本文目次など
one hundred years

レタスの墓

「お母さん、ニンニク嫌いなんですか」

部屋に入ってきた民子は大きな溜息を吐いて、腰から力が抜けたようにへたりと座り込み、「一本もらっていいですか」と、テーブルの上にあったマルボロに火をつける。肺に吸い込まれず吐き出されるマルボロの紫煙は、ただでさえ煙っぽい僕の部屋を灰色に濁す。

民子は普段、煙草など吸わないのだろう。そんな無理に吸わなくてもいいと思うが、民子は初めて僕の部屋を訪れた時、「私毎日一箱吸ってしまうんです」と、僕のマルボロを一本抜き取り、親指と人差し指にはさみ、口に持っていくことなく、まるで花火に火でもつけるような仕草で、少し顔を反らしながら百円ライターの火を当て続けていた。「マルボロって火がつきにくいんですね」マルボロの火がつきにくいのではなく、民子が毎日一箱吸っているであろう煙草も同様、その方法ではいつまでも火が灯ることはない。

「ニンニクは、大丈夫だったと思うけど」
「じゃあ今日は調子が悪かったのでしょうか。ちょっと待ってて下さいね。今残ったもの持ってきますから」

民子はまだ半分も灰になっていないマルボロを、いつものように指に煙がかからないように神経質に揉み消して一階の台所へ戻っていった。

コンコンコンと軽快に階段を降りていく民子の足音が聞こえる。しかしその軽快な足音も、正確に表すと「コンコンコン、カカコン」となる。僕の家の階段は緩やかな螺旋形になっていて、カーブする部分の階段が、一段だけ面積の狭い部分がある。民子には足を踏み外しやすいので気を付けるよう毎回言っているが、民子は注意された数だけ踏み外す。登るときも降りるときも踏み外すので、「コンコンコン、カカコン」と足音が聞こえたら、それは民子がこの部屋に訪れる合図となっていた。

脳梗塞によって右半身が麻痺してしまった母の介護の為に、民子がホームヘルパーとして週に三回、訪問介護に来るようになってからもう半年が経とうとしていた。

母が病床に臥してから既に二年経つが、少々気難しい母の性格が起因して、最初の一年はまるでピザの配達にでも来るように、次々に母の介護者は変わっていった。大声で喧嘩するものもいれば、姑に苛められたように泣きながら家を飛び出していく者もいた。その惨憺たる前例からして、額で揃えた前髪に、一九歳とは言うものの、幼さの残る目元に気の弱そうな笑みを浮かべた民子を初めて見た時、この子を見るのは最初で最後だなと思っていた。

しかし、予想に反して民子は今までで一番続いているホームヘルパーになった。決して根気があるわけではない。母の介護や掃除、洗濯などの雑用が際立って上手いわけでもない。勿論あんな気難しい母と馬が合うわけでもない。ただ呆れるほど鈍感さと、驚くほどの従順さを持っているのだった。しかしその「鈍感」という短所も、長所に直してみると「穏やか」となり、「従順さ」も「素直」となるわけで、何を言われても一言目にまず謝り、いつも気の抜けたような笑顔を浮かべている民子だからこそ、母の介護を続けられるのかもしれない。

「お待たせしましたー。今日はペペロンチーノです」

僕は溜息を吐く。ニンニクが好きか嫌いか以前の問題だ。母から食事は刺激物を少なく、そしてできるだけ和食にして欲しいとあれだけ言われているのに、民子は、「毎日和食だと飽きると思うので」と、頼んでもいないのに洋食を拵え、自ら母の逆鱗に触れにいこうとする。

「調子が悪いんじゃなくて、そもそもパスタなんてあまり食べないんだよ」

そう言って僕は民子が持ってきたペペロンチーノを食べ始める。民子は母の介護にやって来る日、頼んでもいないのに僕の食事まで作ってくれる。明らかに職務外の行為だが、僕としてはコンビニに行く苦労が省けるので、この職務外の行為を黙認している。母は、勝手に息子の部屋に出入りしているホームヘルパーが気に入らない様子だが、母も息子に食事を作ることができない立場上、民子を心から責めることができない。民子はそんな母の心情を察しているのかいないのか、こうやって自分の仕事が終わってから、食事だの、母にしっかり勉強しているか見てきてくれと言われただの、部屋が汚すぎるだの、何かと理由をつけて僕の部屋にやって来る。

