特集:童話 Folio vol.3
イラスト:ミンチ
たとえば、人魚姫ぱそ子
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8.歩くたびに痛む足−2

 部屋は再び波の音で満たされていた。テレビは沈黙し、テーブルの上には住所の欄と写真の貼りつけ欄の完成を待つばかりの履歴書が置いてあった。彼女はベッドに膝を立てて座り、波の音を聞きながら彼が帰って来るのを待っていた。彼女は部屋着に着替えるのも忘れていた。部屋の電気は消していた。暗闇の中、CDプレーヤーの四角いディスプレイが青白く光っている。窓の外では偽物のオレンジの月が光っていた。
 延々と続く波が彼女を揺さぶる。右から、左から。そして彼女は波に飲まれて沈んでは浮かぶ。繰り返し波と戯れる。
 彼女は窓から外を眺めてみた。真っ黒だった夜の濃度が少し薄まっている。朝がもうすぐやってくるのだろう。
 そのとき、ガチャと鍵を回す音がした。玄関のドアが開く音。靴を静かに脱いで、ゆっくりと足を忍ばせてベッドの方に歩いて来る。彼だ。真っ暗な部屋の中を波の音と彼の足音が支配している。彼はきっと、彼女が先に寝ているものだと思いこんで、起こさないように足を忍ばせているのだろう。だとしたら、ベッドで膝を抱えて起きている彼女を見つけて驚くだろう。彼が電気のスイッチに手を伸ばした気配。突然停電が起きて、電気がつかなければいい、と彼女は体を固く緊張させて願った。
 突然、部屋は光に溢れた。彼の疲れたような顔が彼女を見た。彼女も彼の顔を見た。
「まだ、起きてたの?」
と、彼は言った。彼の声はか細く、何かに怯えているようにも聞こえた。



9.短剣を取るか、泡になるか

「わたしは、ただあなたと一緒にいたいだけなの」
と、彼女は言った。彼は部屋の真ん中に立ったまま、はっとした表情で彼女を見ていた。彼は彼女の顔を見つめたまま、しばらく沈黙していた。そして胃の奥から吐き出すように、震えた声でごめん、と言った。彼の顔は歪んでいて、つらそうだった。声やっと声が届いた、と彼女は思った。
「ごめん、」
と、彼は口から零すようにもう一度謝った。彼女はベッドから降りて彼の元へ歩み寄ろうとした。
「分かってもらえれば、それでいいの。あなたが忙しいのは分かっているもの」
「そうじゃないんだ、ごめん」
 彼女は微笑みかけていた口元を強張らせた。部屋全体を巨大な波が襲う。部屋は海に飲みこまれる。何もかもを波がさらって、部屋は海水で満たされる。
「他に、好きな人がいるんだ。君以外に。もう君と恋人でいられない」
 本当にごめん、と吐き出すように言ってしまうと、彼女の恋人であった男はくず折れた。彼女はベッドの脇に立ったまま、彼を見下ろしていた。彼の肩は震えていた。泣いているようだった。
「俺が全部悪いんだ、今まで黙っていて悪かった。君には俺を責める権利がある」
 彼は震える声を振り絞って、ようやくそれだけ言った。彼女はゆっくりと彼の側に近寄る。そして彼の脇にゆっくりとしゃがむと、震える手で金色の短剣を拾い上げた。剣は、蛍光灯を反射して冷たく光り、彼女の熱を吸い取っていく。彼女は小さな短剣を握ったまま、青くなった唇を噛み締めて立ち上がった。
「わたしがあなたを責めたり、殴ったりしたら、あなたはもう一度わたしのものになるの?」
と、彼女は尋ねた。彼は俯いたまま沈黙していた。彼の答えはいつまで待っても得られなかった。固く握り締められていた彼女の指が力なく開いていく。短剣が静かに彼女の手から滑り落ちる。床に転がって甲高い音をたてる。
「そう、分かったわ」
と、彼女は呟いて、壁に掛けてあったコートを取った。
「住所が決まったら連絡するから、わたしの荷物そこに送ってくれる?」
 彼女は彼に背を向けて玄関へ向かう。急に大時化に襲われた船のように、玄関へ続く道がぐらぐらと揺れていた。彼女は固く目をつむる。
「ねえ、荷物って?」
と、彼が玄関で靴を履く彼女の後ろ姿に向かって言った。荷物? ああ、そうだ。わたしの荷物なんて何もないんだった、部屋の中を満たしているこの波の音以外は。
「そうね、荷物なんてなかったわ。さようなら」
 ドアを閉めた彼女は、振り向かないように走って階段からマンションを駆け降りた。外は夜明け前の白い空気に包まれていた。


10.たとえば、人魚姫

 彼女が短剣を選ばなかったのは、彼を愛していたゆえか? いや、そうではない、彼女は何より、疲れたのだ。もう何もできないほどに疲れきっていたからだ。
 白い空が赤く色づき始める。もうすぐ夜が明ける。地を這うような朱色。ほのかに温度のある光が彼女を包む。光を浴びた彼女の体の中心からは滾々と水が涌き出てくるのだった。それは温かく、柔らかで、海の水そのものだった。海は彼女の中からいくらでも溢れてきて、彼女の二つの目から流れ落ちる。このまま、泡になって消えてしまえばいいのに、と彼女は思った。たとえば、人魚姫のように。
 
<了>