Folio Vol.10目次など

カメラ

寒竹泉美
A.彼女の恋人と彼女
 それは違うね、というのが彼女の恋人の口癖だった。彼女の恋人、Oはもの静かで聡明な男だった。確証のないことを思いつきで言ったりはしないし、物事の道理というものをよく分かっていた。彼の口から紡ぎ出される言葉は、優秀な彼の兵だ。無駄な動きを最小限に抑え、的確でリーズナブルな動作で目的を遂行するよう訓練されている。彼女は、Oの口からずらずらと出てきた優秀な兵たちが、一分の狂いもなく整列し、そして一斉に銃を構えるのを眺めるのは好きだった。しかし、兵たちの銃口はいつでも、彼女の心臓にぴたりと向けられていた。
「で、君はどう思う?」
 自分の兵隊を並べ終わったOは言う。さあ、今度は彼女が手持ちの兵隊を吐き出す番だ。
B.彼女とカメラ
 それはそうと、今、この瞬間、彼女に向けられているのは言葉の銃口ではなく、イメージのレンズだった。比喩ではない、文字通りレンズだ。レンズを通して見る彼女は、強張った表情でこちらを向いている。美しいが静物のようで、視線に力がない。何より景色とちぐはぐだ。彼女の二つの瞳から放出される光は、レンズまでのわずかな距離を待たずしてきらきらと光る緑の絨毯に墜落していた。墜落した芝生の草の露を煌かせることもない。その一方で、地面を這うようにして伸びてくる太陽の光は、あれほど遠くからだって意志を持って草を金色に染めることができるというのにだ。金色の光は、レンズを睨んで沈黙している彼女をも包む。彼女はふとレンズから視線を逸らした。このまま光に溶けていけばいいな、と彼女は思った。シャッターを切る機械音、それに続くフィルムを巻き上げる音がこの世界を一旦区切った。
C.彼女の恋人と彼女・2
 わたしもそう思うわ、というのが彼女の口癖と言っても差し支えないだろう。Oの兵隊への降伏宣言だ。彼女はいつも両手を上げて、自分に敵意のないことを彼の兵達に示すのだ。全くの降伏。彼女は他人と議論するのを好まなかった。
 しかし、Oは他人と議論するのを好まない彼女を好まなかった。銃口は心臓に向けられ続ける。兵隊は各々の銃の撃鉄を起こす。
D.彼女とカメラ・2
 シャッターを切る音は兵隊たちが一斉に何かをしたときの小さな音の総和に似ている、たとえば撃鉄を起こしたような。と、彼女は思った。彼女は再びレンズを睨んで、今度はこわごわ微笑んで見せた。続けてシャッターを切る音。ここでは、兵隊は撃鉄を起こし続けるが、弾丸は決して発射されない。つまり、彼女はレンズに対して両手を上げる必要はないのだ。もう一度笑う。今度はさっきよりも滑らかだ。しかし、相変わらず、目の光はレンズまで届いていなかった。
E.彼女の恋人と彼女・3
 Oは、自分の意見について彼女がどの部分をどのように「そう」思ったのか、納得するように喋らない限り、自分の兵隊を解散させることはなかった。彼女は出来るだけ、頭を整理しながら、明確にそして論理的に自分の考えを説明しているつもりだ。彼女の兵隊だって、まんざら捨てたものではない。数も少なく、戦う意志こそないが、洗練された動きで整列する。
 Oは兵隊に銃を構えさせたまま、彼女の兵隊が整列して行く様を見ている。静かな知性を湛えた彼の目は、彼女の兵隊の一挙一動を見逃すことなく、事細かにチェックしていく。やがて、彼女は兵隊を並べ終わり、額の汗を拭って顔を上げる。Oを見て微笑む。そう、まさにその瞬間、彼は彼の兵隊たちに射撃命令を下すのだった。
「それは違うね」
F.彼女とカメラ・3
「何かが違うんだ」
と、レンズの向こうの男が言った。男はOと同一人物ではない。通りでたまたま声をかけられた、ついさっきまでは彼女にとって見知らぬ存在だった男だ。彼女は男の言葉に肯いた。自分でも何かが違うと思っていたからだ。
「目に力がないんだ、ここまで届かない。分かるかな?」
