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茶石文緒

「alina」へのオマージュ
あるいはとりとめのない白昼夢

ARVO PART
ジャケット
Arvo Part (1935 - )
→tower.jp

土曜の午後。わたしはひとりだ。

書きものをするのにも飽きて、紅茶をいれる。「エディアール」のダージリン、赤い缶に黒のロゴ。鮮やかなのに落ち着き払った不思議な赤。

初めて見たのは何年も前のこと、羽田空港のショップだった。

大切な人と離れてひとりで降り立った空港。なにか手に取れる確かなものが欲しかった。

何故それを選んだのか、よく覚えていない。ただ、その缶に、そのときの私に必要なものがすべて宿っている気がした。

自信。余裕。芯の通ったデザイン。言葉すら通じない者同士を同時に魅了する普遍の芳香。自分の五感を傾けて、手の中にある時間を味わい尽くすだけの心の強靱さ。

泣き疲れたわたしは、あのとき、全てから掛け離れていた。

砂時計が流れ落ちる。

淡い青磁のカップに注いだ紅茶。ダージリンといえば必ず語られる決まり文句。マスカットの香?どうだろう。香りを言葉にするのは難しい。同僚が教えてくれたワインのフレイバーに関する蘊蓄を思い出す。猫の小水とか、濡れた子犬とか。葡萄酒の香を語るのに、マニアックな方々は随分と奇妙なヴォキャブラリを用いるようだ。

そんなワインで、やれやれ、どんな酔い方ができることやら。

部屋には低いヴォリュームで音楽が流れている。アルヴォ・ペルトの「アリーナ」。プログラムは以下の通り。

  1. 「鏡の中の鏡」(ヴァイオリンとピアノ)
  2. 「アリーナ」(ピアノ・ソロ)
  3. 「鏡の中の鏡」(チェロとピアノ)
  4. 「アリーナ」(ピアノ・ソロ)
  5. 「鏡の中の鏡」(ヴァイオリンとピアノ)

それだけ。同じ旋律の繰り返し。盛り上がりもなにもあったものではない、ゆるやかにループするミニマル・ミュージック。ミニマルといえばテクノばかりと思い込んでいたが、クラシックにもループという技法が存在するということを、わたしは最近知った。

わかりやすい泣き所のある音楽をお求めの方には向かない。周到に作り込んだエンタテインメントをお求めの方にもおすすめできない。クライマックスはない。興奮も、奇跡のような癒しもない。あるのはただ、脆く穏やかな静けさ。あまりに敏感な肌をそっと守るように、沈黙の上にはらりと一枚、薄く柔らかなシフォンの手触りが被るだけ。

全き静寂は妄想と耳鳴りを引き起こす。かえって心を騒めかせる。

この音楽に宿るのは静寂以上のコームダウン。仄明かりの差す月光の淵を覗くような鎮静と安息。

どぉぉぉ……ん。大砲が鳴る。

ひどく遠くから。演奏に重なって。窓の外の晴れた空を震わせるように、低く長く尾を引いて。

初めてそれを聴いたとき、わたしは大砲を音楽の一部として聴いた。作曲者(ペルトはエストニア出身だが、わたしはその国の歴新に明るくない)がこの重低音を楽器として用いるアイディアにはっとさせられた。

たとえば国の政変を憂えてとか、なにかの犠牲者を追悼するためとか。社会的なメッセージを絡ませた効果音として、大砲の音を底辺深くに響かせているのだと。それくらい、この曲に、大砲の音は相応しかった。ぞっとするほど美しく、完璧に調和していた。

死者となって土の下に埋もれている自分をイメージする。

暗黒と沈黙。心は波立たない。コームダウン。

大砲が続けて響く。どおぉぉぉん……どおぉぉぉん……けれど、その音は遠すぎて、あまりに隔てられていて、今更わたしを脅えさせることはない。

ここは街から離れた丘。教会の裏庭。教会には一台のピアノが据えられている。高い天井にぶつかって音は柔らかに輪郭をぼかす。演奏者は同じ旋律を何度も弾き続ける。柔らかで静謐なミニマル・ミュージック。フォルテッシモを打つ必要はない。轟音は大砲と銃声だけで十分だ。

礼拝堂の扉が開く。そこにはヴァイオリニストが立っている。扉の形に切り取られた光がピアニストの足下まで伸びてくる。演奏の手を止めたピアニストを見て彼は言う。

…もう全て壊れてしまいましたよ。建物も、風景も、生命も。残ったのはこれだけ。

彼の手には楽器が携えられている。彼の分身、使い慣れたヴァイオリン。

ピアニストは応えない。そういえば、もう何日も、街を見ていない。窓辺に立てば、丘の下に黒い煙が立ちのぼっているのが見えるだろうか。高架は折れ、建物は鉄筋を露わに崩れ落ちているのだろうか。そんな光景をいつか見た気がする。記憶には残らないほど遠い昔に。

…弦を替えたいけれど、楽器店まで焼けてしまって、手に入らないんです。

ヴァイオリニストはそう弁解しながら、楽器をケースから出し、緩みがちな音色を調弦する。

…かまわないよ。音さえ出れば。

ピアニストはようやくことばを発する。自分のピアノもずいぶんと狂ってしまった。街に住む調律師は、もうふた月もここへ来ない。彼も建物と一緒に崩れ落ちてしまったのだろうか、夜になるとその思念が頭を離れない。けれどそれが妄想なのか、現実なのか、確かめるすべを彼は持たない。

…もう全て壊れてしまいましたよ、か。

ヴァイオリニストの言葉を口の中で繰り返す。けれど、そんな言葉を舌の上に載せてみたところで、苦みや冷たさを感じるわけでもない。

考えに沈むピアニストを促すように、ヴァイオリニストが音を発する。祈りを呟くような、低くしめやかな旋律。それに応えて、もう輪郭もぼやけたピアノが、深い淵を暗い水で充たしていく。

大砲の音が遠くに響く。もう水面は揺らぎもしない。

音楽が止む。わたしは土の下から生き返り、明るい窓に歩み寄る。

大砲の音は続いている。晴れた春の空に不釣り合いな重い音。

焼けた街並みも、崩れた建物もありはしない。西の山間にあるはずの自衛隊の演習場もここからは見えない。最近では土曜だろうが日曜だろうか、朝から大砲を鳴らして演習をはじめるようになった。この音に馴らされて生きていくことに、ふとよぎるような恐怖をおぼえる。

愛するひとは今どこにいるのだろう。

思うだけで姿が見えればいいのにと願う。戦場にはいない彼の上に大砲が落ちることはないと知っているけれど、隔てられている時間は恐れ始めるときりがない。

どうか無事で、と祈るかわりに口にした紅茶は、気のせいか、雪の下で深く熟した、春の朽葉の香がした。

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