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 実のところ,この問いに対して説得力のある回答をするのは,いとも簡単だ。「そんなものはない」と,そう答えればよい。

 いや,確かにテーブルトークRPGの世界は独特の魅力に満ちていた。昔は。

 ストーリーの創成,キャラクターの演技,感情移入,背景世界への参加感覚,他の参加者との協力や役割分担,そして困難を乗り越えたときの達成感。そこには,他の何をもってしても代え難い,ワクワクする高揚感があった。それは唯一無二,テーブルトークRPGのみが提供し得る楽しさだと,そう信じることが出来たのだ。昔は。

 だが,コンピュータRPGの急激な発達は,こうしたテーブルトークRPG特有のものだったはずの魅力を,一つまた一つとディスプレイ上で実現していったのだ。飛躍的に拡大したコンピュータの能力。ハイクオリティなグラフィックとサウンドが作り出す背景世界やキャラクターの存在感。メモリ容量の拡大とソフトウェア技術の進歩による,柔軟で自由度の高いシナリオ。今やコンピュータRPGはそこらのゲームマスターでは到底太刀打ちできないレベルの臨場感,リアリティ,感情移入を実現してくれる。コンピュータRPGでは実現できないと思われた,他の参加者との会話や演技といった楽しさでさえ,ネットワークRPGの登場によって,もはやテーブルトークRPGの特権ではなくなってしまった。

 今や我々は,RPGをプレイするために,分厚いルールブックを読んだり,スケジュール調整に労力を費やしたり,休日を潰して出かけたりしなくてもよい。自室に居ながらにして,手軽に,好きな時間に,好きなだけRPGの魅力を味わうことが出来るのだ。全国の(あるいは全世界の)プレーヤーと一緒に。

 だから,膨大な手間をかけて紙と鉛筆でテーブルトークRPGをプレイする意義はもうない。テーブルトークRPGはその歴史的役割を終え,袋小路に向かっている。何より,市場がどんどん縮小し,プレイ人口も減少の一途をたどっているのがその証拠だ。そう,テーブルトークRPGに未来はないのだ。

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 ・・・と,このままだと,あまりの説得力ゆえにコラムが終わってしまうことに気づいた。それどころか,ここ数年に渡って私が書いてきたこと努力してきたことも,全て無駄無駄無駄無駄無駄ァァーッていうか沈没しつつある船の中で風呂の栓を抜くような徒労だったという事実に直面せざるを得なくなるではないか。

 それは非常にまずいので,自己欺瞞を承知で,強引に前向きに方向転換することにしよう。

 確かに“今までのような”テーブルトークRPGは歴史的役割を終えた,あるいは終えつつある。であるがゆえに,テーブルトークRPGを袋小路から救い,復権させたいと我々が望むのであれば,そこに内在している新たな魅力,コンピュータRPG(ネットワークRPGを含む)では提供できないか,少なくとも十分に提供できないような魅力を見つけ出さなければならない。

 従来から「テーブルトークRPGの魅力」とされてきた項目,感情移入だの演技だのストーリー作成だのノリだの何やかやだのといった諸々の楽しさは,今やコンピュータRPGやネットワークRPGが十分に,しかもより手軽に提供してくれるのだから,もうそちらに任せてしまうべきだ。我々は,テーブルトークRPGから新しい魅力を引き出し,今後はそれを徹底的に追求することで,世間一般の人々にテーブルトークRPGの新たなる存在意義をアピールしようではないか・・・。というわけだが,どうだろう?

 うんうん,自己欺瞞にしても割ともっともらしい論旨になった。では,この論旨に従って,前向きに,前向きにコラムを書き進めてみることとしよう。

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 テーブルトークRPGを袋小路から救う新たな魅力とは何か。

 私は,それを「意志決定」という概念に求めたいと思う。

 多くの読者にとって,この回答はさほど意外ではないはずだ。何しろ私は以前からずっと「RPGはゲームである。ゲームの本質は意志決定である。ゆえにRPGの本質は意志決定にあるのだ」といったことを何度も何度も書いてきたからだ。

 しかし,そもそも「意志決定」とは何だろう?

 よく考えてみると,今まで何かといえば意志決定,意志決定と言いながら,私は「意志決定とは何か」ということについて掘り下げて書いたことがなかったのだ。

 次のような問答を想像してみよう。

    問:ゲームの本質とは何か?
    答:それは意志決定にある。

    問:では意志決定とは何か?
    答:それはゲームの本質である。

 私が「ゲームにおける意志決定」について語るとき,実は上の問答以上のことを何も言ってないのではないか,という疑問が生じたとしても,無理はない。

 そういうこともあって,ゲームを論じる文脈において「意志決定」という用語は常にある種の混乱や誤解を伴って使われてきた。であるから,ここでいきなり説明なしに「意志決定こそがテーブルトークRPGの新しい魅力である」と主張しても,混乱と誤解に拍車をかけるだけというのは容易に想像できることだ。

 そこで,以降では,まず「意志決定」にまつわる混乱や誤解をできるだけ解消するよう努めることにする。次に「意志決定とは何か」という難問に立ち向かおう。最後に,それがテーブルトークRPGの新たな魅力足り得ることを示す。

 どうか,途中で挿入される資料も含めて,全体をじっくり読んでほしい。

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 意志決定に関する混乱のうち最も最初にくるのが「そもそも“意志決定”という表記は正しいのか。“意思決定”ではないのか」という疑問だろう。

 これは中々に微妙な問題である。結論としてはどちらの表記も間違いではない。だが,企業経営や政策を決定する行為を論じるときには,”意思決定”という表記を用いる方が一般的だ。より詳しく知りたい方は,次の資料を参照してほしい。

