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Folio vol.5 mystery
 野上あきらを探すと言っても私はどうしていいのか見当もつかなかった。いやそもそもそんな人物が実在しているかどうかも怪しかった。しかし、野上あきらがあの男が作り出した架空の人物だとすれば報酬の大金の説明がつかなかった。
 少女に野上あきらを探すと言ったてまえ、事務所に帰る訳にもいかなかった。
 私は仕方なくアパートの周辺を探索することにした。野上あきらという人物がこのアパートで生活していたのならば、この辺りをきっと通ったことがあるに違いない。
 この辺りは土地の高低差が激しく坂道だらけで大きな建物は全くなく空がやけに大きかった。
 私は道行ながら少女に様々なことを尋ねたのだが、少女自身に関することの答えはみな一様に「解らないわ」だった。しかし彼女の抱いている人形については色々なことを教えてくれた。初めて喋った言葉や、夜鳴きの激しいこと。離乳食の好き嫌いまで。
 
 空気がどこか灰色がかり、重く湿気を帯びていて、立ち並んだ八百屋の親父も、金物屋の親父も、魚顔をしていたせいか、日が沈むと共に街が海の底に沈んでいくかのような奇妙な感覚を受けた。さほど広くない道の両側に並ぶ商店を私は一軒ずつ訪ねて歩いた。当然のことながら野上あきらという名前を知っている者はいなかった。そしてさりげなく様子を窺っていたが、少女のことを知っているような者も誰もいなかった。
 男なのか女なのか、いるのかいないのか解らない野上あきらというフィルターを通して見たせいか、私は段々とこの商店街いやこの街そのものがどこか曖昧な架空のもののように思え始めていた。
野上あきらが通ったかもしれない道。話したかもしれない人。触れたかもしれない品物。
それらは野上あきらという人物が存在したならば確かに存在するが、この人物が存在しなければ全て存在しないかのように思われるのだ。
私は一人の人間が存在したということ証明することがいかに難しいことであるかを改めて思い知らされた。名前だけが現にこうしてあったところで、それはその人物が確かにいたという証にはならないのだ。だったら逆に名前がなかったらどうなのだろうか? 自分の意識は存在しても周りの人間、社会というものがそれを認めなければ? 
私の思考は少女の一声によって妨げられた。
「ねぇ、お腹空いた」


 適当に入った店で私は天ぷらうどんを注文し、少女は親子丼を注文した。私はぼんやりとこの金は必要経費で計算していいものだろうかと思いながら、それとは別のことを少女に言った。
「なぁ。さっきの迷路の話だけど、君の言っていたゴールとスタートをくっつけて八の字にしてしまったらどうだろう?」
 少女は首を傾げると丼を突いていた箸を置くとヒモを取り出して私の言ったようにヒモを机に置いた。
「駄目だわ。これじゃどこがスタートだか解らないもん。どこからも入れないしどこからも出られないなんてインチキだわ」
 入ってしまった後に出口が閉じたらどうなるのだろうか? そう思ったが少女が別のことを聞いてきた。
「ねえぇ。探偵さんはなんで人を探してるの?」
「仕事だからさ」
「じゃあ、どうして人を探すことがお仕事になるの?」
「その人を探して欲しい人がいるからさ」
「ふぅん。どうしてその人は人を探して欲しいの?」
「色々さ。何か言いたいことがあったり、貸していたものを返して欲しかったりね」
 そう言って私はあの男が何故野上あきらを探し出したいのか全く知らないことに気がついた。いやそもそも野上あきらとは何者なのだろう。 この少女とは一体如何なる関係にあるのだろうか。少女は否定したが、この少女こそが野上あきらなのだろうか。そのことを証明する手立ては何もないように思えた。


 食堂を後にするころには町はすでに夜の冷気に包まれていて、変に白い上弦の月が出ていた。夜が翼を広げた烏だとすれば、月はさしずめその烏の冷たく細めた目のように思えた。
商店街の店はみな閉店の準備に取り掛かり始めていた。その光景はどこか懐かしく、まるでタイムスリップでもしたかのように思えた。ふと野上あきらは過去の人物かもしれないと思った。あるいは未来の人物かもしれなかった。かつて存在した、あるいはこれから存在するであろう人物。確かに、さつき荘九号室に野上あきらは住んでいるのだが、それは今ではないというだけのことだ。私は過去あるいは未来までこの人物を探しにいかなければならないのかもしれない。
 そう思うと何か時間というものさえ怪しいもののように思えてきて、どうにもいけない。そもそも時間などというものは人間の意識の産物でしかない。あたかも唯一絶対の時の流れがあり、それを皆で共有しているかのように皆が思い込んでいるからこそ、人間は社会を営むことができるのだ。しかし、人間の意識というものは実に曖昧なものでしかないから、野上あきらのような時間失踪者が出てくのだ。野上あきらは人間社会から消えてしまったのではなく、人間時間から消えてしまったのだ。そして私やこの少女は、野上あきらというウサギを追って不思議の国へ迷い込んでしまったアリスに他ならないのだ。ならばこの少女の時間と私の本来過ごすべき時間は異なっているかもしれない。時間を超えた結びつきが私たち二人の間にはあって、それで出会うべくして私たちは出会ったのだ。
 少女は幼い頃の母なのかもしれず、幼い頃の妻なのかもしれず、そして私の娘かもしれなかった。
 その時、少女の抱いていた人形の赤ん坊が私の方を向いてにやりと笑った。それは私の孫かもしれず、私の息子かもしれず、いや私自身かもしれない……。
 私の体がかぁと熱くなるのを覚えた。私に母はあったのか? 私に妻はあったのか? 私に娘はあったのか? どれ一つ私は解らなかった。いやそもそも私は自らの名前すら覚えていていなかった。私は探偵として他人の秘密を必要以上に知り、他人の不安を取り除いていくうちに、私の内部は他人の秘密で溢れ、いつしか自分自身を忘れ、自分自身を知らないという不安をも自ら取り除いていたのだ。
 

どれくらいそのまま突っ立ていたのだろうか? 私の頬に何か冷たいものが触れ、私は我に返った。
いつしか辺りには雪が降り積もっており、街は雪で覆われつつあった。
まるで何もかもなかったかのようにしてしまうような白い世界。
私は辺りを見渡した。いつの間にか少女がいなくなっていた。雪の中に溶け込んでしまったかのように。
「どこにもいない」
 そう私は呟いた。
 どこにもいない。どこにもない。白い雪の世界に全て覆いつくされてしまった。私の母であったかもしれない少女。私の妻であったかもしれない少女、私の娘であったかもしれない少女。私自身。そして野上あきらも。
のうえあきら? Nowhere? どこにもない処? 
野上あきら。それは私の名前だったのだ。私はどこにもない人間だったのだ。
私は野上あきらを見つけた。そして私自身を見失った。
いつしか夜が明け陽光と共に雪は街ごと消えてなくなってしまった。仕方なく私の事務所へと帰った。今となっては、いや昔から私の唯一の居場所だったところへ。

 事務所に辿り着き椅子に座り込むと、突如閃くものがあった。ああ、そうか、この部屋へもうすぐあの男が現れるのだ。自分がどこにもいない人間だと気がついてもいないあの男が。あの男を追い払ってしまおう。幸いあの男がくれた金がそのまま残っている。長らく盗まれていたこの部屋を取り戻すのだ。
「探偵さんにしては無用心なことだ」
 そんな台詞であの男を迎えてやるのだ。自分のことなど何一つ解っていないあの男を。
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