勇気があるか、確かめてみたいんだ」
「変なの」

Case3

 部屋を出てエレベーターに乗る。美沙が住むマンションのエレベーターの中は携帯の電波が入らない。僕はこのエレベーターの中で、本当の一人になる。
刹那の孤独の中に、地上へ向かう重力の中に、目を閉じて身を委ねる。
 美沙のマンションを出て、「今から向かう」と、メールを送る。
「オデコに『ウワキシテマス』って文字が浮かびそうだもんね」
いつものホテルに向かうまでに、マユミに笑われないように、何度も額を撫でながら。 fin

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[comment]真実を直視するには勇気が必要だけど、必ずしも愛は必要とされないそんなTRUE STORY.
[site]歪み冷奴