Folio Vol.10目次など

7 cards, 6 stories

茶石文緒

2nd

天使のちいさな歯のはなし

 とある午後。やわらかな日が当たる窓辺の壁に、幾人かの女達がもたれて、まどろんでいる。ふくよかで優しいかたちのラ・フランスのように、ゆったりと熟す時を待っている。
 そこはとても静かな場所だった。いつものような秘密の切売りや噂話は必要ない。見栄を張り合うことも、誰かをねたむこともない。ただ互いの呼吸や気配を通して、一人ひとりの心や体温の揺らぎを感じていればよかった。
 身体の中の果実がゆっくりと糖度を増し、それぞれにかすかにトーンのちがう、甘やかな香りを放っていく。どれほど時間が経っただろうか、やがて、そのうちのひとりが際立った存在になっていくのにみんな気がついた。果実の色づき方も、醸し出す香りも、何かがちがう。
 彼女が特別だとか、そういうことではない。女がもっとも豊かに熟す時期は、それぞれに異なって訪れるもの。今は、ちょうど彼女に時がめぐってきた、それだけのことだと、みんな静かに見守っていた。
 それは、目に見えぬ空気さえ、陽ざしに温められてまどろむ午後。彼女が色づくのを待っていたかのように、天使がやってきた。
 ちょうど部屋の向い側、白い壁をくり抜いたような入口から、柔らかそうなブロンドがひょこんと覗いた。白い羽根を背に揺らし、マシュマロみたいなお尻を楽しげに振りながら、とことこ歩み寄ってくる。行儀よく整列した洋梨たちを見ると、高い声を上げて笑った。
 ああ、なんて子かしら、と、その瞬間も甘く熟れゆきながら彼女は思った。その高い声はひどく官能的で、彼女の女の部分を音叉のように震わせるのだ。こんなに幼いくせに、こんなふうに笑うなんて。
 そして、その震えは、天使にも伝わったようだった。天使のまばたきが彼女を捉えた。小さな足が吸い寄せられるようにやって来て、濡れたくちびるが、また笑った。
 洋梨が大きいのか、天使が小さいのか、ふたりはほとんど同じ背丈だった。甘やかな香をふりまいている彼女の体に、天使は擦り寄るようにして抱きついた。ふくよかな腹を両足ではさんで、腕をしっかりと回して。そうして、小さな歯を剥き出して、その肌を噛んだ。
 乳房のあたりに優しい痛みが走って、あ、と彼女は小さな声を上げた。洋梨の姿をしているのだから、乳房も口もあったものではないのに、そんな感触が、確かにあったのだ。

 ひとりになったあと。人間に戻った彼女はぼんやりと、噛まれた自分の身体を思う。身体と、小さな歯に噛み切られた心のことを。
 それは心の一部が一瞬にして奪い去られる体験だった。おどろきの感覚が訪れるのは一瞬なのに、持ち去られた心のかけらを再び元にもどすには、その幾倍もの、長い時間がかかる。
 たとえばそれは、身体が自ら傷口を治そうとするように。養分をたくわえ、細胞をつくりだし、あたたかな血をめぐらせる。自然にまかせてゆったりと、ひとつひとつの兆しを丹念につないでいく。そのあいだ彼女は甘い痛みと、それを自らの内に抱き込み、癒し育てていく穏やかな愉悦を交互に味わいつづけるのだ。
 必要な時間は、およそ十月と十日。約束の日が来れば、もういちど天使が、彼女のもとへやってくる。こころゆくまで彼女に甘え、抱きつき、小さなくちびるで乳房に噛みつくために。ただし、こんどは痛みがないように、まだ歯も生えぬ、無垢な赤児の姿をして、やってくる。
 正直なところ、彼女は、その日がまちどおしくて、しかたがない。 fin

Tea Time With You天使のちいさな歯のはなし拝啓ヒーローさまアンティーク 記憶屋1,000,000$月と白鳥

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Profile

茶石文緒
[comment]創刊から2年間、すごく遠かったようにもあっという間のようにも感じます。小説書かせてもらって、連載のスペースもらって、ホント幸せでした。サイキさんに、編集の方たちに、読んでくださる皆さんに、感謝。
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