以前同僚だった男のひとの話。
普段からちょっと無口で、変わった雰囲気のひとだった。仕事はできるけど、ほんとは何を考えているのか、一緒に働いているチームメイトですらよく知らないような。結婚しているそうで、シルバーのアクセサリーにまぎれてシンプルな指輪が薬指にあった。奥さんはスゴイ美人だという噂。どうしてこの人に、と思っていたけど、ある日なんとなく、腑に落ちたことがある。
そのひとが、会社のデスクの隙間をすれ違いざまに、わたしにこんなふうに声をかけたのだ。
「あのさぁ、さっきの書類、プリントアウトしといたから。チェックして、俺の机に上げといて」
なんてことはない、超事務的な業務連絡。それなのに、その一言に、自分でも驚くほどドキリとさせられた。初めて彼が「男」として目に映り、何気ない仕草さえ、妙にセクシーに見えてきた。まったく情けない話だけど、その一日はまっすぐ目も合わせられないくらいに、一瞬でヤられてしまったのだ。
なぜかって? 理由は簡単。
彼は、どうってことのないその業務連絡を、あまりにも低くおさえた声で、私だけに、囁きかけたのだ。
同僚たちに聴かれてはいけない、二人だけの秘密の約束を確かめるような、ひそやかな声。すれ違い、振り返った肩にそっと吐息だけを乗せかけるような感触は、そのひとが会社を辞めてしまった今でも、かすかに残っている。
ほんとうに関心のある人を惹きつけるのに、大きな声でわめき散らす必要はない。音が大きければ大きいほど、人はそこから遠離りたくなるし、遠離るほど、相手の耳に届くまでには長い時間が必要になってしまうから。もし本当に相手を振り向かせたいなら、むしろ低く呼びかけるほうがいい。その唇の微妙な動きを、間近でじっと見つめなければ言葉の意味を解せないほどの、かすかな囁きがいい。そうすれば、自然と距離は縮まらずにいられない。
わずかなきっかけで、ほんの一瞬の注意を惹きつける。それだけで、微細な空気の震え、吐息の届く距離にまで、相手を引き寄せることができる。そうなればしめたもの、あとはほんの少し手を差し伸べ、抱き寄せるだけ。なんて小さな揺らぎ。離れがたい関係が、いつも笑ってしまうくらい些細なきっかけからはじまってしまうのも、もしかすると、必然なのかもしれない。
だから、マーチング・バンドの先頭で耐え難いほどの華麗さを誇っている金管楽器たちも、おそらく、そんなに華々しくファンファーレばかり吹き散らす必要はないのだ。珠玉のような音をこれ見よがしに転がしまくるのもいいけれど、時には、それを吹くひとの息遣いをそのまま伝えるほうが、よほど親密な熱を帯びて聴こえることもある。
嘘だと思うなら、このアルバム「(((AIR)))」を聴いてみればいい。ふつうピアノトリオというと、ピアノ、ベース、ドラムスが相場だが、これはピアノとトランペット、トロンボーンのトリオ。かなり「異」な組み合わせだけれど、決して単なるキワモノではない。最初の音が鳴った瞬間から、その音空間は既に完成され、磨き上げられた芸術品であることが明らかに伝わってくる。
ここでの金管たちは、破裂音すれすれのところで鳴り響くことも、誇りやかに音の珠を転がすこともしない。その音はまるで人の声そのもの。抑揚があり、陰影があり、呼吸とともにかすれて減衰していく。一つ一つの音の終わり方は、手で引きちぎり、たったひとりの相手だけにこっそりと手渡されるメモ用紙のよう。紙の端の繊維の裂け目にも、伝えきれなかった感情が、渦を巻いて残っている。
それは言葉を奪われた感情。どんなに雄弁に語る人も、一度楽器を口に当てれば、うわっつらのボキャブラリなど分厚いマウスピースに吸収されて失われてしまう。残るのは呼吸だけ。まるで白磁器、あるいは金管楽器そのもののように重く滑らかな金メッキの仮面を被った人が、耳元でそっと漏らす吐息を聴くようだ。表情は1ミリも変わらないのに、覆い隠された顔の温みだけが仄かに伝わってくる。言葉は形を成さないけれど、痛みや哀しみ、切なさだけが、声になって立ち昇る。間近で耳を傾け、微細な揺らぎまでもを聴き取った人だけが、その意味を知ることができるのだ。
ところで、金管たちの吐息はあまりにファジィで、感情は伝わっても、音楽として完成するには曖昧すぎる。まるで母音だけの台詞が際限なく交わされるのを聞いているようなもので、それだけでは物語は完結しない。だからピアノが必要になる。厳格にチューンされた88の鍵盤と、それを束ねる10本の指。ミラバッシのピアノの最大の魅力は、潔いまでの音の明晰さと、触れられそうなほど瑞々しい情感の表現力にある。どれだけ抑えたピアニッシモで囁いても、音の輪郭がぼやけることはない。その鋭利さが、溶け落ちそうな金管の音色と、絶妙に調和する。
曇りのないクリスタルのように聞き手を射抜く、ひとつひとつの音。衰えることのないベクトルが、自在に世界を織り上げる。宙を行き交う吐息に色合いと複雑な文脈を与え、かぎりなく精度の高い、ひとつの音楽へ磨き上げていく。
「(((AIR)))」。それは、意識の内側にひっそりと引き籠もるような、幽かな空気の揺らぎを音にしたアルバム。遠くで音が鳴るのをのうのうと待っているような鈍感な神経では何も聴けやしない。本当に聴きたいのならば、あなた自身が近づいていくしかない。
全てを台無しにしないように神経を遣いながら、三重の括弧の中に、そっと足を踏み入れてみる。そこには、信じがたいほど完成された、そして限りなく親密な、美しい音の空間が、息づいている。
追記。もしもあなたが、「(((AIR)))」を通してジョバンニ・ミラバッシに興味を持たれたなら、併せて前作「DAL VIVO!」もお奨めしたい。こちらはピアノ、ベース、ドラムスの正当派トリオ。共通して収められている「MEMENTO MORES」「JEAN-PAUL CHEZ LES ANGES」「DES JOURS MEILLEURS」の3曲を聴き比べてみると、このピアニストの表現力の広さに、改めて惚れ直すことになるだろう。圧倒的な気迫と冴えきった華やかさで一気に聴かせる、極上☆☆☆のライヴ盤。