Folio Vol.10目次など

LOOM

佐藤尚志

 何となく呆然としながら、性欲の尽きたような蒼白を抱いて部屋を出た午前二時。
間もなく朝が訪れる頃、今日一日、自分が何をしていたのかなど気にする必要はないが、今を以って、せめて明日一日をどのように生きるかは悩んでおくべきだ、まだ十分に間に合う。そんなことを考えながら重たいガラス扉を押し開けると、嫌がらせのように氷の粒が纏わり付いてきた。ホワイト何たらとはドラマやアニメの世界の話だと思っていたけど、違った。現実が歪んでドラマを構築するのだから、当然有り得ることだった。
寒いのは嫌い、とあの女は言った。俺も、と答えると、女は立ち上がって窓を開け、ベッドに横になった。
「寒いんだよ。」
「寒いと、何か不都合?」
「あのね。あなたが寒いのはイヤだって…」
 溜め息。空き缶が倒れて、俺は窓を閉めた。閉ざされた空間は檻のような、それにしてはやけに殺風景が爽やかな。
「息苦しい。」
「寒いのと、どっちが良いですか?」
「寒くない。」
「話になりませんね。しかし前の男は、そんなあなたを愛していたのでしょう。」
「知らない。アタシ嘘吐きだもん。」
「嘘でも良いよ。」
 良くはない。嘘や隠し事にはもう散々躍らされた。それでも、全てを受け入れる懐の深い人間を偽り演じたくて、その夜は自分から嘘を吐いた。
「同じ食器、同じコップ、同じハブラシ、一通り揃えて、一緒に買い物をして、料理をして、初めて結婚まで考えた。付き合って二ヵ月。」
「二ヵ月?」
 俺は気の利いた言葉を選べなかった。
「俺の方が長いな。もう二年は経ちます。」
「浮気したわ。」
「誰と?」
「昔の女。フラれて落ち込んでるからって、家に呼んだんだって。近所に住んでいて、2年付き合ってた。放っておけない、ゴメンゴメン、って何度も。」
「正直な男だな。」
「泣いてたけどね。」
「そりゃあ嘘吐きだ。」
「…」
「嘘吐きな男が好きなんですか?」
 女は黙っていた。そろそろ妖艶さを醸し出しても良い時間帯だったが、そのような気配はまるでなかった。もしかしたら、そこにあったのは朽ちかけている女の形をした人形だったのかも知れない。
「嘘は、もう嫌。」
「知ってます。」

 静寂は、白。
僅かに漂う冷気が白光の下で埃を包み、雪のようにチラついた。室内にいながら、吐息がいちいち濁ってイラついた。
 女の溜め息が寝息へと変わった頃、俺は壁にだらしなく垂れている上着を掴み取ってポケットに財布を捻じ込んだ。とにかく生活感が欲しい。そういう思いは、ひとつ彼女の寝顔でも覗いてやるかという気遣いまでには至らず、この場から逃げ出して、独りきりで余計なことばかり考えながらロマンチストを気取ることがおそらく至福だと考えていた。
 飲みかけのカシスオレンジを流しに捨てて、電気を消した。

 『出会いって運命的。例えば道ですれ違った人がハンカチか何かを落とすでしょ?私が拾ったら声を掛けて、手渡してあげるの。もちろんお礼を言われるわ。でも、その人がどんなに素敵な人だったとしても、相手が私に魅力を感じてくれたとしても、お礼がしたいのでお茶でもしませんか?なんて、決してそんな形には流れない。なぜなら、それは運命じゃないから。運命っていうものはそんな偶然なんかじゃなくて、もっと自然で、当たり前のように近くて、近すぎて見えないくらい側にいて、もっと後になってから気付かない?ああ、運命の歯車はあの日に回り始めたんだわ、って。偶然や奇跡の類に運命を求めるなんて馬鹿げてる。でもね、勘違いしてしまう事だってあるの。だって、心は意思を持たないから。』

