Folio Vol.10目次など

7 cards, 6 stories

茶石文緒

6th 7th

月と白鳥

スワン

 真夜中。スワンはひとり、からだの中の声を聴く。

 スワンに言葉は必要ない。ただ本能に駆られて踊るだけだ。リズムは不意に脊髄の奥を震わせ、突き上げる熱湯のように湧き出してくる。まるで全身に毒が回るような感覚、それに囚われたらさいご、疲れ切って水辺に倒れ臥すまで踊るしかない。
 それは多分、美しいとかどうとかいう有り様を超えてしまっているだろうとスワンは思う。肋骨を薄紙で覆っただけのような胸は、空気を求めて激しくあえいでいる。顔は歪み、足元はもつれ、指先は秩序を失ってばらついてしまう。美しいものに灼けるほど憧れ、自分を抑え切れずに踊り始めたはずなのに、その自分の姿はといえば、もがけばもがくほど美から遠ざかっているようにしか思えない。スワンにとってはそのことが悲しく、消え失せてしまいたいほど恥ずかしかった。
 だいたい自分は白鳥であることに相応しくないのだと、スワンはずっと思っていた。一羽一羽の個性など無いにひとしいが、それでも集団になれば、ある種のアイデンティティが生まれるのは事実だった。そのことに不満を唱えても仕方がないのはわかっていた。動物やヒトのように、種族で生きるものは当然のこと、意志を持たぬ樹木でさえ、集団になれば森となり、ひとつの性格と感情を持つのだから。問題は、自分が、白鳥という種族のアイデンティティから取り残された、みっともない異端児であることだった。
 白鳥としてあるべきふるまいを、スワンは脳裡に反芻する。優雅で神秘的なしぐさ。態度はあくまでゆったりと、水の上を滑るように動き、育ちのよい姫君のように人を恐れない。仲間同士でぴったりと密着しあうことを厭わず、夜は首を羽根の隙間に入れて、身を寄せ温め合って眠るのだ。
 「ぼくはとてもそんなふうにはできない―――」
 スワンは群れから離れ、ひとりでうじうじと思い悩んでいた。張り詰めた筋肉がざわめいているのに、それを抑え込んで羽毛の繕いなどしていられない。あんなふうに集団で、薄めたミルクのような味気無い夢を見て、大雑把な連帯感の中にまどろむことなどできない。
 それくらいならまだ、傷ついた方がましだった。足先に血がにじむまで踊り、爪と牙を持ったけものに追われるほうが幸福だった。スワンは恋人たちの面影を思い出す。男もいれば女もいた。爛々と輝く黄金色の瞳を持つ鷹。狡猾さと残酷さを魅惑としてまとっていた銀狐。白馬に跨がり、自分に向けてを弓を構えた王子。そして今は、艶やかなオニキスの毛並がスワンと美しい対象をなす狼。いずれもスワンを標的として追い、襲い掛かって血を流させる狩猟者ばかりだった。
 もしかしたらそんなふうに結ばれる関係は、愛ではないのかもしれない。自分の舞踏など、街娼のように安っぽく、卑しい媚態でしかないのかもしれない。それでも狩猟者たちの眼差しを引きつける瞬間、そこに自分に対する崇拝と陶酔の色をみとめて、震えるほどの悦びを感じた。あれほど容赦なく自分を追い詰めた攻撃者が、やがて無抵抗になった自分に歩み寄り、手をかけるとき、決してそれ以上の傷をつけまいと細心の注意を払うのが嬉しかった。まるで自分と狩り手しか世界に存在しないような、強く鮮烈な結びつき。それは、仲間と群れている時には決して味わえない感覚だった。
 追われるために、見つめられるために、そして甘やかな屈服を味わうために。その陶酔の記憶が身を灼くたびに、じっとしていられなくなる。誰かぼくを見つけて。スワンは夜がくるごとに、月光に身を晒すように、艶やかに逃げ惑ってみせるのだった。

 

