特集:童話 Folio vol.3
title iimage イラスト:甲斐
はじまりの樹の下で 岡沢 秋
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ある時のこと、遠い海のかなたから、灰色の帆を張った船に乗って、毒草の研究をしているという、一人の男がやってきました。
男は、大地に住む人々に、ひとつの小瓶をさし出しました。
瓶の中には、透明な、水のようなものがゆれていて、それが、どんな樹もたちどころに枯らしてしまう毒だというのです。

新月の夜、人々は、手に手にくわを持ち、樹の根元へ行って、できるだけ深い穴を掘りました。
そして、樹が、弱ってしまうようにと願いながら、瓶の中の毒をそそぎこみました。

月が巡っている間に、樹の下のほうの枝は茶色く色あせはじめ、枝についていた実が、しわしわとしぼんでいきました。
人々は最初は喜んだものの、やがて、恐ろしくなってしまいました。
樹の枯れるのはあまりに早く、それまで、一度だって変わったことのない景色が、あっというまに別なものになっていくのを、見たからです。

やがて、月がひとめぐりして、また、新月の夜になりました。
樹は、もう、ほとんど枯れてしまっていました。
色あせてちりちりになった大きな葉が、風に吹かれて、どこかへ飛んでゆくのが見えました。
樹の葉は、ほとんど無くなって、下から見上げると、枝のむこうに空が見えました。
そして人々は、はじめて、樹の下に立って、月の光を浴びることが、できたのです。

そのとき、ひからびた実は、こどもの頭くらいの大きさにしぼんでいて、落ちてきたとき、片手で抱え上げられるほどの重さになっていました。




それから、すこし経ったあとのことです。
嵐がやって来て、たくさんの雨が降りました。
雲のあいだに雷が走り、雷は、火となって、枯れた樹の上に落ちました。
火はまたたくまに燃え上がり、乾いた大きな音をたてて、太い樹の幹を、真っ二つに割ってしまいました。

それはそれは、大きな音でした。まるで、大地が悲鳴をあげたようでした。
樹は、燃え盛る巨大なたいまつになっていました。
眠っていた獣たちは、真夜中にいっせいに飛び起きて、真っ赤に染まる空を見上げました。
人々も、みな肩をよせあって、ただただ、ぼうぜんとするしか、なかったのです。

たくさんの鳥たちが、炎と煙にまかれて、落ちてゆきました。
空は、真っ赤に染まり、風に乗ってたくさんの煤が飛び散り、あたりの海は真っ黒に染まりました。
樹は何日も、何週間も、燃え続けました。
家はみんな燃えてしまいました。
行き場をなくした人々は、岩の陰に身をひそめて、ずっと隠れていました。

何度も、何度も雨が降り、やがて、空にかかっていた灰色の煙が消えるころ、人々は、おそるおそる、外に出て、樹のあった場所を、見上げました。

そこには、もう、何もなくて、日の光が、ただ、静かに降り注いでいました。
地面のそこかしこに、真っ黒に焼け焦げた樹の燃えさしが、ばらばらに落ちているだけでした。

樹がなくなったあと、大地はゆっくりと、沈み始めました。
人々の住んでいた、その大地は、樹の根元に集まった土で出来ていたのでした。
樹がなくなってしまって、根っこがみんな枯れてしまったので、支えがなくなってしまったのです。

人々は、燃えのこった樹の枝をあつめて、船をつくり、泳げない獣たちや、家族を乗せました。
海の水がゆっくりと大地を飲み込んで、さいごに残った人々が船を海に浮かべるころ、水の上に出ている土は、すっかりなくなっていました。

船に乗った人々はみな、ちりぢり、ばらばらに、どこか遠い海の向こうへ行ってしまいました。
そこにも大地があって、樹が生えていましたけれど、その樹は、以前見ていたものほどは、大きくはなりませんでした。


このお話は、遠い、遠い海のむこうから来た、年よりのかもめが、私に話してくれた物語です。
年よりかもめはさんご礁の黄色い魚から、黄色い魚は深い海の大きなくじらから、くじらは小さな釣り船に乗ったおじいさんから、おじいさんは、おじいさんのおじいさんの、そのまたおじいさんから、そのお話を聞いたのだといいます。

樹と、大地を飲み込んで、 何もない、青い青い海は、ただ静かにゆれるばかり。

ずっと、ずっと、むかしのことです。
今は、もう、そんな大きな樹は、どこにもありません。