  「意思決定 vs 意志決定」(小橋康章著)
  http://member.nifty.ne.jp/highway/dm/dectra.htm

 さて,ゲームを論じる文脈において”意志決定”という用語が使われたのは,私の知る限り,次の資料が初めてだろうと思う。

  「コスティキャンのゲーム論」(グレッグ・コスティキャン著,馬場秀和訳)
  http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html

 上の資料の翻訳にあたって,原文に頻出するキーワードである"Decision Making"をどう訳すか,私は散々悩んだのだ。その挙げ句に“意志決定”という,どちらかと言えば一般的でない用語をあえて選んだ。なぜか。それはコスティキャン論じるところの"Decision Making" は,日本語で一般に用いられる“意思決定”とは全く異なる概念だからだ。

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 この違いを理解してもらうことは非常に大切なので,少し詳しく説明しておこう。

 以降では,“意思決定”と言えば,それはすなわち「意思決定論」とか「経営者の意思決定」とか「政策の意思決定」といった文脈で使われる一般的な意味の意思決定を指すものとする。一方,“意志決定”と言えば,前述の「コスティキャンのゲーム論」に登場する,ゲームにおける"Decision Making" という概念を指すものとする。

 上に述べたような意味における“意思決定”と“意志決定”はどう違うのか。

 簡単に言ってしまうと,“意思決定”においては,結果にこそ価値があり,それに比べれば,意思決定に至るプロセス自体には何の価値もない。一方“意志決定”はその逆であり,意志決定に至るプロセスこそが価値を持っており,それに比べると結果には大した価値がない。

 このように,両者は全く異なる概念だ。

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 あなたが会社の経営者だったとしよう。今,あなたの前に経営上の選択肢が複数あり,そのうちどれか1つを選択しなければならない。あなたの決断に会社の将来と従業員の生活がかかっているのだ。さあ,どれを選べばよいだろう?

 このとき,あなたに求められているのは”意思決定”である。あなたはどんな方法で決断に至ってもよい。結果さえ良好であれば,それでOKなのだ。プロセスはどうでもいい。

 いや,もちろん現実には「プロセスはどうでもいい」とは言えない。経営判断をヤマカンやダイスで決めるようなら,あなたは経営者失格とされるだろう。しかし,それはあくまで「他の合理的なプロセスを用いた意思決定に比べて,ヤマカンやダイスによる意思決定は,良好な結果を出す確率が低い」から批判されるのである。重要なのはあくまで結果であり,意思決定プロセスは,いや意思決定それ自体が,良い結果を生み出すかどうかという点でしか問題にならないのである。

 それが証拠に,もしあなたが心底から信頼している占い師がいれば,あなたは彼または彼女の指示に従って意思決定することを真剣に考えるに違いない。占い師がどのようなメカニズムにより未来を見通すのか,それは分からない。しかし,もしその占い師が「結果として最善の選択肢を教えてくれる」と確信できるのであれば,あなたは占いによる意思決定を行うだろう。意思決定においては,結果こそが大切だからだ。

 余談になるが,不合理なプロセスによる意思決定は,そんなに珍しい話ではない。

 レーガン元大統領が占星術師の助言に従っていた,という逸話は有名だし,オカルトや宗教にハマってそれを経営に取り入れようとする経営者は決して少なくない。いや,そもそも経営者という人種が,ビジネス本や経営論本,人生訓本や自己啓発本,果てはカリスマ講演者にハマりがちなのも,「面倒な意思決定プロセスはすっ飛ばして,最良の結果だけを得たい」という気持ちの表れだろう。いわゆるビジネス本の多くが合理的根拠のない(ときにオカルト的な)「成功の法則」とやらをアピールしているのも,このためだ。嘘だと思うのなら,書店に行ってビジネス書を何冊か買って読んでみるといい。(特に帯に「船井氏推薦」という謎めいた呪文が書かれているものがよかろう。だが,内容について私に文句を言わないでほしい)

 このように,“意思決定”においては,結果にこそ価値がある。意思決定のプロセスや意思決定という行為それ自体は,良い結果を生み出すか否かという観点でしか価値を持たず,「可能ならすっ飛ばしてしまいたい」ものなのだ。

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 今度は,あなたはゲーマーであり,今まさにゲームをプレイしていて,複数の選択肢のうちどの手を選ぶか悩んでいるとしよう。

 このとき,あなたに求められているのは“意志決定”である。あなたがゲームをプレイするということは,複数の選択肢のうちどの手を選ぶかを,何らかの根拠の元に,自分で決断するということだ。その結果は大した問題ではない。結果として勝とうが負けようが,それは本質的にはどうでもいいことなのだ。

 いや,もちろん現実には「勝敗はどうでもいい」とは言えない。勝てば嬉しいし負ければ悔しい。しかし,ゲームにおける勝敗の意義とは,あくまで「意志決定を行うために,勝利という“目標”が必要」とか「意志決定を魅力的なものにするためには,勝利の嬉しさや敗北の悔しさが“動機付け”として重要」といったところにある。我々ゲーマーは,勝利のためにゲームをプレイするのではなく,ゲームをプレイするために勝利条件を必要とするのだ。

 それが証拠に,さきほどの占い師(あるいは藤原佐為でもよい)があなたの背後にいて,「結果として最善の選択肢を教えてくれる」と確信できるとしよう。あなたがゲーマーであれば,それでも(あるいは,それゆえに)決して助言を聞こうとはしないはずだ。助言通りにプレイすれば絶対勝てると分かっていても「それじゃゲームをプレイしたことにならない。つまらない」と思うだろう。

 このように“意志決定”においては,結果ではなく,意志決定のプロセスや意志決定という行為それ自体に価値があるのだ。

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