vol.4

リンゴとエロスについて、彼女の考察

「お待たせ致しました、下へ参ります」
 彼女は9階で先ほどの女性と他の客たちを乗せると扉を閉めた彼女は各階の客を拾いながら、下降していく。全員一階で降りて行った。そろそろ閉店時間なのだ。
「ありがとうございました」
と、彼女はエレベーターから一歩外に出て深々と頭を下げながら、エロスってのは禁断の中に存在するの、という彼女の友人の言葉を反芻していた。と同時に、エロスってのは、体の条件反射だ、という彼女の元恋人の男の言葉も思い浮かんだ。ええ、どちらも正しいけれど、でもどちらもちょっと違うんじゃないかしら。
 彼女はエレベーターに戻る。扉を閉めるとエレベーターが上昇し始める。彼女以外誰もいない小さな箱の中で、彼女は腕時計をちらりと見て、あと何往復かで今日の仕事は終わるだろう、と思った。エレベーターは途中の階に止まることなく、ぐんぐん上昇して行く。そして屋上まで上ってようやく止まった。きっと、さっきの男の恋人がトイレから戻ってきたので、二人揃って下へ降りようとしているのだろう、と彼女は思って扉を開けた。
「下へ参ります」
と、彼女は微笑んだが、彼女の微笑みを受け取ったのはさっき屋上で一人で待っていた若い男一人だった。男はさっき彼女が屋上に来たときから少しも動いた様子がなかった。同じ姿勢で壁にもたれ、やはり同じように彼女をじろじろと眺めて笑っている。エレベーターに乗りこむ気配はないが、ほかに人気もないことから彼がエレベーターのボタンを押したことは明らかだった。彼女はもう一度最上級の笑顔を作る。
「下へ参ります、もうすぐ閉店の時間とさせて頂きますがよろしかったら一階まで」
「あとでいいよ」
と、男は彼女の言葉を遮って、もう一度同じセリフを繰り返した。かといって、他に何かあてがあるわけでもなくその場を動こうとしない。屋上は閑散としていて、遊園地が閉まった今、従業員もいない。
「それより、せっかく来たんだから降りてここでゆっくりしたらどう?」
と、言いながら男は天井を仰いで自分の隣を片手で指し示した。それから声をたててくすくすと笑った。しかし自動運転モードの彼女はこの程度のことでは動揺しない。
「ありがとうございます。でも仕事がありますので、失礼致します」
 彼女は微笑んで男に会釈すると、エレベーターに乗りこんだ。下降しながら、本日はご来店ありがとうございました、というアナウンスをぼんやりと聞く。各階に止まりながら、これで最後であろう客たちを乗り込ませる。一階で客を下ろして、それから地下へ。地下の食料品売り場ではぎりぎりまで買物をしていた主婦達がエレベーターに殺到する。エスカレーターの方が早いですよ、なんてことはもちろん言わず、エレベーターガールは慇懃な口調と笑顔で彼女らを地上の出口まで丁重に送り届けるのだった。
 エロスは禁断の中にある。そう、確かにそうだけど、それだけではないわ。エロスは体の反射である。ええ、体は大切よ、不可欠だわ。でもそれだけではないわ。彼女の頭はぐるぐると二人のセリフを交互に繰返していた。エレベーターガールとしての勤務は終了している筈の、閉店時刻10分後だった。しかし、彼女を一人乗せたエレベーターはぐんぐんと上昇していた。従業員は従業員用のエレベーターを使うはずである。エレベーターは5階、6階、7階、と次々と上昇して行く。きっとあの屋上の男だわ、と光る数字を見つめながら彼女は思った。ようやく降りる気になったのだ、それならそれでいい。それより彼女はリンゴとエロスについての考察に心を奪われていた。あと少しで答えが出そうな気がするのだった。
 禁断だけじゃ駄目だし、あたしは死体になって解剖されたいとは思わないもの。そして体だけじゃ駄目なのよ。エロスってのは、
「下へ参ります」
 屋上では男が一人、待っていた。男は彼女に笑いかけると今度は素直にエレベーターに乗り込む様子だ。男が片足を軽く上げて一歩前に踏み出した。そして反対の足が地を離れ、上昇し、前進し着地する。彼女には男の動きがまるでスローモーションのように感じられる。男はその間、彼女の顔をずっと見つめ続けていた。彼女は微笑を浮かべたまま、男の足を凝視している。一体どうしてこんなに男の足はゆっくりなんだろう。男が彼女の横をすりぬけ、ようやく扉を通り抜けた。男は彼女のすぐ隣りの彼女に触れるか触れないかのところに立って、屋上で待っていたときと同じ姿勢で壁にもたれた。そして彼女の横顔をじろじろと眺める。
 彼女は男の視線を感じ続けながら微笑を浮かべたまま、エレベーターの閉ボタンを操作した。扉がゆっくりと閉まる。彼女は男に微笑んで、「閉店の時間ですので、1階まで参りますがよろしいですか?」と言った。男は彼女を見てにこりと笑うと、「ああ、ゆっくりお願いするよ」と答えた。