ニンフ

 真夜中。月のニンフは水鏡を覗き、失われた自分を探す。

 ニンフは雲の岸辺にひざまずき、森の奥の湖水に身を映す。自分の姿形にうぬぼれているわけではない。ただ、他によりどころがないだけだ。白く滑らかな胸元、まろやかな乳房。その表面には非の打ち所がない美が宿っているのに、内側の胸郭から湧く声は、自分でも耳を塞ぎたくなるほど醜かった。
 「話さえしなければ完璧なのにね。可哀想な子」
 星の娘たちが寄り集まって、そう噂しているのも知っている。鈴のように澄んだ声で話し、誰からも愛される従姉妹たち。月の女神の戒律によって恋をすることは禁じられていたが、それでも闇にまぎれて器用に遊んでいた。
 月のニンフにも言い寄る男がいなかったわけではない。けれど、話しかけられてもうつむいて逃げ去るしかなかった。強引に迫ってくる者も、彼女がその声でたった一言拒否を告げれば、気まずそうに引き下がった。なかにはあからさまに幻滅を示す者もいて、彼女をますます傷つけた。
 誰とも話さず、いつも超然としているように見えたが、内面にはじくじくと膿んだ疼きを抱えていた。しょせん皮一枚の、外面の美しさしかすがるものがない。それを知っているから、湖面に映る顔は、整ってはいても常に無表情だった。
 いっそ泣きたかったが、自分の嗚咽が耳に流れ込むのが苦痛で、それすらもできない。抑え切れずに溜息をつくと、風が起きて湖水が揺れた。水辺の葦が大きく波打ち、その拍子に、草陰で絡み合っていたものたちの姿が露になった。
 スワン。
 群れからはぐれ、仲間の前ではいつも恥ずかしげに身を縮めている若い白鳥。それが今、野生の狼に組み敷かれ、白い喉をのけぞらせていた。天を仰いだ頬には涙が流れているが、痛みや辱めのせいではないのは明らかだった。眼には恍惚の靄がかかり、唇からは高くかすれた喘ぎが漏れている。
 恋人をまた替えたのね。月のニンフは苦笑する。求められれば誰にでも身を晒す愚か者と嘲るものもいたが、ニンフには、それがかえって羨ましく映った。あれだけ無防備に自分を開いてみせることができたら、どんなに楽だろう。
 「次はいつ逢える?」
 情事の後、スワンは優しくかすれた声で問い掛ける。黒い毛並が美しい狼は、スワンを一瞬見つめ、目を伏せた。
 「次はない。これで最後だ」
 「どうして」
 スワンは焦ったように身を起こした。縋りつく手がまだ愛しいのか、狼はそれをすぐに払いのけることはしなかった。
 「駄目だ。このまま逢いつづけたら、俺は本当にお前を殺してしまう。いつかお前を切り裂き、食い殺さずにいられなくなる」
 「ぼくはそれでもいい、狩の獲物になったとしても」
 「俺は嫌だ。お前を殺したくない。これ以上はもう―――」
 「待って、」
 「もう逢わない」
 既に決心を固めていたのか、狼の答は短かった。スワンを引き剥がすと、そのまま身を翻し、闇の中へ駆け去っていく。掻き分けられた草が激しく騒めいたが、それもすぐに静かになった。
 取り残されたスワンは、茫然と立ち尽くしていた。先程の恍惚の涙は頬の上で乾いている。やがてのろのろと顔を上げ、月の精の姿をみとめた。
 「……なんてきれいな月」
 スワンはぽつりと呟いた。不意に寒さを感じたのか、自分の身に腕を回す。
 「あなたもぼくと一緒、いつもひとりだ。あなたのようになれたらいいのに」
 身体は引き離されても、情事のあとの熱と甘さは声にまだ残っている。恋をするとはこういうことか。夜の中に融けていく響きを、ニンフは陶然と聴いた。しかし、沈黙を冷淡と取ったのか、スワンは哀しげな眼をして、腕を天に差し伸べた。
 「いつも誇り高く、どんなに祈りを捧げても、決して応えてくれない。去ろうとする者に追いすがる姿など想像もできない。でも、それでもいい。あなたの光は美しい。こうしていればぼくのようなものでも、魂を洗われた気になれる……」
 そのまま腕をゆるやかに降ろし、踊り始める。自然の所作の続きのような、作為のない、なめらかな動きだった。
 言い寄るものであれば誰も拒まないという男。人間の虚栄も、狐の狡猾も、狼の野蛮も許し、惜しげもなく自らの全てを与えようとする男。その男が、月のニンフのようになりたいという。あれほど自由に舞い、何人もの恋人と抱擁を交わしながら、内側には同じ孤独を抱えているという。
 月のニンフは息を殺し、月光を受けて弧を描く白い羽根を見つめている。やがて心を決め、ひらりと衣を翻すと、雲の縁から滑り降りた。

 

