vol.4

彼の文字列

彼の文字列


ことこ

 まさか来ているなんて思いもしなかった。不意打ちもいいところなその出現に、私はおおいに動揺した。そして同時に、その動揺が気取られないようにマッハのスピードで愛想笑いと罵倒と嬌声を周囲に振りまく。
 彼て関東の人じゃないじゃないか。それが、どうして、新宿のオフなんかに。
 そしらぬ顔でいつものメンツとわいわいと騒ぎながら店に入り、彼からは意識的に距離をとった席に陣取る。
居酒屋につきものの喧噪と、そのなかでも一際大声を張り上げてはしゃぐ私達の一団。いつもにも増して私は大袈裟に愛想をふりまき、アホなことを大声でわめき続けた。弾幕はうまく張られているだろうか。不安になる。集合場所に彼の存在を認めたあの瞬間、最も動揺したあの時、私が彼を見つけるのと同時に彼も私を見つけていたように思う。だとしたら・・・

『してほしいんでしょう?』

 フラッシュバックのように彼の言葉が脳内をチラつく。

『もう濡らしているんですか』

 フラッシュバックというのはちょっと違う。彼の姿を見かけたその瞬間から、私の脳内にずっと流れている、文字列。チラリチラリ。チラリチラリ。

『どうしてほしいのか、言ってごらんなさい』

 彼は、どう思っているんだろう。私のことを。ああ、ちがう。恋愛とかそういうことじゃあない。私がそういう女だということを知っている唯一の存在として、そんな私をどう思っているのかが気になる。軽蔑しているのだろうか。面白がっているんだろうか。ウーロン茶をすすりながら、煙草に火をつけながら、彼の視線がこちらを向いているのかどうかを確かめたくて狂いそうになってくる。
 でも、決して確かめたら駄目だ、という声が頭の中から聞こえる。わかっている。彼は、きっと一瞬で私の中の欲望を見抜いてくる。
 私の中の、欲望。
 そう思った瞬間、ジワ、と何かが染み出るのが自分でもわかった。
 頭の中に浮かびそうになった考えを、慌てて沈める。ありえない。彼が、そんなことのために来たなんてことは、ありえない。他の誰かに会いたくて、もしくは、何かの用事のついでに、東京に来たに違いないんだから。偶然たまたま寄ってしまったオフに私がいて、むしろ彼のほうがゲンナリしているに違いないんだから。
 周囲の喧噪にてきとうな相づちを打ちながら、私は必死で自分の希望を打ち砕いた。そして、気付く。打ち消そうとか、打ち砕くとか、その時点でもう結論は出ている。すくなくとも、私は何を考えているのか、という点においては。
 自分の身体がスタンバイ状態に入っているのが知覚できる。
 脚の付け根にヒクっと力がかかる。
 脚を組み換えると、かすかに音をたてたように思えた。ああ、まずい。私はにこやかに談笑しながら、そこから何かが匂いたっているのじゃないかと気が気ではなくなってきていた。

 彼がどうしているのか確かめたいという欲求が、イケナイという思いと裏腹に高まる。けれど、もしもチラリと見たその瞬間に「見た」ということを気取られたら。
 下手をすると彼どころか、今隣に座っている彼にまでこの匂いを察知されてしまうのじゃないか、と不安になって、たまらずに私は席を立った。お手洗いにいって拭いてしまわないことには自分を誤魔化して喋り続けることもままならない。
「ちょっとお手洗いー」
 そう告げて立ち上がった時、つい一瞬、私は誘惑に負けた。
 彼と、目が合った。
 頭の中を数日前の深夜に交わされたメッセのログが駆け巡る。
 恥ずかしくて死にそうになる。ちがうちがう。ちがいます。誘ったわけじゃありません。ああ、いや、目が合ったからって誘ったことになるなんて考えてるわけじゃないんです。そんな図々しいこと考えてません。忘れて。今のナシ。神様、ノーカン。

 もちろん、彼が追い掛けてくるなんていう妄想は妄想でしかなかった。
 お手洗いに入り、自分のあさましい期待へのみじめさに一人笑いながらねっとりとした液を拭き取り、なにくわぬ顔で戻った時、彼は同じテーブルの人と、私のことなど目にも入っていない様子でお喋りをしていた。
 気付くな気付くな、と自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど存在感を増す。自分の中のガッカリ感。
 あーわたし、終わってんなー。期待とか言って。ははは。後頭部を壁にトン、ともたれかけさせ、一瞬、目を閉じて居酒屋から気持ちが遠ざかった、その時。

「もう濡れてるんですか?」

 不意に耳もとで囁かれた声に、防御壁をつくる間があるわけもなく、脊髄反射のように全身がビクっとするのを止めることはできなかった。驚いて目を開くと、いつのまに隣に来たのか彼がこちらのテーブルの人と談笑していた。彼のことを露骨に見るわけにもいかず、私も突然バクバクいいはじめた心臓を落ちつかせながら、さりげなくその輪に入った。

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