「お勉強、進んでますか」
「常に進まないとね。振り返ったって何もない」

帝東大学医学部を目指して三年目の冬を迎えようとしていた。初めての大学受験を控えていた頃に母が倒れ、その時は母の病気の所為にできた。二年目も母が入院していた病院を行ったり来たりで、勉強に集中できなかったと言い訳ができた。しかし母も多少の介護は必要だが、在宅で生活できるようになり、ホームヘルパーや訪問看護師のお陰で僕の負担も減り、今年は弁明できる材料がなくなってしまった。

「ごちそうさま。年寄りにはちょっと向かないかもしれないけど、僕は美味しかったと思う」
「わぁ。ありがとうございます!」
「ししとうと唐辛子を間違えてた頃に比べれば大したものだよ」
「ひどーい!」

民子は顔を唐辛子のように真っ赤にして大声で笑う。参考書に囲まれた浪人生の陰気な部屋の中の民子の笑顔は、カーテンを開けた瞬間、無遠慮に入り込んでくる陽光のように、眩しくて、温かかった。

母はもう、寝ているだろうか。午後一時。母は介護の時間が過ぎると、気を張りすぎたのか、遣い過ぎたのか、六時の夕食の時間まで休んでしまうことが多い。夜なかなか眠れないのもこの午睡の所為なので、控えるように言っているのだが、右半身麻痺という後遺症を残し、日常生活行動に様々な制限が生じている今、母にとっては僅かながらも現実を離れることができる睡眠に、魅力を感じているのかもしれない。それとも、床擦れ防止の為に、民子によって神経質なほどシーツの皺が伸ばされたベッドの上で、民子の大きな笑い声を耳にして、顔をしかめているのだろうか。

「民子さん、政夫にも御飯作ってるそうじゃない」

夕食の時間、母は、僕とは目を合わさずに、まるで民子が昼間に作り置きしていた里芋の煮物に話し掛けるように言った。

「ん? あぁ、お母さんの食事の余りものだよ。一人分の食事作るって案外難しいらしいよ」

母は、それに対して何も言わずに、左手に持ったフォークに刺した里芋を、品定めでもするような表情で目の前に掲げた。右利きだった母は、いつまで経っても左手で箸を持つことができず、最近は食事の度に小さな挫折を味わうことを避けているのかフォークしか使わなくなった。

「この里芋はちょっと煮込み過ぎてるけれど、しっかりと味が染み込んでるわね」

母は民子の前では決して誉めない。埃一つ残さず掃除することも、簡易トイレの始末をすることも、上手い料理を作ることも、ホームヘルパーの業務として当然であるかのように受け止めている態度を見せる。しかし民子のいない場所では、このように素直に感謝の念を表したりと、厄介な姑になる要素は十分持ち合わせている。母は里芋の煮物をフォークで突きながら、考え事をしていたのか、意を決したように里芋を口に入れ、静かに咀嚼してから言った。

「ねえ、民子さんのことなんだけど……」

僕は何となく民子の話が出てくるような気がしていたけど、それがどういった種類の話なのか、まだよくわからなかった。

「民子さん、あなたの勉強の邪魔になっていないかしら」
「そんなことないよ。僕だって起きてる時間は全て机に向かってるわけじゃないし」
「そう。でも政夫は大切な時期なんだから……そりゃあ私も助かってるけど」
「だったらいいじゃないか。別に邪魔してるわけじゃないんだし」
「そうよね……でもね、ほら、時々政夫の部屋から民子さんの大きな笑い声が聞こえるでしょう。まぁね、私の介護をして息子の食事まで世話してくれるって悪い思いはしないわよ。でもね……」

僕はそこで漸く母の言いたいことが理解できた。しかし、理解できたということが母に伝わらないよう、民子は、僕の意識の中でなんでもない存在だと伝えられるように、まだ何もわからないような態度を取ることが必要だった。

「この家って意外と外まで声が響くでしょ。昨日隣の市川さんがお見舞いに来て下さってね……」

僕は黙って民子が作った里芋の煮物を食べていた。

民子は月・水・金と週に三回、ホームヘルパーとして母の介護にやって来る。まず母が日常生活の大半を送っている寝室を掃除して、母の身体を拭き、昼食と夕食を作るという作業を二時間のうちに終わらせなければいけない。時には母に頼まれてスーパーに買い物に行ったりするので、短い時間でこれだけの作業をこなすホームヘルパーという仕事は、想像以上に大変なのかもしれない。それに亡き父の頑固さが、そのまま妻に乗り移ったような母の相手をしなければいけないその苦労は半端なものではないと思う。