パ・ド・ドゥ

 冴えるような月光の下、スワンは踊り続ける。誰かに見られても、見られなくてもかまわない。自分は自分でしかなく、欠けるものなどない存在だと、踊っている瞬間だけはそう思える。
 余計な技巧は必要ない。風が吹けば湖面に漣が立つのと同じで、身体の中の情動が震えを生み、次にとるべき動きを指の先まで伝えてくる。自分をできるかぎり無にして、感覚が伝える命令に忠実であればいい。そうしている間だけは、自分のみにくさも、世界に突き放されたようなみじめさも忘れることができた。
 不意に、湖面がおののいた。銀の鏡のような水面を、鋭い光が斜めに掠めて滑り抜けていった。
 踊りながら、スワンは湖面を見やった。そこには美しい娘がいた。月のニンフ。蒼の衣を身にまとい、口元に淡い笑みを浮かべてスワンを見つめている。
 視線を感じながらスワンは跳躍し、ターンする。筋肉が無意識に熱を帯びて張りつめた。指先には優雅さが宿り、脚さばきも軽やかなものになる。もっと見つめて欲しい。踊り手の薄い肌の下、心の動きは隠れるどころか、むしろあからさまに顕れようとする。
 「ぼくを嗤いにいらしたのですか、それとも奪いにいらしたのですか。月の精よ」
 月のニンフはいつものように無言だった。涼やかな笑い顔のまま、ただスワンを見下ろしているだけ。この光に逢瀬を暴かれ、さっき恋人は去っていった。悲しみに駆られ、スワンは開き直ったように娘を睨み上げる。胸のうちの感情をそのまま口にした言葉は、思った以上に烈しく響いた。
 「あなたはとても綺麗だ。そうしてぼくを見下ろして、軽蔑するなら好きなだけなさればいい。あなたから見れば、身の内で暴れる想いをこうして灼き尽くさなければならぬぼくなど、なんと滑稽で愚かな存在か―――」
 月の精は首を横に振った。湖畔に降り立ち、スワンと向き合うと、それ以外の表情の作り方を知らないかのように、また微笑んだ。口許に添えられた白い指先は、感情を押し留めるようで、何かを打ち明けたくてたまらないようでもあった。
 スワンは静かに踊り止めた。すぐには言葉が見つからず、しばらくの間、白蝶貝の輝きを宿したその爪の先に目を奪われていた。
 「―――それとも、あなたも?ぼくと同じように、身の内に押さえつけているものがあるのですか」
 月光の娘は、口が利けないという。恋を囁いたことも、歌ったこともない。ほんとうに話せないのか、それとも、声に出すのが、こわいだけなのか。
 ごうと強い風が吹き、黒い葉陰が月の光を遮った。木々の不穏なざわめきが耳鳴りのようにふたりを包み込んだ。
 永遠の処女である月の女神は、仕えるニンフにも同じだけの純潔を求める。そのニンフがたったひとりで男のもとへ降りてくるなどと、本当はあってはならないことだ。でも、今ならきっと、誰にも気付かれはしない。官能が命ずるまま手脚を振りまわす代わりに、スワンは、あふれる悲しみと憧れを、眼差しに込めた。
 「今、世界には、だれもいない。ぼくがあなたの秘めごとを聴きましょう。どんなにちっぽけな、よごれた欲望であってもいいのです、卑しい鳥が相手なら、あなたの誇りが傷つく心配もないでしょう」
 「ちがう、わたしは―――」
 思わず声を発してしまったことを悔いるように、月の精のまなざしが揺れた。姿かたちの美しさからは想像もつかない、年老いた蛙のような、ひどく潰れた声だった。はじめのひとことを聞いた瞬間、彼女が決して話そうとしないわけを、スワンは理解した。
 「わたしはいつもおまえを見ていた。おまえのようにいちどでも踊れたら、あんなふうに恋ができたら、もう死んでもよいとすら、思っていた」
 スワンは息をのんだ。なんていびつで切ない願い。
 自分が憧れて止まず、完璧な美の化身と思っていた存在が、踊りつづけるこの姿を美しいと思っていたなんて。それでも、彼女も同じなのだ。自分の美しさを誇るどころか、その声音に恥じ入り、悲しみが増すばかり。自分の持ち得ないものへの憧ればかりが募る、その孤独と絶望なら、スワン自身もよく知っていた。
 スワンは娘のぎこちない微笑に、同じ表情でこたえた。冷たい手を取り、熱を帯びた声で囁きかけた。
 「あなたは月の精。こうして触れてしまったなら、ぼくは罰されるでしょう」
 自分はいつか、月の女神の怒りに触れて四肢を引き裂かれるだろう。それでもかまわなかった。欲しいのは穏やかで生温い優しさではない。たとえ残酷でも、痛みを伴うものでも、自分だけを見つめ、全てを求めてくれる存在が欲しかったのだ。そんなふうに自分を味わい、奪い尽くしてくれるなら、命を捧げることも惜しくはなかった。
 「月の精よ、どうかそのままの姿で、ぼくを支配してください。その美しさと、歓びと欲望に満ちた眼差しで。今まで誰にも聴かせたことなかったその声で。そうしてくれるなら、ぼくはあなたのために踊りましょう。この身を衝き動かす官能の全てをあなたに与え、あなたの包み隠さぬ、ありのままを、受けいれましょう」
 月の娘の微笑が濃くなり、白磁の肌が、ひときわ輝いた。両腕を大きくひろげ、スワンを迎え入れる。冷たく滑らかな夜の衣が、舞踏の熱に昂ぶったスワンの身体を、癒すごとく包み込んだ。

 翌朝。霧が浮き、蒼い波が寄せる湖畔に、スワンの純白の羽が散っていた。
 夜が終わるあわいの瞬間、通りがかった黒鶫が、スワンの亡骸が湖に沈むのを目にしたという。その話によれば、その身体は、冴えた氷のような月の燐光に包まれ、女神の罰による赤い矢傷を受けてもなお白く清らかだった。そして青ざめた顔には、まさに白鳥の高貴さを湛えた、優雅で穏やかな微笑が浮かんでいたという。 fin

Tea Time With You天使のちいさな歯のはなし拝啓ヒーローさまアンティーク 記憶屋1,000,000$月と白鳥

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Profile

茶石文緒
[comment]創刊から2年間、すごく遠かったようにもあっという間のようにも感じます。小説書かせてもらって、連載のスペースもらって、ホント幸せでした。サイキさんに、編集の方たちに、読んでくださる皆さんに、感謝。
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