 彼女はもう一度肯く。でも、どうしたらいいのか分からない。
「レンズの向こうにいる僕のことは意識しないで。レンズを見て。そう、レンズの向こうにいるのは僕じゃない、君だ。君が君を見ているんだ」
 彼女はレンズを見た。分厚いガラス。自分の顔が歪んで映っている。
「今ここにいる君が切り取られて写真になる。写真になった君を君が見るんだ。いい、想像するんだ。写真になった君を君が見る。君は君に見られているんだ」
 わたしが、わたしに見られている。彼女はレンズの向こうにいて自分を見ている自分を想像した。わたしを見ているわたしには輪郭がなかった。形もない。わたしがわたしを認識する時は形なんていらないのだ。身体も顔もない、質量も体積もない、わたしそのものがわたしを見ている。
「そう、いいね。少しよくなった」
G.彼女の恋人と彼女・4
 ドン、と鈍い音とともに、彼女は倒れる。Oの優秀な兵隊たちは一人として的を外さない。彼らの弾丸は、彼女の心臓の左心室から伸びる大きな血管の排出口を一斉に封鎖する。彼女は心臓を押さえて倒れる。しかし、横たわっている暇などない。次の瞬間には、彼女はすぐにでも立ち上がらなくてはならない。言葉の兵隊たちは、彼女を実質的に傷つけることはできず、実質的に傷ついていない以上、何事もなかったふりをしなければいけないのがこの世界のルールだからだ。
H.彼女とカメラ・4
「場所を変えようか、」
 カメラのレンズがいつの間にか下ろされて、男の顔が彼女を覗きこんでいた。彼女は改めて男の顔をじっくりと見る。レンズを見つめるようにじっくりとだ。男は彼女から目を逸らすと、辺りを落ちつきなく見渡した。そして彼女の手をとった。男の手は最初冷たく、それから温かかった。彼女は男が触れたことを意外に思ったが、悪くないとも思った。
「場所を変えよう、人の目も出てきたことだし」
と、男はもう一度彼女を促した。逆光の中微笑んだ。
「僕の部屋で僕の恋人と君とのツーショットを撮りたいんだ」
 彼女は、肯いた。
「ええ、いいわ」
それから二人は手を取り合ったまま、落日の余韻が消えた芝生の広場を後にした。

「僕の家だ」
と、男が言って、玄関のドアを開ける。男の恋人が小走りに彼を迎えに出てきて、靴を脱ぐ暇も与えず彼にまとわりついて、ニャア、と鳴いた。男は、恋人をひょいと抱き上げた。
「よろしく、」
と、彼女は、男の恋人に挨拶をした。男の恋人は、彼女の匂いをかぐような動作をしたが、次の瞬間には男の腕から床に着地し、前足をそろえて体を伸ばすと長い長いあくびをした。
I.カメラを持った男について・1
 この部屋で、男は猫と暮らしていた。そして、この部屋には、週に一回ほどの割合で女の子が訪れていた。女の子、と言っても彼女らは誰一人として彼専属の恋人ではなかった。彼が写真を撮らせて欲しいと頼んで承諾した女の子たちだ。たとえば、今日の彼女のように。
 彼女たちは、いとも簡単に承諾する(ように男には見えた)。ためらいや恥ずかしさが彼女たちの中で処理されるのを気長に待っていれば、やがて、彼女たちは男の首から下げられたカメラを横目で見ながら肯くのだ。彼女たちは、彼の部屋に来ることも、場合によっては服を脱ぐことだってすすんでやってくれる。彼は何度もそんな女の子たちを撮り続けてきた。一体、何が彼女たちをそうさせるのだろう。彼はシャッターを切りながらいつも彼女たちに質問するのだ。もちろん口には出したことはない。シャッターの音として浴びせられる多量の質問。でも撮られている彼女たちには彼の質問は届かない。彼女たちはレンズを見ている。表情をカメラが切り取って行く。答えは写真の中に閉じ込められる。女っていうのは猫に似ている、と彼はときどき思ってみる。猫が女に似ているとも言える。しかし、彼は女と猫の決定的な違いを発見していた。