時計を見る。午後一時。そろそろ民子が母の介護を終え、二階の僕の部屋に食事を持って上がってくる。僕は意識の半分は参考書に、残り半分は民子なのか、民子が持ってくる食事なのかわからないけれど、そんな中途半端な状態で机に向かっていた。

コンコンコン。階段を登る音が聞こえ始める。これがコンコンコン、カカコンといったら民子である。尤も、妹が高校に行っている今の時間、この階段を登ることができるのは民子しかいない。母も手擦りを使えば大した苦もなく登れるのだろうけど、リハビリにすら消極的だった母は、退院して我が家で生活するようになってからも、まるで目の前にジェットコースターがあるような目をして、一向に階段を登ろうとはしない。

コンコンコン、カカコン。コンコンコン、カカコン。僕は頭の中で、民子がいつもの段差で少し躓く姿を想像していた。そして、まるで隣室で眠っている赤子を起こさないよう控え目にドアを開け、覗くように僕の様子を窺う民子の姿を想像した。傾いた顔に、黒くて長い髪が床に垂直に伸び、口元に仄かな笑みを浮かべ、小さな声で僕の名を呼ぶ民子を想った。このように、目の前の参考書を離れ、伸びをしながら天井を見上げると、僕は民子の食事を待っているのか、民子を待っているのか本当にわからなくなるのだった。しかし今日はコンコンコンと駆け上がるような足音ではなく、なぜかコン、コン、コンとゆっくりと階段を踏みしめながら登っている足音が聞こえた。

耳を澄ませる。民子がドアの前に立っていることは明らかだった。しかし僕がドアを開ければ、まるで民子を待っていたような格好になり、自ら喜んで招き入れるような形になる。民子が食事を持ってくることは全く迷惑ではないのだけど、少し迷惑な態度を取ってバランスを保つことは僕にとって重要だった。しかし、聞こえてきた音はドアが開く音ではなく、再び階段を降りる音。母の小言のことなどすっかり忘れている僕は、やり忘れた仕事があったのだろうとしか思わなかった。

しかし、それから一ヶ月の間、民子は僕の部屋を訪れることはなかった。時々階下で顔を合わせても、民子は困ったような悲しいような笑顔を浮かべて、そそくさと母の介護に戻るのだった。

ある日の午後、息抜きに散歩でもしようと家を出ようとした時、母から呼び止められた。母に頼まれて買い物に出た民子に障害者手帳を渡して欲しいと言う。買い物の帰りに母の掛かりつけの病院に寄るらしく、そこで障害者手帳が必要らしい。母が僕と民子を遠ざけようとしている気配は薄々察していたが、特に断る理由もなく、むしろ、なぜか嬉しくなって家を出た。

民子は近所のスーパーの野菜売り場に立っていた。僕はすぐには声を掛けずに、手に取ったレタスを呆れるほど長い時間吟味している民子の姿をしばらく眺めていた。民子はまるで貴重品を鑑定するかのようにレタスをあらゆる角度から眺め、首を傾げて陳列棚に戻したり、満足したように頷いて買い物カゴに入れて二・三歩あるいてまた元の場所へ戻り、再びレタスの鑑定を始めたりしていて、僕と民子の距離は三メートルも離れていないのだけど、民子の瞳にはレタスしか映らないらしく、傍でくすくす笑う僕に全く気付かず、いつまでも真剣な顔をして、レタスの鑑定に没頭していた。

「僕には全部同じに見えるけどなぁ」
「まぁ! びっくりした。政夫さん、どうしたんですか」
「母さんに民子さんが買ってくる野菜はいつも傷んでるから、どんな選び方をしているのか見てきてくれって頼まれたんだ」
「いじわる。レタスはね、ほら、芯の切り口が新鮮で軽くて平べったいものが美味しいんですよ。芯が伸びすぎていたり高さのあるものは固くて少し苦味があるから、政夫さんのお母さんには駄目なんです」
「しかしそこまで気を付けなくてもいいと思うけどね」
「食べ物は、すごく、大切なんです」