 そう、禁断と肉体はセットじゃなくちゃ駄目だわ。快楽の期待のない禁断にはエロスはないもの。禁止された向こうに快楽があって、その快楽を得るために禁断の柵を乗り越えるその瞬間がエロスだわ。逆に乗り越える柵のない快楽にはエロスが存在しないの。
 快楽だけではエロスはないし、禁断には快楽が保証されていなければならないの。ああ、うまく説明できなくてもどかしい。
 たとえば、服と裸の間にエロスは存在するんじゃないかしら。たとえば、リンゴの皮と果肉の間にエロスは存在するんじゃないかしら。どこまでが皮でどこからが果肉か分からない密着した果実の形。それでいて、目の覚めるような赤と甘く香り立つ白い果肉のあからさまな対比。皮ごとリンゴを齧った時、口の中のかけらには必ず皮と果肉の間、エロスが存在するけれど、エロスだけを抽出することは不可能だわ。薄過ぎれば赤い皮が残り、歯を立てすぎれば実に食い込む。でも確実に皮と実の間は存在する。皮と実、両方同時に食べることでしか味わえない。
 ええ、分かったわ。リンゴとエロスの関係が。エロスってのはリンゴの皮と果肉の間に存在するのよ。
 彼女がリンゴとエロスの関係についての自分なりの結論を思いついたその間にも、エレベーターはゆっくりと下降している。運動量保存の法則にしたがって、下降運動に取り残された内臓が少しだけ口元に迫る(これは彼女が、ナースである彼女の友人に聞いた知識だった)。彼女はリンゴとエロスの考察が形になったことに内心浮かれて興奮していたが、彼女の顔は相変わらずエレベーターガールの笑顔を貼りつけて、エレベーターの下降に伴って光る数字を見つめていた。斜め後ろに男の粘つくような視線を感じ続けている。心持ち、男が彼女の方に体を寄せてきた気配がした。男の腕は彼女の制服に当たるか当たらないかのところにあった。エレベーターの中の音が妙に大きく響く。彼女は男からは分からないように、そっと非常停止ボタンに手を添えた。扉の上の数字にちらりと目をやる。まだ四階だ。いつの間にか男は息がかかるほど彼女の側に来ていた。
「あんた、美人だね」
と、男は彼女の顔をを覗きこむように見ながら言った。
「恐れ入ります」
と、彼女は恐縮したように微笑んで見せた。自動運転には色々バリエーションがあるのだ。男の左腕が彼女の前を遮って操作盤のすぐ横に達し、男の体が彼女に覆い被さるようにして隅に立っていた彼女の進路を塞いだ。彼女は微笑みを貼りつけたまま、数字を見上げる。3階、もうすぐ2階。1階に到着してこの男を送り出せば今日の仕事はおしまいだ。彼女は最後のお見送りの言葉を発生するために、小さく息を吸いこんだ。そのとき、男の右手が彼女の髪の毛に触れた。男の指が彼女の髪をそっと掻き分け、帽子から覗いている彼女の小さな耳を露にした。男はその耳に唇を近づけて、彼女に囁いた。
「俺、ずっとあんたを見てたんだけど、あんたって、リンゴに似てる。ほらあの赤いリンゴの実だ」
 リンゴとエロスの関係についてずっと考え続けていた彼女は、男の言葉に頭の中が真っ白になった。体の芯から熱いものが染み出して体中にじんわりと広がって行った。体中が火照り、急にエレベーターの中の空気が薄くなった気がして、鼓動が早くなった。息をするのが苦しい気がして、彼女の唇をそっと開いた。そして、エレベーターガールの笑顔も忘れて、彼女は男の唇を凝視する。
「何て言うのかな、どこがどう似ているのかうまく説明できないけれど、とにかく似てるんだ」
 1階に到着した軽い振動。彼女は全身が脈打っているのを感じた。エレベーター全体が彼女の体の延長であるかのように脈打っていた。扉がゆっくりと開く。男は名残惜しそうに彼女から離れるとドアの正面に向き直った。5センチ開いた扉の向こうでは、取り残された最後の客を見送ろうと店員たちがかしこまって立っていた。彼らの口は今にもありがとうございました、と言わんばかりに開きかけていた。エレベーターガールの彼女だって男を見送るために、最上級の微笑みでありがとうございましたとお辞儀をするはずだった。だが、彼女はそうしなかった。お辞儀のために腹部に揃えて置かれるはずの彼女の腕はすらりと上昇し、続いて彼女の白い手袋に覆われた細い指がエレベーターの閉ボタンを押した。開きかけた扉が再びゆっくりと閉まる。扉の向こうで何か声がしたが彼女の耳には届かない。そして、途惑うように彼女を振り返った男の目をじっと見据えて、彼女は男に尋ねるのだった。
「ねえ、あなた、リンゴとエロスの関係についてどう思うかしら?」

<了>

4 / 4
ぱそ子
[HP]:作家のたまご
次へ
eros