J.彼女とカメラ・5
「猫と女の違いを僕は発見したんだ」
と、シャッターの音に紛れて男は言った。彼女は男の部屋の小さなシングルベッドに腰掛けて、猫を膝に呼ぼうとしているところだった。猫はその体には狭過ぎる窓枠につま先立って、彼女の様子を窺っている。
「猫と女の違い、これを最初に見つけたのが僕だったとしたら僕は何らかの形にして著作権を主張すべきだと思ってるんだ」
「猫と女の違い?」
 彼女が男の方を見て笑った。男はすかさずシャッターを切った。
「何かしら」
 猫がひらりとベッドに飛び下りてきて、彼女の膝を跨いで通り過ぎた。シャッター。
「女は鏡を見るけど、猫は鏡を見ない」
「そう、わたしも鏡を見ないわ」
と、彼女は言った。
K.カメラを持った男について・2
 男がカメラを買ったとき、道端を歩いている見知らぬ女の子を被写体にしようなどとは少しも思っていなかった。彼は主に、景色や空ばかりを撮った。家の中で猫も撮った。しかし、出来上がった写真を見てみると、空も景色も猫も決してその瞬間彼の目に映った以上には輝かなかった。腕が悪いせいだろう、と彼は考えた。枠で切り取られて二次元に還元されたそれらの被写体は、彼が二つの目で見て感動したそれとは全く別のものになっていた。色褪せたつまらないものになっていた。
「それで私を撮ってよ」
 ある日、カメラを首から下げている彼に話しかけた女がいた。見知らぬ女だった。彼は試しにファインダー越しに女を覗いてみた。すると、女は彼の目で見る女よりもずっと魅力的に見えた。
L.彼女とカメラ・6
 ちょっと待って、と男は言って、カメラを彼女に手渡した。そして彼女に背を向けて部屋の隅のクローゼットに頭をうずめて何かを探し始める。顔を上げた男の手には、今まで使っていたのよりもずっとちゃちなカメラが納まっていた。
「先にこれで君を撮ろう」
 彼女は、一眼レフのカメラをこわごわ両手で持ち上げて、男の手の小さなカメラと見比べた。
「もちろん、性能はそれよりずっと劣る。でも一つだけいい点がある」
 男が彼女にレンズを向けてシャッターを押した。チャリーン、という小馬鹿にしたようなちゃちな電子音が響いた。彼女は、一眼レフを自分の膝の上にそっと置くと、声に出して笑った。
「何それ、」
「デジタルカメラ」
 男は彼女の隣に腰掛けた。彼が腰掛けたせいで、ベッドが揺れ、枕の隣で前足を身体の下に折りこんで丸くなっていた猫がひょいとベッドから飛び下りた。男の顔が彼女に接近して、息が彼女の頬にかかった。太股が男に触れたので、彼女は気づかれないようにそっと座りなおす。男は彼女の目の前にカメラの裏側を向けた。彼女は男の手の中を覗きこむ。機械の裏面いっぱいに液晶の四角い画面が光っていた。そしてそこにはきょとんと驚いたような自分の顔が映っていた。
「こうやって撮ったものをすぐ見れるのがいいところだ」
 彼女は片手で顔の前からカメラを押しのけた。
「どうしたの」
「自分の顔見るのって好きじゃない」
 男は立ち上がって、彼女の膝から一眼レフのカメラを取り上げる。そしてそっと机に置くと、デジタルカメラを彼女に向かって構えた。
「君はとても綺麗だ。君がそれを自分で認めるまで僕は撮り続けよう」
M.彼女の恋人と彼女・5
 彼女は彼女なりに自分の兵隊を並び替えたり上げる手の角度を変えてみたり、努力をしていた。にも関わらず、彼の兵隊は彼女に弾丸を打ち込み続けた。彼の言ったことをそっくりそのまま繰り返したこともあった。それでも駄目なので、彼女はついに彼の耳元で叫ぶのだった。
「あなたは、わたしの言うことなんてさっぱり聞いてないんだわ」
「それは違うね」
 弾丸を食らった彼女はすぐさま立ち上がる。そして今度は、微笑みながら身につけている衣服を脱ぎ始める。心臓からは透明な液が流れ続けてはいるが、これが彼女に出来る唯一の停戦条約だった。