一瞬、民子の表情から穏やかさが消えた。そして気のせいか少し寂しげな表情を浮かべた後、再び元の表情へ戻り、「どうしたんですか?」と、僕が突然民子の前に姿を現した理由を尋ねた。その尋ねる表情に何かしら期待する感じが込められていたので、僕はそれを否定するために、慌てて母の障害者手帳を渡した。

病院に寄り、母の薬を受け取った後、二人で家に帰った。僕は買い物袋を持つと言ったが、民子はそれを頑なに拒否し、決して軽くはないであろう母の好物の奈良漬や大根や厳選されたレタスが入った買い物袋を両手で持って歩いた。夕暮れに差し掛かる町並みは、歩く人の影を長く伸ばし、陽光は全ての人を温かいオレンジの色で包み込んでいた。買い物袋を掲げる民子は僕と歩く間、一度も笑みを絶やさなかった。夕暮れの温かい光は民子の笑顔も包み込んでいたが、民子の場合、その笑顔から光を放っているような気がした。そういえば、太陽の光を浴びた民子の姿を見るのはそれが初めてだった。それは、いつも参考書に囲まれた薄暗い部屋で見る笑顔とは、全く種類が違っていた。

「民子さん、そういえば最近料理持ってきてくれなくなったね」
「……えぇ」
「最近忙しいの?」
「えぇ、まぁ……」
「それとも母さんの介護に疲れてるのかな?」
「……政夫さん、本当にそうだと思ってるの?」
「何が?」

民子の表情を見て全てを理解した。やはり民子は母から僕の部屋に来ることを咎められていたのだ。いや、わざわざそんな思ってもいない質問をする以前からそんなことはわかっていたのだ。先ほどまでの笑顔が一転して、寂しそうな顔になる。夕焼けは、そんな表情までも際立たせる。僕は民子から顔を逸らし、買い物袋に目を向ける。

「民子さんは、レタスのような人だね」
「え? どういうことですか?」
「芯がね、すごく新鮮で剥き出しになっているんだよ。だからきっと傷みやすいんだ。放っておくとすぐしなびいてしまう」
「失礼ね。でも……当たってるかもしれない。新鮮って意味じゃないんですけどね」

民子は一つ小さな咳払いをした。

「レタスってとても軟弱な野菜なんです。ほら、ちょっとした台風ですぐ値上がりしちゃうでしょ。それに栽培に適した地域って限られてるし……。だから傷みやすいっていうのは、当たってるかもしれない」
「今年も大学駄目だったら、民子さん、もっと傷んじゃうかもしれないね」
「そうですよ。政夫さんのお母さんと政夫さん。あの家は心配ごとばかり」
「じゃあその心配の種を一つでも減らすように頑張るよ」
「はい、頑張って下さい。……レタスってね、あまり保存が利く野菜じゃないんですよ」

僕の胸中は民子の最後の言葉の意味を考えることなく、お互い恋をしているという確信だけで満たされていた。

医学部の試験を二ヶ月後に控え、僕の緊張感が家中に伝わっているようだった。僕は午後に起床し、夜明けと同時に眠るという昼夜逆転の生活が始まり、必然的に民子と会う機会も少なくなっていった。

「何度言ったらわかるんですか!」

一度、母の怒声で目が覚めた。民子がまた粗相をしたらしい。最近の母は、体の調子が悪いのか、僕の試験が近付いているせいなのか、いつも以上に気が立っていた。母の怒声は珍しいことではないが、今日の怒声は明らかに今までの種類とは異なっていた。

しばらくして、コン、コン、コンと、階段を登る足音が聞こえた。民子がやって来る。僕は慰めと励ましの言葉を考え、民子の足音に耳を済ませていた。しかし、つい最近までコンコンコン、カカコンと、段差で躓く音は自然と笑みを呼んだが、コン……コン……コン……と、今日はいつも以上にゆっくりとした足取りで民子は階段を登っているようだった。

カカコン。

階段を躓く音が聞こえた。ゆっくりとした足取りなのに、どうして今日も躓くのだろう。久々に僕の部屋に来るものだから、あの段差のことなど忘れてしまったのだろうか。僕は心配になって、部屋を出た。この前まで部屋を出て民子を迎え入れる行為すら恥ずかしかったが、今は自然に民子を迎えられるような気がした。

