Folio Vol.10目次など

7 cards, 6 stories

茶石文緒

5th

1,000,000$

 正直に言おう、僕はずっと、恋人と夜景を見に来るなんてことが、全く理解できない人間だった。夜景なんて所詮、虚飾と欺瞞のかたまりだと思っていたからね。暗くなればそれはまあ、街の貧困や醜悪は闇に紛れて見えなくなる。遠く離れれば悪趣味なネオン電飾も清らかな燐光に見える。でも一つひとつを観察してみればわかるだろう、それは宝石でも蛍の光でもなく、平凡で退屈な現実の集積でしかないんだ。あの明りのもとにあるのは夜という絶対的な存在に対する虚しい抵抗であり、昼の時間だけでは消化しきれない過酷なルーティンであり、愚かな人間の享楽と放蕩による時間と資源の無駄遣い、であるわけだ。
 100万ドルの夜景?その形容を聞くたびに僕はむしろ嘲笑していた。それはつまり、100万ドルの浪費というわけか。夜景見物というのは結局、その無駄を悟りつつ、敢えて高みから見下ろす行為に他ならない。虚しい優越感を弄び、人間のちっぽけさをせせら笑う、つまりは目くそが鼻くそを笑うための高価な演出じゃないかと、そう思っていたわけさ。
 でも、ある夜以来、僕は変わった。そう先月、君が車で事故って病院に運ばれた夜のことだ。職場に電話があって、駆けつけると、君は救命治療室に入れられていた。宿直の医者は、命に別状はないと暢気に言ったけど、僕は信頼できなかった。だって相手は内科医だろう、君の外傷だって内科医なりにしか診ていないはずだ。君自身が目を覚ますのを待って、直接話を聞きたかったけれど、真夜中を回ったあたりで、その内科医に追い出された。どうせ麻酔が効いているから明日まで目覚めない、待合室に居座られても困るから、もう帰れ、とね。
 仕方がないから僕はタクシーで帰ることにした。途中で、昼から何も食べていないのを思い出して、家の近所のコンビニエンス・ストアでタクシーを降りて、弁当をひとつ買った。で、そこからは一人で歩いたんだ。自分のアパートまで、僕はただうつむいて歩いていた。
 帰り道なんて、普段はほとんど無意識に歩くもんだ、そうだろ。何も考えず、角を曲がって、アパートの前まで来て、そこで……いきなり、パニックになった。どこに帰ればいいかわからなくなったんだ。まるで迷路の行き止まりにぶちあたったみたいに。一瞬、何が起こったか理解できなかった。
 確かに部屋番号は覚えてる。406。4階の、奥から3番目のドア。でも、駄目なんだ。そういう意味じゃない。僕にとって"帰る"というのは、そういうことじゃなかったんだ。
 僕はいつも、アパートを見上げて、自分の窓を探すんだ。君が先に帰って、明りをつけている窓。リビングのカーテンの裾の長さがちょっと足りなくて、蛍光灯の光がそのまま漏れていて。それを見るたび、次の給料が入ったらまともなカーテンを買おうと思うのに、そのままずるずる一年近く経っているよね。まあそれはいいとして、気づかないうちに、自分にそんな習慣がついていたんだと、そのとき初めて自覚したんだ。明りさえついていれば、全く迷わずに帰れるのに、明りが消えただけで、まるで部屋そのものがなくなってしまったような気になってしまうなんて。なんなんだ、と思ったよ。
 そんなわけで、それ以来、ぼくは明りというものを信頼するようになった。街中に広がる明りの一つひとつは、必ず誰かを導くために存在しているんだ。全ての窓は、誰かに信頼され、求められるために光を放っている。ごくごく個人的な、存在と信頼のメッセージ、それが目に見える形になって、まるで惜しげもなく窓からあふれ出している……。
 僕はそれ以来、ビルやマンションの明りを見上げるたび、その豊かさとひたむきさに、胸が震えるようになった。あの光にはそれぞれ、100万ドル払っても買えない何かが宿っている。そう心から信じるようになったのさ。

 ところで……今夜僕が、退院したての君をひっさらって、ロープウェイに乗せてこんなところまで連れてきたのには、理由があるんだ。実は今日、君を迎えに来る前に、部屋に明りをつけてきた。そう、あのアパートの406号室。ここから見えるわけない。見分けがつくわけないのはわかっているけど、それでも、君に見せたくて。
 つまりその明りもやはり、誰かを導くために、あるんだ。誰かといえば、一人目はまず僕だ。僕が毎日、迷わずに帰るために。そして、もう一人は、その明りをつけるのは、つまり自分ではつけられないわけで。そのためには、やっぱり君が、その、これからは、僕と、君が、ええと……。
 「ねえ。それってつまり、あたしと結婚したいってことかな」
 え。
 あー、……ええ、まあ。で、でもそんな、こういうのって、物凄く大切な話なのに。そんなにあっさりと本題に踏み込むなんて。
 「大切なことだからって、多くの言葉が必要なわけじゃないでしょ。いつも思うけど、ちょっと、頭、使いすぎ」
 むむ。悪かったな、理屈っぽくて。ああでも、先週まで、ベッドの上でまっしろな顔をして、ごめんね、なんて呟いていたくせに。そんな生意気で単刀直入な口を利けるようになったなんて、つまり君はすっかり元気になったってことだ。ねえ、それがどうしてこんなに嬉しいんだろう。僕の身体が傷ついたわけじゃないのに、どうして今、自分の身体がこんなにぎゅっとあったかくなって、ものすごく癒された気がしてるんだろう。
 「うーん、それがつまり、愛してるってことなんじゃない?」
 そうなのか。そういうことなのか。そう言われれば確かにそう、かもしれない。あ、だからって、こんなところで、抱きついて、キスなんて。これじゃあまるで、僕が軽蔑していた、お馬鹿でロマンティックな恋人同士みたいじゃないか。でもまあ、言葉では回りくどいというなら、こっちのほうが、よっぽど効果的ってことなのか。
 ねえ、抱きしめてもいいかい?もうどこも痛くない?あ、でも君は駄目、僕の胸にしがみついたりするんじゃない。その内ポケットには指輪が隠してあるんだから。それはまあ、確かにダイヤモンドだって所詮は虚飾でしかないのだし、そんなちっぽけな炭素の塊ごとき、100万ドルの幸福には、到底及びもつかないものだけれど。でもせめて、せめてそのくらいのサプライズは、僕にも恰好よく決めさせてくれないか? fin

Tea Time With You天使のちいさな歯のはなし拝啓ヒーローさまアンティーク 記憶屋1,000,000$月と白鳥

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茶石文緒
[comment]創刊から2年間、すごく遠かったようにもあっという間のようにも感じます。小説書かせてもらって、連載のスペースもらって、ホント幸せでした。サイキさんに、編集の方たちに、読んでくださる皆さんに、感謝。
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