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  恋する言葉 エジプシャン・ラブソング 岡沢 秋
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恋する言葉 イラスト
イラスト 甲斐

 
 砂煙に黄色く煙る、強い風が吹き付けている。
 それが分かるのは、窓の外で天高く舞った風が心元なく軋む銀翼を包み込んでいるからだ。隔離された小さな空間から見下ろす、その翼の下には、茶色く広がる大地と区別のつかない色に染まった街が、一塊になって広がっていた。
 日本から、直行便で行きは八時間。だが帰りは十九時間もかかってしまうほど時差のある場所に、つまり現在においても時の流れの違う場所に、その国は在る。
 モカッタムの丘。飛行機から降りてすぐに目に付くのは、空港のほぼ真南に広がる絶壁だ。そこは、かつて「太陽の丘」と呼ばれ、神話に語られるこの世で最初に生まれた大地「原初の丘」に比せられた。
 だが、時差と長時間のフライトの後、ふらふらしながら空港に降り立った異邦人にとっては、丘を眺めて感傷に耽るだけの余裕は無い。
 空港はちっぽけで、薄暗く、空気を包み込む風と同じく黄色い砂埃に占領されている。欧米人向けに売店で売られる安っぽいコーヒーの匂いと、派手な色合いでコミック調に描かれた、スフィンクス柄のシャツの悪趣味なピンク色とが、いやに目鼻についた。
 「ヘリオポリス国際空港へようこそ」腕を広げて私を出迎えてくれたモハメッドは、ニヤリと笑ってそんなジョークを言った。普段ならニヤリと返せたものだろうが、疲れていた私は、力なく笑い返すしかなかった。
 「どうも、飛行機のエコノミー席というやつは好きになれないね」モハメッドの用意した車に乗り込みながら、私はぼやいた。
 もっとも、あの、発狂しそうなくらい狭い席に二十時間近くも閉じ込められることが好きな人間など、いるとは思えないが。
 車が動き出し、やっと人並みにくつろげる広さのシートを手に入れた私は、ため息まじりに強張った足を伸ばしながら、遅ればせに窓の外の景色を去ってゆくオベリスクに気づいた。
 現在、「カイロ国際空港」と呼ばれている場所、――かつて、そこは、ギリシア人をしてヘリオポリス<太陽の街>と呼ばしめた太陽信仰の中心地の果てに当たる。
 彼らは、この地に立つ太陽を崇める巨大な柱をオベリスク<針>と呼んだ。
 今見ているものは、古代と言われる時代に立てられ、唯一、現代まで残された遺物である。かつて趨勢を誇った時代の最後の一本は、変わらぬ強い陽光の中、真新しく白く輝く表面を天に向かって誇らしげに突き立てている。
 遠ざかりながらも街並みの向こうに見え続ける、巨大な<針>は、この場所が今なお、遥かな古代と繋がっていることを感じさせるモニュメントなのだ。

 想像して欲しい――、約三千年ほど前、そこは、穏やかな流れ行く大河のほとり、河べりに数キロに渡って広がる豊かな堆積土の上に築かれた街だった。
 普段は町のはるか西を流れるナイルの流れは、毎年、七月半ばになると増水し、ヘリオポリスの町まで流れ込んだ。そして、数ヶ月の後、上流から運んできた堆積土を残して、ゆっくりと引いていったのである。
 ちょうど今頃の時分、グレゴリオ暦にして十一月とは、まさに、水の引く季節であった。当時の暦では、河の増水が終わり、作物を育て始める「初春」に当たる。一年を通して弱まることを知らない、北回帰線直下の太陽のもと、作物は見る見る間に育ち、黄色い丘の下に広がる大地は、今まさに、芽生えの季節を迎えている真っ最中のはずだ。
 河が運んできた黒い、柔らかな土は、照りつける日差しの中いっぱいに萌ゆる枝葉を伸ばす草の根元に厚く積もり、河の上流より飛来した鷺たちが、優雅な足取りで餌をついばむ。東の河岸に聳え立つ岸壁から吹き降ろす季節風が人々の暮らす村を過ぎてゆき、木陰に休む者は、心地よさに自然と目を閉じる。

 今から三千年ほど昔、その風景のどこかで、名の知れぬ一人の男が、ひそかに恋歌を書き残した。

 そう、これは、俗に言う古代エジプトでの話である。
 現代に生きる我々の感性で言うならば、新王国時代後半、第十九王朝から末期王朝初期に至るまでの数百年。もっと分かりやすく説明すれば、有名な「ラメセス二世」王を中心として、ラメセスという名を継ぐ王たちが次々と即位し大いに繁栄した時代…から一転して、国土の大半を他民族の王に奪われ、急速に栄華を失っていくまでの間――その、いずれかの瞬間である。
 当時の平均寿命からして、平民一人の一生は、おおよそ三十年程度。男が字を覚えてから、若い衝動を覚えるまでに、人生の半分は過ぎていただろう。

 くだんの恋歌の書かれたパピルスを発見したのは、フランスやアメリカやイギリスが、繰り返し送り込む発掘調査隊のいずれかだったと思われる。
 発見された当時の状況を、私は知らない。いや、もしかしたら、誰も知らないかもしれない。
 かつて発掘調査とは、専門の考古学者ではなく、資金に余裕のある裕福な人々や、権力者が興味と好奇心から行っていたものだった。何だか分からないが珍しいものを手当たり次第に集めていた時代だってあったものだ。そんな時代に発見され、集められたものの場合、発見当時の状況や元の所有者(もともと墓に収められていたものだった場合、その墓の主が誰だったのか…と、いうことなのだが)が、分からないことは、しばしば起こり得る。この手紙も、そういった時代の発見物だったかもしれない。

 黄ばんで端のぼろぼろになっているパピルスは、元は白または薄いベージュのような色だったに違いない。紙は河べりに生える葦科の植物の三角形をした太い茎を薄く切って水に晒し、その後、縦横に交互に並べて強く叩いて作ったもので、薄くて白いものほど高価だった。
 ものを書くなら、紙代はもちろん、自分の稼ぎから出さねばならない。
 通貨が存在しなかった時代、当時の紙の値段としては、一ロールで小さなヤギと同じほどの値段、通常の労働者の一〜二日ぶんの給与に当たる。だが、何か書き物をするときは、もとの巻物を必要な長さだけ切って使うのが普通だったし、男はそれなりに稼ぎの良い「書記」だったはずであるから、この戯れに、さほど家計を気にする必要は無かっただろう。
 書記、つまり文字を書く職業は、古代世界においては重要な役割を持っていた。
 もちろん字を学ぶのには長い年月が必要だったし、その間、逃げ出さずに勉強し続ける忍耐力が必要だった。古来よりどこの国でも「文字には呪力がある」と信じられて来たように、人の信ずる、未知なる力についての知識も必要だった。
 そして何より、古代エジプトにおいて、どんな内容であれ、ものを書くということは、それを永遠にするためであった。
 言葉は神々が、知恵と真実をとこしえに伝え知らしめるために造ったものだった。書き物を習うということは、過去の偉大なる人々から知恵を学ぶと同時に、自らの知ったこと、その時代に起きた出来事を記録して次の世代に伝える資格を得ることを意味する。


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