民子は階段の上に現れた僕を見上げ、弱々しい笑みを見せた。手すりを使い、自分の体を支えるように階段を一歩一歩登っていた。僕はつい手を伸ばしてしまった。民子は驚いたように、しかしその助けを期待していたかのように手を伸ばした。民子の手を握るのは、これが初めてだった。民子はまるでマラソンでもしてきたかのように息が荒かった。民子の手首から、強い鼓動が伝わる。息が荒い割りには、脈拍が少なかった。

「気分でも悪いの?」
「ううん。大丈夫です……って、大丈夫じゃないかも。また怒られちゃった」

民子は困ったような笑みを浮かべたが、その笑みはただ弱々しさを増強させるだけだった。僕は手を繋いだまま部屋に招き、僕がいつも座っている机に面した椅子に座らせて、僕はいつも民子が座っている座布団の上に腰を下ろした。

「ごめんね。僕がもうすぐ受験だから、母さん気が立ってるんだよ」
「そうですね……。それに私が失敗ばっかりしちゃうから」
「そんなことないと思うよ。半年もあの母さんの相手ができるって大したものだと思うよ」

民子の表情は、長い前髪に隠されていた。今にも泣き出しそうな気がして、僕は頭の中に存在する励ましの言葉を探し続けていた。

「……くださいね」
「え?」
「……合格……絶対、合格してくださいね」
「うん。もちろん頑張るよ。たとえ医者になったとしても我が家の優秀なヘルパーには負けると思うけどね」
「そんなことないです。私、高校も出てないですし……」
「辞めちゃったの?」
「はい。母が心臓の病気で急死して、高校二年で……それからホームヘルパーの資格取って……」
「そっか……」

民子の表情は未だ隠れたままで、泣いているのか、ただ俯いているだけなのかすらわからなかった。ただ、階段を登りきったときのマラソンをした後のような激しい息遣いだけが聞こえていた。

「政夫さん、絶対……絶対合格してくださいね。立派なお医者さんになって下さい」

民子は一瞬だけ顔を上げ、僕の目を見つめた。僕の目に映った民子の瞳は、今にも涙が溢れ出しそうなほど潤んでいた。

「これ……使ってください」

そう言って民子は、和紙に包まれた小さくて薄い、名刺よりすこし縦長の包み紙を渡した。包みをほどくと、押し花で作られたしおりが入っていた。しかし正確にいうとそれは花ではなく、何かの葉であった。

「笑わないで下さいね。それ……レタスなんです。レタスの押し花。ほら、政夫さんこの前、私のことレタスみたいって笑ったでしょ。でもね、レタスって鎮静作用があるんですよ。だから、試験で緊張しないようにって願いを込めたんです」

俯いたまま民子は言った。しかし顔を反らしたままの民子の頬は、少し紅潮していて、その頬の色はそのまま僕の頬にも伝染した。

「ありがとう。大切に使うよ。じゃあ受験当日にはレタス一個丸ごと食べていくよ」
「ダメですよ。ほら、『ピーターラビット』って絵本で、ウサギがレタスを食べ過ぎて寝ちゃうんです。だから政夫さんにはこの押し花にしてあるレタスの葉一枚で充分なんです」

民子はようやく顔を上げ無邪気に笑った。瞳はまだ潤んだままだったが、それは民子の新しい魅力を僕に気付かせた笑顔だった。そして、それが民子の笑顔を見た、最期の時だった。

それから試験までの一ヶ月間、僕は部屋にとじこもり、必死に勉強した。受験のこと以外、一切頭に入らなくなった。食事すらも睡眠でさえ参考書の下敷きとなり、夢遊病者のように虚ろな目で机の前から離れなかった。精神的に追い詰められていた僕は、民子が先月から体調不良で訪問介護を休んでおり、代替のホームヘルパーが我が家に来るようになったことも上の空で聞いていた。

母は体調が悪いのか、新しいホームヘルパーに慣れないのか、民子が来なくなってからというものの、いつも暗い表情で塞ぎ込んで、心なしか、少し痩せたようにも感じられた。しかしそんな母の体調ですらも、受験を控えている僕には大した問題ではなかった。また母を犠牲にして受験を失敗してはいけないという思いもあった。母も僕も傷付くのは、もう終わりにしたかった。