N.彼女とカメラ・7
 男の手にあるカメラは小さなデジタルカメラからいつのまにか元の一眼レフに戻っていた。何度も自分自身の撮られた姿を見た彼女は明らかに変わっていた。彼女の目はレンズを通して彼の脳を貫いていく。そう、これが鏡を見る女の目だ。男は言い知れぬ快感を感じる。彼女の視線とカメラのレンズ。彼らは深く絡み溶けていく。彼のシャッターボタンを押す指はその営みを加速させる。 「脱いでいいよ」 と、その男は言った。脱いで、という命令でもなく、脱いでみようかという提案でもない。それは許可という形で彼女に与えられた選択肢だった。  脱いでいいよ、とは一体どういうことなのだろう。彼女は足早に彼女の鼻先を通り過ぎようとした男の言葉を指先で摘んで掴まえた。男の言葉は彼女の指に挟まれてじたばたともがいた。脱いでいいよ。つまりわたしは服を脱ぎたがっている、もしくは脱ぐ可能性があるということだろうか。彼女は言葉をそっと放す。  今やシャッターの音は途切れることなく彼女に向かって浴びせられている。彼女はその一つ一つのシャッター音の度に自分を見ている自分を感じるのだった。無数の瞬き。彼女が彼女を見つめるその視線は熱を帯びて甘く切ない。彼女に見られる彼女の唇が僅かに開いて、吐息が漏れた。シャッターの音は無数に浴びせられるキスの音。彼女が彼女に、キス。キス。キス。
O.彼女の恋人と彼女・6
 全裸になった彼女は、Oの衣服を剥ぎ取りながら彼が彼女の裸体を褒め称えるのを聞くのだった。Oの言葉はもう銃を構えて整列する兵隊ではなく、彼女の周りをひらひらと舞い遊ぶシルクの蝶。蝶の何匹かは彼女の裸体の下敷きになって砕け散ってしまうけれど、そのかけらすらきらきらと恋人たちに降り注いで美しい。彼女はその美しさに目を細めながら、積もった蝶のかけらを掴んで穴だらけの心臓に詰めて行く。彼女の手が引きつったように地を探り指が固く閉じるのは、蝶のかけらを探しているからだ。彼女は蝶のかけらを掴んで穴だらけの心臓に詰めていく。たぶん、これでいいのだともう一度目を固く閉じる。
P.彼女とカメラ・8
 全裸になった彼女は、もう誰の目も気にならなくなっていた。彼女は今、彼女自身との愛の営みの真っ只中であった。レンズの向こうの男は、彼女と彼女自身の間を媒介するツールでしかなく、もっと言えばここは朝の芝生の広場でも構わなかった。すでに角度をつけ勢いを増して降り注ぐ太陽や、すっかり目覚めて力に満ちている芝生の草が彩るこの世界も彼女にとってはツールであった。幸福なベッドであった。
Q.彼女とカメラ・9
「写真を、出来たら写真を見たいだろう?」
と、男は言った。
「ええ、もちろん」
と、彼女は言って、鞄の中から名刺を取り出して男に渡した。男は名刺を見る。そこには堅苦しい会社の住所と肩書きと一人の男の名前が書いてあった。
「そこに送ってくださる? わたしの恋人に見せたいの」
R.最後に彼女の恋人と彼女・7
 たとえば彼女の兵隊はゲリラ戦が得意だった。幸福な微笑を湛えた彼女がベッドに横たわって輝いている写真を見たOは、何の弁明も意見も述べる暇を与えられない素早さで彼女の兵隊たちに取り押さえられ、心臓をアーミーナイフで突かれるのだった。
 写真を手にした彼は何を思うだろうか。驚き、彼女の裸体への賛美、この写真を撮った何者かに対する嫉妬。しかし、彼が何を思おうと、それは彼女にとっての真実ではない。彼は口を開く機会を与えられない。何を言おうとしても、彼女の絶対的な確信によって遮られるからだ。
「それは、違うわ」
 それから、心臓を突かれて地に冷たく横たわるOの耳元で、彼女はこの世界のルールを優しく囁くのだった。 fin

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