春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、春という季節はやたらと気怠い。身体と心のバランスが上手にとれなくて、身体が目覚めているのに心は靄がかかったように眠かったり、心は焦っているのに身体は「起きたくない…」とゴロゴロしていたり。
ちなみに五月病というのは、暖かな陽気に誘われて目覚めようとする身体に対して、心がついてけない状態、なんだそうだ。大人になれば、そういうアンバランスは、全て上手に折り合いがつけられるようになるもんだと思っていたけれど、大人になればなるほど波長が狂ってくるのは何故なんだろう。努力して成長しても人生が生き易くならないなんて、割に合わない気分になる。
身体に心がついてこれない状態は苦痛だけれど、心が身体を置き去りにしている状態というのは不思議に気持ちがいいものだ。精神だけは冴え冴えと研ぎ澄まされ、指先の1キロ先をかすめる気配すら感じ取れそうな気がするのだけれど、身体のほうは催眠にかかったように低く横たわり、身動きひとつも煩わしいほどの怠惰さを愉しんでいる。背骨を時間の流れに浸すようにして悠々とたゆたう私自身。
それは不思議な姿の生き物のイメージを運んでくる。太古の姿のまま腹這いになって夢想する一匹の鰐。その鱗は透明で、油膜を張ったように複雑な虹色に輝いている。冷たい皮膚はデジタルな記号を受信するアンテナ、血液は無限の意識と文脈を乗せて全身を駆けめぐる電流。長い尻尾のひと振りが時間の流れを掻き回す。ファンタジーとテクノロジーが絶妙に融けあった、美しい空想を運んでくれる音楽がある。
ブラッド・メルドーの「LARGO」。
「LARGO」。音楽用語で「ゆったりとスローに」という意味の言葉だが、甘ったるい癒やし系音楽なんかを想像していると足下をすくわれる。ここにあるのは意識を鋭利に研ぎ澄まし、脳の中の新しい領域を目覚めさせてくれる、美しい音の冒険だ。
ブラッド・メルドーというと、明晰かつ端正なアプローチの演奏スタイルでお馴染みのジャズ・ピアニスト。無駄に難解なライナーノーツを自分で書いてしまうような理屈っぽさと、レディオヘッドのカバーを嬉々としてやるような今っぽい危うさと、とても10本の指だけで事足りるとは思えない超絶テクニックと、硝子の涙を指先で転がす透明なロマンティシズムを併せ持っている。憂いに濡れた優雅さと、よく研がれたメスで切り込むような鋭利な知性。どちらかというと「クラシックぽい」「キレイ系」と言える演奏を聴かせる彼が、「LARGO」では、脳のリミッターが外れたかのごとく遊びまくっている。
1曲めの「When it Rains」がものすごくいい。目覚めて最初に鍵盤に触れるときのような、少したどたどしい弾き方に微笑んでしまう。独り遊びを思わせる短いモティーフが懐かしく、そして初々しい。ゆるめのビートと焦点の甘いホーン。それは窓の外に音もなく降り注ぐ雨、かすかな輝きを放ちながら降りてくる光の針。窓から手を伸ばし、その光を手のひらに受けた瞬間から奇跡がはじまる。触れた部分から意識は次第に透き通り、複雑に折り重なる音を際限なく受け入れていく。
そうなればしめたもの、そのあとは天才的な悪戯が止まらない。ジャズの複雑とロックの茶目っ気とテクノの恍惚とクラシックの優雅さ、構うこっちゃないなんでも来いだ。ジャンルに線を引くのは作品を売り買いする側の勝手であって、創り出す者にとっては後から着いてくる名札でしかないということがよくわかる。
このアルバムで、ピアノは流状にねじれて形を変えるバーチャルな玩具であり、脳裏に渦巻く音を形にするための無限の装置になる。5曲目、レディオヘッドのカバー「Paranoid Android」では、水底から天国を仰ぐような、絶望的に澄み切ったソロを聴かせたかと思うと、「弦をパテ塗り」なんてやり方で、ピアノをガムランのように響かせてみたり。こんなことができるのは、ピアノに本気でのめり込み、とことん触り倒し、何をすればどんな音で鳴るのかを知り尽くしている人だけだ。
聴きながら演奏者の主観を思う。これほどのイマジネーションに意識を遊ばせる愉悦、そして全てを具現化していくための現実的なプロセスを思う。共演者たちを巻き込み、テクニカルな疑問点を解き明かし、同じヴィジョンを共有するために試行錯誤していくそのプロセス。それは恐ろしく高度で純粋な「音楽」という遊び。どんなゲームよりも研ぎ澄まされた、高揚と悦びを運んで来る。
10曲目の「Alvarado」、海底の錘のように重々しいピアノが、その駆体の重さから解き放たれて音の砂漠を疾走する。なんて自由。それはそれは凄まじく、攻撃的なまでのスピードで。
ラストナンバーは優しい子守歌から濃密な夢へと意識を解き放つような「I Do」。甘く酔わせる余韻を残して、音が止む。
残るのはただ私自身。身動き一つしていないのに、全身の血が新しくなったような内側の興奮が渦巻いて醒めない。身体と脳の間の裂け目は消え失せ、あらゆることが可能になった錯覚がする。
つまり、そういうこと。不可能の枠を作っていたのは私自身。脳の中で目醒めているのはたったの30%、あとの70%は夢も見ずに眠り続けるだけ。そんなことを誰が決めた? その先にはこんなにも豊かな世界が待っているのに。せせら笑うのはピアニストか、それとも私の空想の中に生きる透明の鰐か。
身体の重さを脱ぎ捨てることは叶わないけれど、それならせめてイマジネーションの枷を外して。鰐はダイアモンドの牙をちらつかせて私をそそのかす。脳裏を駆けめぐるイメージを噛み砕き、呑み込んで、解放することを。それは私を新しい場所へ連れていく。見えない線なんて元来なかったかのように飛び越えて、自分の中の秘密のエリアを、夜明けの地平線のように限りなくオープンに見渡すことのできる高みへと。
じっとしていることがもどかしい。起きあがって、窓を開ける。広がるのは普段と変わらない静かな街。それでもいい、街が変わらなくても私は変わることができる。空を満たす香気が顔を撫でる。春独特の気だるさを、濃やかに潤った、静かな高揚へと変えていく。