帝東大学医学部の合格発表で、僕の受験番号を見たとき、僕はあのレタスのしおりを握り締めていた。暗いトンネルからようやく脱出できた僕は、ようやく何かから解き放たれ、母よりも先に民子に報告しようと思った。僕は急いで家に帰り、母に形だけのあっけない合格報告を済ませ、母の部屋を掃除していた民子の代替のホームヘルパーに、未だ息を切らせながら、「民子さんは、いつ帰ってくるんですか」と訪ねた。

合格の喜びに満ちた空気が、一瞬にして凍りついた。

ホームヘルパーは顔を曇らせ、窺うように、怯えるように母の顔を見た。母は一度首を振った後、突然大声で泣き出してしまった。僕は訳がわからず、子供のように泣き出した母を視界に入れながら、「民子は、どうしたんですか?」と、視線だけでホームヘルパーに訊ねた。民子の代替は、まるで繰り返し練習されてきた台詞のように、言葉を区切りながら呟いた。

「民子さん、先月、亡くなったのです」

既に合格の喜びは消え去り、去年の今頃、母に不合格を伝えた時以上の重い空気が部屋中に満ちていた。

「私が民子さんを殺してしまったんだよ。私があの日あんなことを言わなければ。自分の体のことばかり考えて、相手の具合を思ってやれなかった私が憎いよ。酷いことをしてしまった。私が民子さんを殺してしまったんだよ」

母は未だ箸を器用に扱うことができない左手で、茶碗すら持てない右腕を打ちながら大声で喚いていた。致死性不整脈。突然死だが前駆症状はあったらしい。母を亡くして一人で住んでいた民子は、僕にレタスのしおりを渡した夜、幼い頃から患っていた不整脈の発作に見舞われ、搬送された病院で息を引き取ったらしい。ホームヘルパーが涙をこらえながらその始終を話し、涙がこらえられなくなったと同時に言葉にならない言葉を呟きながら僕に一通の手紙を渡した。

 

政夫さんへ

胸がドキドキしています。波打った心臓がのどを通って口から出てきそうです。親戚から、死んだ母の若い頃の映し鏡のようだと言われ続けていたのは、この心臓の病気のことだったのかもしれません。

私は、知ってます。ちょっと年齢が違うけど、母と同じ道を歩もうとしていることを。母に似たのは小さな目でも低い鼻でもなく、この不整脈という、よくわからない病気です。

この手紙を書く前に救急車を呼びました。政夫さんが一人でこの手紙を読んでいたら、おそらく私はここにいないのでしょう。

もし、この手紙を読み返すのが私ではなく、他の誰かだとしたら、どうか、政夫さんの受験まで、このことを黙っていて下さい。この手紙を読み返すのが、私だったら、私が直接政夫さんに渡します。

どちらにしても、政夫さんがこの手紙を手にする時が来れば、私が伝えたいのはただ一つです。いいお医者さんになって下さい。そして、私のような人を救ってあげる人になって下さい。

神様が私に、もっと強い心臓を与えてくれたら、もう一つだけお願いごとをすると思います。だけどもう一つのお願い事は、この手紙を渡した時に伝えようと思います。

また一緒にお買いものに行きましょう。一緒に、レタスを選びましょう。いつまでもお母さんを大切に。

民子

 

先刻からの喜びの涙は、悲しみの涙に変わり、その涙は僕の瞳から母に伝わり、母の表情からホームヘルパーに伝わり、僕の膝から崩れ落ちた音を合図に、何重にも重なる慟哭に変わった。

 

―――今でも時々、押し花にされたレタスのしおりを机の引き出しから取り出し、いつまでも眺めている。この部屋にいると、コンコンコン、カカコンと、聞こえてくるのではないかといつまでも耳を澄ましてしまう。

「あまり保存が利く野菜じゃないんですよ」
そして、あの日の買い物帰りに、夕暮れに染まった民子が呟いた言葉を思い出す。

レタスのような民子。民子はあの押し花のしおりの中で、永遠となった。[fin]

歪
WRITER 歪
愛の形は100年前も100年後も変わらないような気がします。でも3日後にコロッと変わったりもします。
URL:歪み冷奴

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周囲の無理解から余儀ない結婚をさせられる民子、その民子から離される政夫。夏目漱石も激賞した純愛小説。
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