 ロマンチストは寒さを越える。不都合であればあるほど己の背景に飾り立て、無残な演出を施す。それに今日はホワイト何たら。不都合に塗れてゴチャゴチャになったロマンチストは、三百円を握り締めてさまよった。果たしてロマンチストは牛丼を食べるだろうか。部屋に戻って女を揺り起こして朝まで抱いてやる方がよっぽどドラマチックで淫靡だろう。俺は散々路頭に迷ったフリをして、コンビニに駆け込み三万をキャッシングした。四百万という残高を確認したら全てがどうでも良くなった。
 牛丼とウーロン茶と二十円のチョコを一掴み買って、誰もいない公園で食べた。生活感を求めて辿り着いた場所にしては、やけに臆病で真っ暗で疎外されたような感覚を得ていた。数時間後には朝を迎えるであろう世界。俺は時計を持っていなかった。
時々、惨めになりたいという悪い癖が出る。例えばヨレヨレの部屋着で渋谷の街を歩くとか、買ったばかりのソフトクリームを落とすとか、平均点が九十点のテストで三十点を取ってしまい、点数の部分を三角に折ってカバンに捻じ込むとか、何でも良いから惨めになりたいという自虐に陥る悪い癖。もしかしたら、それが俺の本質なのかも知れない、と思うこともあったが、その度に出来の良いサーモスタットが過熱を抑えるから、残念なことにいつも俺は俺のままだった。
 考えられる全ての暇潰しを実行し、世界が完全に目覚めた頃、部屋に戻ると女は変わらずベッドの上にいた。時間なんて幾らも経っていない筈だったが、部屋の中だけは呼吸の気配がまるで感じられなかった。息苦しいというのは感覚的なものだとばかり思っていたが、それこそ吐き気がするくらいに濁っているということは、考えられるとすれば部屋が汚れすぎているのか、それとも自分が綺麗になりすぎたか。
 置き去りにされた時間の中で、女は美しくなっていた。昨晩見た女は、それこそ捨てるに捨てられないフランス人形のように、何処を触れたら良いのか分からない顔風を保っていたのに、今はとても穏やかな寝顔でいる。女の寝ている姿は、紛れもなく俺の日常だ。それも、違和感だらけの日常。
「おかえり。」
「起きてたんですか。」
 身体ごとこちらに向き直りながら、起き上がった女の表情は落ち着いていた。肩まで届かない髪が少しだけしわくちゃになりながら、ハッキリしない顔のラインに沿って、女の表情を誤魔化している。一晩で何を得たのか、それとも捨ててしまったのか。女は床に転がっている小さなバッグと上着を拾い上げると、
「じゃあ、帰るね。」
 とだけ言い残して部屋を出ていった。俺の方はと言うと、もちろん送り届ける気など全くなかった。
昨晩の全てが夢だったかのように努めて振舞って、まず台所を片すと、しばらくの間テレビをぼんやりと眺めた。女性キャスターは早朝から笑顔で尊敬する。たまに深刻な顔をしたかと思えば、可愛いマスコットキャラクターが踊る映像に合わせて星座占いを読み上げる。しかし、それだけだった。男とは、女とは。そういった哲学的な話はしてくれないのだろうか。ドラマと現実の違いを主観的でも良いから話して欲しかった。誰でも良いから話してくれよ。嘘でも良いから何か話して。言葉に出来ない何かを求めてチャンネルを一通り回すと、溜め息でテレビを消した。空は完全に明るくなって、揺れるカーテン越しに景色が透けて見えた。窓が開いていたことに、疑問は持たなかった。

「アタシ、自分のことばっかり考えてる。」
「そうなんだ。」
「気が付いたらいつも。でも相手が自分のことばっかり考えてたら嫌じゃない?」
「俺はそれが当たり前だと思ってるんで、別に。」
「みんな言ってた。向こうは傷つきたくないから、嘘を吐いてるんだって。結局自分のことしか考えないから、人に対して嘘を吐くしかないんだって。でもさ、世の中の嘘って、ほとんどは相手の妄想じゃない?だって誰かが言ったことってさ、それが本当か嘘かなんてこっちには分からないし、嘘だと思えば嘘になって、本当だって信じれば、それが私の真実でしょう?」
「話がメチャクチャですよ。自分のことばっかり考えてるのに、相手を信じる信じないって。自分勝手なら、相手のことなんてどうでもいいじゃないですか。」
「彼は絶対に嘘を吐いてる。だけどアタシは自分勝手だから、彼が好きだから、どうしても信じたいの。」
「分かった。それ、うん、気付いた。閃いた。そんなにややこしいことじゃないですよ。それ全部含めてあなたなんです。だから、好きにしたら良いと思う。」
「それが分からないから聞いてるんじゃん!」
「自分で分からないことを人に聞いたって知ってるはずないでしょう?昨日のドラマどうだった?って聞いてるんじゃないんだから。」
「相談ってそういうものでしょ!?」
「さいですか。」
「ほんっと使えない。」
「知ってたでしょ?」
「まぁね。」

 ぼやけていたものが、徐々に姿を現し始める。何かこう、夜明け。そうだ、あの日の公園。錆びたベンチで少しだけ意識を落としてから、ふと起こした視線の先にうっすらと広がった世界の輪郭は、それは紛れもなく俺がいる世界の端っこで、シルエットがはっきりと分かってしまう前に、俺は部屋へと戻ったんだ。あのぼんやりとした世界によく似ている。曖昧なものが好きだから、ハッキリしない感覚からどうしても離れられなくて、どうすることも出来ないまま、結局俺は俺だった。
 俺は嘘を吐くのが苦手だ。
 だから、自分にしか嘘は吐かない。
 一眠りしたいけれど、女の香りが残るベッドに横になる気にはなれなかった。何をするともなく、ただ白い息を吐き続けながら、今はひたすら、惨めな自分を忘れようとしている。静かな部屋、開け放した窓、冷たい風、カーテン越しの景色、僅かに残る女の声、香り、そしてロマンチスト。 fin

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